月夜の犯罪者

武田武蔵

月夜の犯罪者

 俺は、ここ迄強かな男を見た事がなかった。


 この監獄に収監された時。彼は唇に笑みを浮かべ、鉄球の繋がれた枷が己の足に着けられる様を見ていた。その態度に対して、不思議そうに上官に問うと、その上官は腕を組み直し、


「思想犯なんだよ、彼奴は」


 と、言った。


「思想犯ですか?」


 俺は質問を重ねる。


「あぁ。帝国の最も嫌う思想――民主主義を掲げる団体の教祖さ」


 上官は組んだ腕を変える。


 この時、俺は彼が何を言っているのか判らなかった。民主主義。それがどういったものなのか。尋常小学校では、習わなかったからだ。


「民主主義とは?」


 羞恥に染まる己の頬を知りながら、俺は聞いていた。すると上官は、


「現世におわする神――天皇様を、否定したのさ」


 下らない。そう言いたげに答えた。

 やがて、思想犯は独房に投げ入れられ、彼を連れてきた監視達も、ここから去っていった。


「貴様が此奴の世話係だ。精々思想を乗っ取られないようにな」


 上官が俺の背中を押した。

 残されたのは、今や鉄球で足の自由を奪われた思想犯と、その世話を任された未熟な見張りだけだ。彼は床に腰を下ろし、俺を上から舐めるように見た。そうして、口角を引き上げ、


「やぁ、初めまして」


 と、言った。


「は、はぁ……」


 俺は躊躇いながら答える。


「君は、俺の事を真っ直ぐに見るのだな」


「……え?」


 俺は首を傾げた。確かに、牢獄の薄暗い中で辛うじて見える彼の瞳の中には、俺の姿が映っている。男は背を伸ばす。


「余り、俺の事をそんな純粋な眼で見る奴はいない。大抵、どこか虚ろな眼差しの中で生きてきた」


「それは……」


 俺は戸惑っていた。彼は、教祖のような存在ではなかったのか。俺が唯一学んだのは、宗教団体の教祖は、大抵は己を盲信する団員に崇められてきたと言うものではないのだろうか。


「まぁ、気にしないで良い。よもや、俺よりも年下だろうか? 君、高等学校は?」


「出ていない」


「成程。未だ田舎から出てきて間もないか? 軽く訛りがあるな。それも、良い所だ。宜しく」


「……宜しく」


 男の言葉に揺れながら、俺は声を震わせた。

 完全に、彼の虜になりそうになる。その声色、眼差し、痩せ過ぎた身体、そうして、夜をまとったかのような漆黒の髪。俺は生唾を飲み込んで、彼に背を向けた。


「また、夕食時に来る」


 それを悟られまいと、俺は声を殺して言った。


「夕食が出るのか! ここも捨てたものではないな」


 彼は笑う。思想を乗っ取られるな。上官の、その言葉が脳に谺していた。


 やがて日は沈み、監獄にも夜が来る。厨房係から夕食を受け取ると、俺は彼の元へと足を運んだ。

 彼は、牢獄の石壁を背もたれにし、束の間の夢を見ていた。


「夕飯だ」


 俺が言うと、男は顔を上げた。


「もうそのような時間か。全く、牢獄に時計くらい欲しいものだ」


 格子越しに食事を受け取り、彼は答えた。今時分、戦争が近い所為か、逃げ出さないような者たちが収監されている独房の格子は少し隙間が出来ている。鉄で武器を作る為だ。なので、囚人を繋ぎ止める鉄球が、唯一の慰みなのだ。


