序戦 (2)

 数日前──。


 部屋には乾いた土にも似た匂いが漂い、薄暗い照明の下、古びた掛け時計が一定のリズムで時を刻んでいた。


 ノックスは机に肘をつき、両手で額を支えながら、無言で盤を睨みつけていた。  翡翠の瞳が、盤上を射抜くように凝視している。


 一見すれば、それはただのチェス盤に過ぎない。  

 だが、駒の一つひとつが淡い魔光を放ち、その配置には目に見えぬ緊張感が張り詰めていた。


 何かが起こる──。  

 そう予感させる不安定な熱気が、盤の上には立ち込めていた。


「……なんなんだよ、これ」

 ノックスは不機嫌そうに眉を寄せ、試しに一つの駒を押し出した。  

 その瞬間、盤面が赤く明滅し、駒は弾かれたように震えながら別のマスへと滑っていった。


「……意味が分からない。魔界の連中、なんでこんな悪趣味な遊びを思いつくんだか」

 呆れたような独り言が漏れるが、対局側に座る牛頭の巨漢──タロスは、微塵も動じていなかった。

 彼の巨体は部屋の空間を埋め尽くさんばかりで、暗がりの中、漆黒と褐色の毛並みがより重厚な輪郭を描いている。  

 堂々とそびえ立つ双角は、わずかに前方へと傾いていた。まるで、深淵の思索にふけっているかのように。


「それは、ただの盤ではない」  

 タロスの低く響く声には、聞く者の魂を鎮めるような重みがあった。

「そして……駒もまた、単なる石ではない」


 ノックスは顔を上げ、苛立ちを隠さずに訊ねた。

「違いなんて分かんないよ。ルールも無駄にややこしいし、悪意の塊にしか見えないね」


 タロスは答えず、太く無骨な指で盤の縁をそっとなぞった。  

 その動きは驚くほど繊細で、指先の一つひとつが盤に眠る律動を感じ取ろうとしているかのようだった。


「……必要なのは、『虚勢』だ」

「……は?」ノックスは毒気を抜かれたように目を丸くした。

「虚勢──すなわち、ブラフだ」


 タロスは静かに頷く。

 彼は攻撃型の駒を一つ手に取り、盤の中心へと移動させると、再び口を開いた。


「この駒たちは、単なる道具ではない。  

 使い手の意志に感応し、その決意を糧とする。  

 敵が見ているのは駒そのものではない……それを動かすお前自身の『覇気』だ」


「なるほどね……つまり、ルールなんて知らなくても、いかにも強そうに振る舞えば勝てるってこと?」


「……半分は正解だ」

 タロスは喉の奥で、低く短く笑った。

「無論、ルールは基礎だ。駒の性質とことわりは理解しておくべきだろう。

 だが──勝敗を分かつのは、それだけではない」


 彼は盤の隅に配された罠型の駒を、指先で軽く弾いた。


「お前が追い詰められたと敵が確信したその瞬間……。  

 お前が微塵も動じなければ、相手は己の判断を疑い始める. その疑念こそが毒となる」


「なるほど……。盤上での心理誘導、か」

 ノックスの目が細められ、ようやく盤の持つ「意味」に興味が湧いたようだった。 「力のぶつかり合いじゃない。  

 ──精神こころを削り合う『博弈ばくえき』だ」


 タロスはゆっくりと背もたれに体を預け、剛腕を胸の前で組んだ。

「そうだ。これは心理戦を超えた戦いだ。  

 一手ごとに、相手の自信という名の城壁を削ぎ落としていく。  

 迷いが生じたその瞬間に、そいつの敗北は決定している」


 ノックスは、そっと支援型の駒を攻撃型の側へと寄せた。

 まだ手つきには危うさが残る。


 だが、その口元には不敵な余裕を感じさせる微笑が浮かんでいた。

「……つまり、俺が『完璧な支配者』を演じきれば……。

 中身がどれほど穴だらけでも、相手は勝手に自滅してくれる、か」


「……ようやく理解したようだな」

 タロスの声に、わずかな満足が混じる。

「この駒たちが映し出すのは、お前の内面そのものだ。

 不安があれば、駒は揺らぐ。

 だが……心を凪の状態に保ち、意志を貫けば、盤そのものがお前の手足となるだろう」


 ノックスは何も答えず、ただ無言で次の一手を指した。


 その瞬間、駒がカチリと硬質な音を立て、低く共鳴うなりを上げた。  

 まるで、あるじの覚悟に応えるかのように──。

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