悪魔伝承 —— 魔王選挙とか、俺たちに向いてない気がする

雪沢 凛

魔王選抜、第一局

序戦 (1)

 魔界の夜は、果てしなく深い。  

 紫紅に染まった空は、死にゆく星の残光のごとく低く圧しかかり、大気に得も言われぬ圧迫感を与えていた。


 深淵の虚空に浮かぶのは、巨大な闘技場。  

 その周囲を、音もなく蠢く黒霧が取り巻いている。霧の中で時折明滅する光は、声すら失った魂の嘆きのようにも見えた。


 闘技場の中央に鎮座するのは、巨大な黒曜石のばん。  

 盤面からは禍々しい赤光が漏れ、その縁には判読不能な古代文字が刻まれている。まるで、これから始まる試練の残酷さを囁き続けているかのようだ。


 盤上には、宙に浮かぶ十六の黒いこま。  

 それぞれが固有の紋様を刻み、生まれながらにして絶大な魔圧まあつを纏っていた。


「次局──ノックス、対クロード」


 試練官のしわがれた声が、闘技場に重く響き渡る。  

 その一言で、場の空気が爆ぜるように緊張した。


 黒曜石の盤が暗赤色に燃え上がり、一メートルを超える巨駒きょくまたちが静かに震えだす。今にも動き出さんとする魔力の波動が、空間そのものを震わせていた。


 ノックスは盤の片側に立ち、翡翠ひすいの瞳で盤面を静かに見つめる。

 そして、視線を対局者──クロードへと向けた。


 クロードは盤の縁に不遜な態度で肘をつき、嘲るような笑みを浮かべていた。  漆黒のロングコートは左右非対称の裾が膝下まで伸び、肩や袖にあしらわれた赤黒い魔紋まもんが、彼の動きに合わせて不吉な光を放つ。


 クロード。魔界でも屈指の実力を持つ、高位魔族。  

 長身で痩身、剃刀のように鋭い銀髪を揺らし、その紅蓮の瞳には残忍な光が宿っている。それは、獲物の価値を値踏みする捕食者の眼差しだった。


「……ハーフだと?」  

 クロードが鼻で笑い、芝居がかった嘲笑を浴びせる。

「試練官、冗談は顔だけにしてくれ。こんな『混じり物』が相手とは、何の趣向だ?」


 指先でリズミカルに盤を叩くその仕草は、盤上のすべてを支配しているという絶対的な自負に満ちていた。


 対するノックスの佇まいは、対照的だった。  

 燃えるような赤髪の中に、ひと房だけ雪のように白い髪が混じっている。その異質なコントラストが、彼の冷静な横顔に底知れぬ深みを与えていた。


 翡翠を嵌め込んだような瞳は、闇の中でも妖しく光を湛えている。  

 人間と見まがうほど白い肌を持ちながら、その身からは魔族特有の濃密な魔力が滲み出していた。


 ノックスの装束は、魔界の様式とは異質だった。  

 体に馴染む黒のシャツ、捲り上げた袖の隙間から覗く淡い光の符紋──それは沈黙の護符のように彼を守っている。  

 その上に羽織ったダークカラーのロングコートが、微かな魔力の奔流に揺れていた。


 ノックスがゆっくりと盤へ歩み寄る。  

 黒のブーツが黒曜石の床を叩く音が、静寂の中に響く。


 自然体でありながら、一歩一歩に一切の迷いがない。  

 その背中には、圧倒的な自己の確立と、計算し尽くされた余裕が宿っていた。

 片手をポケットに突っ込み、もう片方の指先で、無意識に太腿を軽く叩く。

 それは、既に勝利への道筋を描き終えている者の仕草だった。


「ルールは単純だ」

 試練官が手を掲げると、盤上の中央符紋が一斉に赤く輝く。

 その光が蔦のように盤全体へ広がり、緊張が極限まで高まった。


「各々、八つの駒を操れ。行軍には魔力、あるいは命を消費する。  

 目標は──敵の完全沈黙。行動不能に追い込むか、あるいは投降サレンダーさせるか。それが勝利の条件だ」


「……ハンデでもやるか?」  

 クロードが肩をすくめて嗤う。

「慈悲だ、駒の二つや三つ、減らしてやってもいいぞ?」


 だが、ノックスはただ静かに微笑んだ。  

 そのあまりに平穏な笑みは、逆に氷のような冷徹さを感じさせる。

 額にかかる白髪を無造作にかき上げ、彼は盤に視線を戻した。

「いいよ、全力で。……その方が、早く終わる」


 クロードの笑みが凍りついた。紅い瞳に、苛立ちの火が灯る。

「ほう──なら、思い知らせてやろう。本物の『対局』って奴をな!」


 試練官の手が振り下ろされ、滞空していた駒が轟音と共に盤上へ着陣する。

 赤黒と紫紺、二つの色彩が火花を散らすように盤面を塗り分けていった。


「先手はくれてやる。好きに動け」

 クロードが気怠そうに手を振り、薄ら笑いを浮かべる。


 ノックスは応えず、ただ盤面を支配することわりを見据えた。

 彼の陣形は、三角形を成す正統派の防御陣──クラシック・デルタ。  

 先陣に攻撃型、後方に二体の支援型を配す。  

 堅牢でありながら柔軟。それは防御の仮面を被った、熾烈な反撃の予兆だった。

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