CASE.01 - 2
そもそも何故俺がこんな歩く大厄災のお守りをやる羽目になったのか。それは約一週間前に遡る。
この国において、平安時代の役場にあったであろう──そんなネーミングセンスの省庁が未だ現役なのは、神や妖の如き存在が実在するという所にある。
俺はそんな陰陽庁と螺旋捜査部という組織に二足の草鞋を履かされ、まるでレンタルビデオの如く貸し借りされる日々を送っていた。
俺が一人で立つ神楽殿の天井には、大蛇のような姿ではあるが美しい鱗と尾鰭、飾り鰭を水流に漂わせて泳ぐ海の龍の姿があった。俺は天井の龍へ向かって銀色の
単純に舞えれば良いという儀式でも無いから、俺が選ばれたのはよくわかっている。
女装した神巫がいるのだ。
それに、この水天宮に祀られる存在と縁が深い血脈の人間である必要があり、そんな尊ぶべき血の持ち主で、簡単にこの役を引き受けてくれそうな「使い勝手のいい奴」なんて、俺以外にいるはずもない。
涼やかな顔を浮かべて、脳内では上司の顔を殴り飛ばす妄想をしながら、一歩。つま先から素足を踏み出してふわりと床に足をつけて回転し、鈴の尾についた長い紺色と緋色の紐を尾鰭のように空中で舞わせる。俺の足と雅楽の音色が重なり合う。
御簾によって遮光された薄暗い神楽殿の中で、俺は只々決められた通りの動きを繰り返す。幼い頃から好きでもないのに厳しく叩き込まれ、神巫として事あるごとに呼びつけられて、決して望んでこんな役目を担うわけではないが、やらなきゃならねえのは事実だった。
雅楽の演奏が止まる。数十分間に及んだ、一年のうち最大の苦行が終わった。
漸くこれで解放される。
眼前の御簾がそっと持ち上げられて、俺は摺り足でそちらへ向かう。引きずる単が全て御簾の向こうへ届いた時、さっと下ろされた。
「ご苦労様。無理言って悪かったね」
陰陽庁の上司がそう言って笑った。見かけは同世代だが、そもそも背も低いから幼く見られがちなこの男──
「あんたが無茶苦茶を押し付けてくるのは、今に始まった事じゃねえでしょ」
「? 俺はそんな、咲良に無理難題をふっかけたことはないはずだけど?」
嘘だろこの男。本気で言っていやがる。俺はあからさまに「うげえ」という表情を作って上司を見返した。
「今度はなんすか」
俺は肩をぐるぐると回しながら言う。上司は困った様に眦を下げていたが、決して困っているわけではないと言うことは手に取るようにわかった。
「着替えたら執務室に来てくれる? ちょっと重要な話があるんだ」
なんでも俺に押し付ければいいとでも思っているのだろうか? いや、この男の事だ──恐らく本気で何も考えていない。寧ろ善意のつもりまであるだろう。この瀬川迅一というクソ上司はそういう男なのだ。
とは言え、どれほど文句を連ねようと瀬川ができる陰陽師である事は間違いなく、彼の差配に逆らうともっととんでもない目に遭うのは経験上分かっていた。俺は必死に怒りを噛み殺して、「は」と「い」の平仮名二文字を絞り出した。
「これは俺が、というよりも、君の本来の居どころである螺旋捜査部の案件でね」
瀬川はそう切り出す。ポケットから目薬を取り出し、無遠慮に点す。瀬川は特に気にせず資料を繰った。
「わざわざ俺にですか。陰陽庁へ出向しろっつったのは向こうなのに、もう呼び戻すのかよ」
「まあまあそう言わずに。これは特A禁忌案件だよ」
俺はその言葉に一瞬息を忘れた。
特A禁忌案件。存在は知っていたが本当にそんなもんが俺の元に転がり込んでくるとは。体よく面倒事を押し付けられただけの様にも思える。だが多分わざわざ俺を、という事は。
「神秘案件ですか」
「そうだとも言えるし、違うとも言える。医学特区の詳細は流石にわかるよね」
瀬川はデスクトップパソコンを操作して医学特区の概要を俺の方へ見せた。
「馬鹿にしてます? 自分の職場の概要が分からんはずがないでしょう」
「ごめんごめん。だよね。簡潔にいうとこれは、九州のいとしま医学先進特区で進行してる案件でね。ある人物の監視任務なんだ。すでに一人、五年前に着任した螺旋捜査官が、彼女の監視についているんだけど……」
「まさか消されたとか言いませんよね」
俺は眉根を寄せて画面に表示された〈いとしま医学先進特区〉のホームページを睨みつけた。
「まさか! 消されてなんていない。これまでも彼女に対しては複数人で監視業務を行うことが上の会議で決まってる」そして言いづらそうに眉を下げ、「……でもその、何というか。五年前に着任した捜査官は兎も角、人員補填で入る捜査官たちがね、それはもうコテンパンにされて、心を折られて〈もうあの人の元にはいたくありません〉と泣きながら帰ってくる。とにかく舌が立つ御仁なんだ」
「はあ」
俺はいまいち飲み込めずアホみたいな返事しかできなかった。舌が立つ御仁。地元の大物政治家か何かなのか?