 夕食を食べ終えると彼は食器を俺へと返し、


「有難う。美味い飯だった」


 重湯と具のない味噌汁が、そこ迄感謝されるのか。俺は首を傾げた。

 それと共に、彼がそんなに悪人なのか。そんな疑問も生まれ始めていた。


「夜また見回りに来る」


 俺は言葉を紡いだ。何故、彼にそれを告げたのだろう。己自身でも、判らなかった。


 深夜になり、俺は洋燈を掲げて、牢獄を回った。新米の看守の仕事なのだそうだ。

 皆寝静まっている。男のいる独房を見ると、彼は未だ眠ってはいないようだった。俺は、懐から葉巻煙草を取り出して、


「起きているのならば、差し入れだ」


 そう言って、手を牢の中に差し伸べた。


「今晩は、新人君。良いのか?」


 彼は煙草を見ると、少し唇に笑みを浮かべ、それを受け取った。彼が煙草を口にしたのを見ると、俺はマッチでその先に火をつけた。

 ゆらゆらとした煙は、月の統べる牢獄には全く不釣り合いだった。


「君は、犯罪者だな」


 彼はそのような事を口ずさむ。


「何故そう思う」


 彼と視線を合わせようとしゃがみ、俺は問うた。


「囚人に、このような差し入れは、罪になるぞ?」


「俺は、そうは思わない」


「君、名前は?」


「昭二だ」


 思わず名乗っていた事に、俺は心底驚いていた。すると彼はしてやったりとでも言うかのように、


「そうか! 俺は赤根と言う」


 と、言った。

 なんと滑稽なやり取りだろうか。囚人と、看守。その相容れない間を結ぶのが、名前の名乗り合いなのだ。

 やがて煙草の火も消え、月も雲に隠れたようだった。


「お休み、昭二君」


 そう言って、赤根は布団を被った。


 次の日の朝、赤根は上官たちに連れて行かれた。何処に連れて行かれるのか、俺は知らなかった。


「何処に連れて行くのですか?」

 俺が上官に尋ねると、

「考えを改めさせるんだ。拷問みたいなものだな」


 そんな答えが返された。


 その日の赤根の夕食は重湯のみになっていた。俺が独房の前に立つと、彼は横たわっていた所を起き出し、俺を見た。

 その手には、包帯が巻かれていた。


「大丈夫か」


 俺は思わず問うていた。


「心配する事も罪にならないか? 大丈夫だ。只、生爪を剥がされただけだ」


「痛くはないのか」


「君が問う事ではないな!」


 赤根は笑う。このような中でも笑っていられるのか。俺は、不思議でならなかった。


 やがて、彼がここに収監されて一週間経つと、身体は骨と皮だけになり、生傷が増え、綺麗だと感じた髪も、乱れるようになった。死霊。そのような言葉が似合い、食事時にも、すぐに起きる事が、少なくなった。

 恐らく、彼の最期は近い。人とは、“正義”の前にはこのように残酷になれるのか。そんな恐ろしさが、俺の心を刺した。


 その日の晩、俺は夜間に赤根の元へと見回りに行くと、彼は何処か虚ろな瞳で、壁に背をつけ、目前の石壁を見ていた。


「赤根」


 俺は彼の名を呼んだ。すると彼は振り向いて、


「やぁ、昭二君」

 いつもの笑みに戻った。そうして、俺の元へと近付いてきた。

「俺は、もう死ぬだろう。しかし、俺の思想を受け継ぐ者がいる。君達は、彼等を全て裁けるだろうか?」


 無理な事だ。無駄な事だ。


「赤根」


 俺はもう一度彼の名を呼ぶと、その手を取り、甲に口吻を落としていた。何故このような事をしたのか。俺でさえ、判らなかった。


 その次の日に、赤根は独房で死んでいた。

 彼の死は、彼が偶像化されないように密やかに処理され、また独房は静かになった。


 彼に思想を乗っ取られるな。上官の言葉が蘇る。俺が、赤根の思想を咀嚼したかどうかは判らない。只、終戦を迎えると共に、果たして彼の死は必要だったのか。そのような事を思うようになった。


 思い出すのは、彼と初めて逢った日の事だ。

 あの唇に浮かんだ笑みは、忘れる事が出来ない。


 本当に、強かな男だった。

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月夜の犯罪者 武田武蔵 @musasitakeda

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