CASE. 01 緋色の邂逅

CASE.01 - 1

 紙きれ一枚で俺の人生は決まっていく。

 それを突き付けられた時、俺は足掻くのをやめた。


 与えられた任務は、とある人物の監視──それだけ。たったそれだけの為に、俺はここへ飛ばされた。


 だがそれだけではないということも、腹立たしくはあるが理解している。

 東都医科大学──その附属病院。そこは俺が医者になるため六年間学んだ学舎であり、研鑽の地であり、尚且つ正直戻って来たくはない場所だった。

 フロアマップに目的地の名は無い。ろくでもない場所にあるのは想像がついたが、虱潰しに探すのは非効率的である。


「あの──」大病院の受付、そこに座るにこやかな女性へ声をかける。「総合診療科、」

「一階です。ご案内しましょうか」

「あ、いえ。……あの、総合診療科〈外来〉を探していまして」

「えっ」


 露骨に受付の顔が曇る。「あの先生よね?」だの「ええ、たぶん……」だのと声をひそめて何かを確認し合った後、彼女らはこちらへくるりと振り返った。


「あの~~……、その~~……、こちらではなくって」

「はあ」

「学部棟の、八階です」


 聞き間違いか? いや俺の耳は正常らしい。受付の二人から憐憫の視線を受け取りながら、俺はその場を後にする。そんなに俺は可哀想に見えるのだろうか。

 八階には渡り廊下がある。俺が厚生労働省に入る以前、この病院で研修医をしていた頃。変わっていなければ、同じ階には心臓血管外科の医局もあるはずだ。その医局を目印に、俺は学部棟に繋がる渡り廊下を歩く。



「……、これか?」



 どこからどう見ても外観は研究室だ。ドアの傍から突き出したプレートには〈合成医科学教室〉の文字。医用工学か生化学に寄った研究がなされているのは想像がついた。


 ドアの傍に貼られた貼り紙には、「節電」と書かれている。さらにその上には、厚労省お手製──健康診断の貼り紙があった。なんやそのラインナップ。

 特筆すべきはその扉だ。A4用紙に手書きで〈総合診療科・外来〉と書かれたペラ紙が、雑に細切りにされたガムテープで貼り付けられている。


 ノックをするが返事は無い。もう一度、今度は強めに扉を叩く。だが声ひとつ、音ひとつ返ってこない。


 俺は恐る恐る扉を押し込んだ。建てつけが悪くなっているのか、二度ほど引っ掛かる。部屋の内部は医局と呼ぶには狭く、だが診察室と呼ぶには広すぎる。まるで実験室を無理やり改造したかのようだ。


 その部屋には一人、女性がいた。


 椅子にふんぞり返って煙草をふかしている。仮にも医局であるのなら流石にこの場で喫煙は自重すべきだろう。というか、東医は敷地内全面禁煙のはずだ。

 エメラルドグリーンのドクタースクラブに真っ白な白衣。ボブカットの赤い髪。

 あまりにも無気力というか、脱力しきっている彼女にそっと近づいてみる。俺が部屋に入ってきたことすら気づいていないのか、彼女は鶯色のオフィスチェアーに体を預けたまま天井を虚ろな目で見ていた。


 近場の机に自分の荷物を置いて、彼女を再び観察する。

 まさか──大麻? 俺は背筋に嫌なものを感じ取った。だとしたらこの症状にも説明がつく。

 ぼんやりとした虚ろな視線。微かな手の震え。症状から考えれば薬物乱用だ──薬物を堂々と医者がやっている? 莫迦な。恐々と彼女の様子を確認して、 


「残念ながら私は薬物中毒患者ではないぞ」

「うお⁉」


 双眸がこちらをじいっと見ている。瞳だけがギョロリと動くので恐ろしくもあったが、不思議と嫌悪は感じなかった。

 間違いない。この女こそ、〈医学における万能の天才〉と呼ばれる総合診療医。


 ──四宮椿しのみやつばき



「お前が螺旋捜査官らせんそうさかん市ノ瀬咲良いちのせさくらか」

「そう、ですが。いやあの、」

「そう固くなるな。敬語は不要だ」


 彼女はそう言って片足を太ももへ置いた。やたら尊大な態度が鼻につく。単純に面食らっているのもあるだろう。しかし天才と持て囃される人物がこんな小娘だとは思わなかった、というのが正直なところだった。