瀬川は再びパソコンを操作してその人物の資料を提示した。燃える様な赤毛に、左右で色の異なる瞳。左目の下には泣き黒子がある。一般人に紛れても一瞬で見つけ出せるほど、かなり目立つ容姿だ。
俺は写真の女性に己の師を幻視した。とてもよく似ている。瀬川は再び口を開いた。
「彼女に関しては色々、俺レベルでも明かしてもらえていない事が多くある」
「瀬川さんにまで、ですか?」
「それに関してはまあ、今はいいんだ。とにかく、咲良にはこの四宮椿女史の監視任務に就いてもらう」
「その……四宮椿って、何者です?」
俺は堪えきれずに問いかけた。
「いとしま医学先進特区内にある、東都医科大学附属病院に所属する総合診療医。そして大学内に自分の研究室を持っている研究医でもある。階級は準教授。彼女の研究はデジタルデバイスに人間の意識を抽出し、移植する〈電脳化技術〉。どうもこの研究が特A禁忌に指定されているらしい」
「電脳、って……攻殻機動隊じゃねえんだから……」
俺は思わず敬語も忘れてぼやいた。
「世界を見渡せば〈電脳化〉というSFチックな技術は盛んに研究がなされている分野の一つだよ。まあ四宮女史のように、人間の意識を別の匣に移し替えてしまおう、みたいな事を考えている人は少数派のようだけど」
俺はふと目にしたニュース記事の見出しを思い出した。電気自動車か何かを開発している会社が、脳インプラントの開発に乗り出す──そんな話だったはずだ。元医者の立場から言わせてもらえば、脳にそんなものを埋め込むなんて、正気の沙汰とは思えないが。
「彼女に打ちのめされて、泣きながら帰ってきた螺旋捜査官はこれで九人目。これは彼女からの最後通牒かもしれない」
「本当に……一体何なんですか? つか何でそんなめちゃくちゃな奴を収容せず、医学特区で野放しに」
俺は腕を組んで息を吐きだす。瀬川は俺の質問に答えることは無く話を続けた。
「彼女は特別な存在なんだ」
瀬川は珍しく難しい顔をして、柔らかいフェイクレザーの執務椅子に背中を深々と預ける。
「……彼女は天才だ。だから先に螺旋捜査官の方が根を上げる。ついていけないらしい」
「ついていけないって、それどういうことですか」
「彼女は螺旋捜査官に高度な知識を求めている」
瀬川は静かに言った。
「四宮女史の能力についていけるだけの人材は……。でも君がいる。君は病院で外科医として働いて、実際に何人もの患者を救った実績がある」
瀬川は冷ややかに告げた。俺は思わず黙りこむ。
草臥れた自分の革靴を睨みつける。公務員の安月給じゃ東京で生活するにはカツカツだった。
「君がこの仕事を受けてくれたら、特別手当が出ることになっている」
瀬川はそう言って机に置かれていた黒いファイルをペラペラと繰った。
「まあ、大雑把にはボーナスが二倍だと思えばいいさ。当然だがまず家賃は全額補助。それから時間外労働時間は一分単位で給料が支給される。医療行為を行った場合はそれに準じて加算だ。全額国から出る」
「そう言われても、俺は……」
俺のあからさまな表情を読み取って、瀬川は言葉を重ねる。
「当然だが、年一回の水天神楽の奉納は続けてもらう。それに伴う飛行機代、ホテル代、拘束時間に応じ給料も発生する」
悪くない条件だろ? と瀬川は口角を釣り上げた。目の前に一枚の紙が差し出される。
辞令だ。螺旋捜査部のさらに上、医学特区評議会の印が押された。これ以上は無駄な足掻きにしかならない──俺は白旗を上げる。
「……承知しました」
しかし俺はこの後、この選択を死ぬほど後悔することになる。
だがその事を、この時の俺は知らなかったのだ。おめでたい話である。
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