第9話 ほのかな芽
秋の朝は、どこかもの憂げで柔らかい。窓外の街路樹は少しずつ色づき始め、薄霧をまとった空気には、落ち葉の湿った匂いが混じっていた。オフィスの中はまだ静かで、デスクライトの温かな光だけが淡くひとつ、またひとつと灯っている。彩がひとり、デスクに広げた資料を整理していた。
俊介はコピー機の前で、その姿を偶然見つけた。
「おはようございます、彩さん。もう出社されてたんですね」
彩は顔を上げ、小さな笑みを浮かべた。朝の光が東の窓から斜めに差し込み、彩の髪先を淡い金色に染めていた。
「おはようございます。資料に目を通したくて……佐伯さんも早いですね」
その日の朝は、俊介もいつもより早く会社に来ていた。冷たい風がコートの裾を揺らす中、背中に感じる秋のひんやりとした気配が新鮮だった。たまたまではあったが、その“たまたま”が今は嬉しかった。彩と出会える時間が、少しだけ長くなるようで。
午前中、会議室の窓を通して見える街路樹は紅葉を彩り、赤や橙、黄金色の葉が揺れていた。机の上ではコーヒーの湯気がゆるやかに立ち上り、紙をめくる音が静けさの中に響く。意見が分かれ、参加者の声が重なる中、彩が手を挙げた。
「この案ならクライアントの意向にも合うと思います。この部分を補強すればもっと説得力が増すのではないでしょうか」
その発言を聞いて、俊介は胸がざわついた。彩が自信を持って話す姿は、以前よりずっと強く、美しく感じられた。外の空には雲が薄く広がり、光が控えめに部屋を照らす中、その姿はよりはっきりと浮かび上がって見えた。
昼休み。食堂の大きな窓越しに差し込む昼の陽射しは穏やかで、外の木々の影がテーブルに揺れていた。二人は隣のテーブルに座った。仕事の話題が続いたが、ふと彩が問いかける。
「佐伯さんは、どうしてそこまでこの仕事にこだわるんですか?」
驚きながらも、俊介は答えた。
「……前なら、自分が失敗すると怖くて逃げてた。でも今は、先輩の石川さんがいなくなってから逃げずに向き合おうと誓ったんです。彩さんや仲間の支えを実感するようになってから」
彩は少し黙ってから、柔らかく微笑んだ。
「それ、すごくいいと思います。私、そういう人と仕事がしたいですから」
午後、トラブルが訪れた。取引先からの仕様変更で急遽修正が必要となり、締切が迫っていた。外の風は冷たく、雲行きが怪しくなり、窓ガラスに時折弱い光が反射する。チームは焦りを見せ始める。
「この部分、少し文章を簡潔にできますか? より明快にした方がいいと思います」
彩がそう告げ、二人でモニタに向かいながら修正を進める。彩の提案する言葉の選び方やレイアウトが、夜が近づいたオフィスの中で、心強い灯りのようだった。夕暮れが窓の向こうに染まり、空が茜色から藍色へとゆっくり変わっていく。
仕事がひと段落した夕方、窓外には落ち葉が吹き寄せられ、街灯が淡い光の輪を描き始めていた。彩がふと窓の外を見ながら言った。
「夕焼け、綺麗ですね。忙しいとつい見落とすけど、こういう景色を見ると心が穏やかになります」
俊介はその言葉を嬉しく思った。夕陽に染まるビルの輪郭が淡く、秋の風がホールを通り抜けるような気配があった。景色を共に見ることが、それだけで心が満たされるようだった。
帰り道、会社を出ると彩と一緒になった。舗道には秋の落ち葉がうっすらと積もり、夜風はひんやりして、湿ったアスファルトに落ちる葉のかさかさという音が、静かなメロディのように耳に残る。夜空にはうっすらと雲が浮かび、街灯の光がぼんやりと通りを照らしていた。自然と歩くスピードが揃う。沈黙の中で、お互いの存在がじんわりと近く感じられた。
「今日、一緒に帰れてよかったです」
彩の声に、俊介ははっと振り返る。
「俺も。なんだか……安心するんですよ、彩さんがそばにいると」
その言葉は、照れくさく混じった温かさの告白のようだった。彩は驚いたように笑ったが、その目には確かな優しさが宿っていた。
――この関係が、ただの職場仲間で終わらない予感。その予感が、胸の奥で小さな芽となって、秋の乾いた風に背中をそっと押されるように育ち始めていた。
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