「少し評価を改める必要がありそうだな。もっと普通の人物だと思っていたが……違うらしい」

「は? 俺は……普通やろ」


 俺は思わずむきになって否定した。自分自身の出自を、己に刻まれた呪いを見透かされたような気がしたからだ。


「お前は私を観察した。目の前にある事実をそのまま認識するのではなく、多角的に見ようとしているのは、医師として実に良い傾向だ」

「ちょっと待て。本当に大麻なんやないやろうな? それ」

「メビウススーパーライトだ」

「安心した……」


 俺はほっと胸を撫でおろす。彼女は再び瞳だけを器用に動かしてこちらを見た。


「興味深い事を言うな。何故そう思った?」


 そんなことを言って彼女は長い脚を組み、両手を胸の前で合わせた。

 変な奴やな、と思うがとりあえず話に付き合うことにする。


「大麻は日本じゃ手に入らん。……世界から注目を集める天才が、そんなもん吸って己の才覚を持ち崩していくとは思えん」


 四宮椿。彼女は世界から脚光を浴びている。〈医学における万能の天才〉という二つ名が、それを象徴しているだろう。


 しかし一切顔を出さない側面から随分とミステリアスな扱いを受けていた。突拍子もない物から絶妙にありそうなものまで、様々なうわさが飛び交っている。

 そんなことを思い出しながら、ちらりと横目に彼女を伺う。彼女は非常につまらなさそうな表情で、左右で色の異なる双眸を俺に向けた。


「それだけか?」

「え……あ、ああ、まあ」

「まあ、いい線だ」

「は?」


 何を言っているのかわからずにそんな返事をする。四宮はどこか、小馬鹿にしたように鼻で笑った。


「確かに、あらゆる薬剤は治療を行うために試した」


 内心頭を抱える。なんやこいつ。人生三十年ほどの中で、本気で困惑していた──その様子を見て緋色の女は楽しそうに形の良い唇を横へ引いた。


「いい反応をしてくれて嬉しいよ。全部冗談だ。煙草を吸ったのは今日が初めて。お前が喫煙者であることはとっくの昔に把握しているからな」

「あ?」


 俺は思わず呆けた声を上げる。す、と赤い視線がこちらを捉え、心臓を掴まれたような──酒で胸やけしたときのような不快さが全身を駆け巡った。


「日常的に煙草を吸うだろう。一日二、三本ペースで」


 前髪を掻き上げて、椅子から勢いよく立ち上がる。白いスリッポンがぽすぽすと、彼女の剃刀のような声音とは裏腹に軽快な音を立てる。


「最初はニコチンの少ないものを吸っていたが、それでは満足できずニコチンの濃いものに変えた。運動習慣は外科手術に耐える為だけのマラソンと週三回のジム。最近、女と別れた」


 そして突如顔を首元へ、俺のうなじあたりをすんすんと嗅いだ。


「相手が浮気していたか。甘い香水の匂いが嫌いなのはそのせい」

「ゔ⁉」

「シトラス、ベルガモット、そしてレモングラス。これは昔の恋人からの贈り物が最初。香りが好みだったから継続して購入し使用している。だがそれが決定的な、相手の浮気の原因に」

「ちょ、ちょっと待てや! 何で……そんなことが……?」


 俺は顔を引きつらせながら椿に向かって叫ぶ。彼女は左右で色が違う瞳で彼をじっと見つめている。その奥にある泉の如き叡智に、少し眩暈がしていた。


「観察すれば大抵の事はわかる。私はあらゆる情報を見逃すことはない」

「か、観察……そんな俺のプライベートなことまでどうやって」

「もう少し明かしてやろうか?」



「拳銃を扱う心得があり、加えて右手の親指付近にある黒子は先天的なものではない。扱ううちに火薬が入り込んでできたものか。……ふむ。お前、かなりしっかり戦闘訓練を受けているな」


 四宮はそう言って背後へ回り込み、俺の背中に軽く右手をそっと当てる。


「それ、は、そうやけど。いや待て!」

「──他にもわかるぞ。腕時計は安物をずっと使っている」


 恭しく手を取られて、美しい顔が俺の手に寄せられ──離される。あっけにとられていれば、四宮は俺の脳が再び回転を始めるよりも先に演説を再開した。


「それと。ああ、お前──元外科医だろう? 喜ぶといい、東医の救急は万年人手不足だ……きっと歓待を受けるぞ。猫の手としてな」


 推理を一頻り披露して満足したのか煙草を唇へあてがい、紫煙をふうと吐き出す。

 何なんやこいつ。まるで探偵活劇映画の中から、そのまま出てきたような女。

 そう思って、彼女のもう一つの異名を思い出した。


 ──〈忌まわしき名探偵〉。


 俺は彼女の観察眼(というか、スキャナーに読み取られるような気持ちだったが)に驚きつつ、どうしても一つだけ納得できなかったことを口にする。


「……一つ、間違いがある」

「聞こう」

「時計は死んだばあちゃんの形見だ。当時は相当な高級品だった」

「ああ失敬。誤認していた」


 無表情のまま四宮はそう言った。明らかに形式上自分の推理の過ちを認めた、という風ではあったが、この天才は存外人間の心の機微を理解しようと努めてはいるらしい。


 確かにとんでもない才媛なのだろう。そうであるならばこんな狭い場所で燻っておらず、世界へ出ていけばいい。だがそうはならなかった。彼女はこのいとしま医学特区という場所に係留されている。そして椿はそれを見透かすように、


「気になるか?」


 不敵な微笑みを浮かべた。瞳の奥で瞬く、どす黒い知性を感じ取る。


「まぁ、多少は」

「やはりお前は面白いな。私にこれだけプライベートを暴露されて怒らん者も珍しい」

「……怒っても仕方なかろうが。全部事実なんやけ」


 不貞腐れたような口調になって、唇をへの字に曲げる。

 ふと視線を動かし──気づいた。彼女の左手、人差し指と薬指に挟まれたままの煙草は長い。つまりここへ来る直前から吸い始めたということだろう。


 彼女は俺を揶揄うために、わざわざこの部屋で煙草をふかしていた。


 俺はその結論へ至る。そしてそれと同時に、じわじわと何か、口腔内に苦い味が広がっていく。

 これが何なのか、出涸らしの煎茶を飲まされた時のような、指にできたささくれがちくちく痛むような──微妙に気になる、いやな感覚。


「それを正しく認識できない者の方が圧倒的に多いという事だ。大抵私にあらゆる事を暴露された患者や医者は、」

「……〈黙れ! その口を閉じろ!〉って罵倒すんだろ」


 そう言ったとき、俺はこの目の前にいる女に腹が立っていることに気付いた。


「正解だ」

「じゃあ同じこと言ってやるよ。……人の秘密好き勝手ベラベラ喋りやがって。その口縫い付けてやろうか。デリカシーどこにおいてきたんかちゃ、このクソアマ」


 四宮は俺の言葉に、一瞬呆けた顔をして固まった。だが次の瞬間、


「ああ。怒りの瞬発力がないんだな。理解したよ」


 この女には凡人が何を言っても無駄だと本能が告げている。

 そして同時に──


 こいつの相手をまともにしとったら、禿げる。


 俺はそう確信した。

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