38話 告白

「あの話は……なかったことにしてほしい。」


「えっ!!」


あまりにも突然の言葉に、思わず頬が緩む。


「三年後ではなく、婚約の儀までに決めてほしい。この地で――私と共に生きるかどうかを。」


「そんなの、決まってます!」


「それは、これから私が話すことを聞いてから考えてくれ。」


「……え?」


「私の過去の話だ。」


「過去なんて、どうでもいいです!」


「いや、良くない。良くないんだ――」


ヴァルクの灰色の瞳が、暗闇の中でゆっくりと漆黒に沈んでいく。


***


――十八年前。


私が暮らしていたのは、ロキア王国の最南端の港から海を越えた、ずっと先の島国だった。

いくつもの小島が点在するその国には、もともと島に住む原住民と、奴隷として連れてこられた種族が暮らしていた。

私は奴隷の血を引く者で、父と母、妹の四人で暮らしていた。


父は漁師で、物心ついた頃には私も網を引いていた。

奴隷制度は廃止されたはずだったが、我々に学問を習う権利はなく、土地を持つことも許されず、課せられる税は原住民の倍以上だった。

島を支配していたのは、“神官”と呼ばれる一族。

私は彼らの息子が捨てた本を拾っては、誰にも見つからぬように文字を覚えた。


その息子は、島で最も恐れられる暴君だった。

ある日、父と漁に出ていた間に――母と妹が、あいつに殺された。


父は三日三晩、喉を潰すほど泣き叫んだ。

やがて涙が尽きると、何事もなかったようにまた網を担ぎ、税を納めに行った。

私は……そんな日々を続けることに耐えられなかった。


だから、あいつを海に沈めた。


あの時のことは、今でもはっきり覚えている。

脚を切られ、逃げられぬまま泣き叫び、赦しを乞う姿。

海へ突き落とした瞬間の絶望の目。

そして、群がる鮫に喰われて海が赤く染まる様を――。


これでようやく終わると思った。

父に話せば、あの何も見出せぬ日々から解放されると。

だが父は、私を逃がす道を選んだ。

遺体は魚の餌になり、誰もあの男を探そうとはしなかった。

やがてほとぼりが冷めると、村には「出稼ぎに行かせる」と告げ、少しの銅貨を握らせて言った。


――二度と戻るな、と。


私は小さなボートで沖に出て、それきり島を離れた。

流れ着いた国で漁をし、やがてもっと稼げる仕事を求めて戦場へと足を踏み入れた。

最初の殺しは難しい。だが私はもう、その一線を越えていた。

だからどの国でも、“子ども兵”として恐れられ、重宝された。

そうして戦を渡り歩き、最後に辿り着いたのが――ロキア王国だった。


ロキアでは、功績を上げれば地位も名も与えられた。

それが、夢のように思えた。

私はただ、生きる権利を得たくて、剣を握り続けた。

気づけば、誰よりも多くの血を流し、誰よりも生き残っていた。






そこまで話して、ヴァルクは深く息を吐いた。

アメリアは何も言えなかった。

彼が神に懺悔しているのか、自分に語りかけているのか――その境界さえ分からなかった。


「アメリア……私は、君の夫として相応しくないだろう。

奴隷の種族で、人殺しで、欲にまみれた卑しい男だ。」


そう言いながらも、その声は赦しを乞うているかのようだった。


沈黙が落ちる。

夏祭りの音楽が微かに届き、夜鳥の羽音が二人の間の静寂を破る。

アメリアは静かにヴァルクの顔を見つめた。

震える唇。伏せた瞳の奥に潜む熱と痛み。


この人がどんな過去を背負っていても、私は愛おしいと思ってしまう――だけど。


「……ヴァルク。」


「出来れば君には幸せでいてほしい。

あなたは、私を唯一“人”として認めてくれた方の娘だ。

あの王がいなければ、私は今もただの人殺しだった。」


ヴァルクはゆっくりと顔を上げる。

その瞳には、決意と恐れが同時に宿っていた。


「もし――あなたがこの先、他の誰かを愛し、私の元を去ると考えたら……正気でいられる自信がない。」


アメリアが息を呑む。


「だから……婚約の儀までに決めてくれ。

こんな私と共に生きられるか。

逃げるなら、それまでに。」


「それは……どういう――」


「君が断れるのは、今しかないということだ。」


風が止まり、夜の空気が静まり返る。


「……だけど、忘れないでくれ。

どんな答えであっても、私の王への忠誠は揺るがない。

何があっても、私の王は――あのお方だけだ。」


その瞳には、揺らぎようのない決意が秘められていた。







なにを言えば良いのか、わからなかった。

わからないまま、ただ静寂な時間だけが流れていく。


ヒューーーー…ドンッ!


「きゃあ!」


体の芯まで響くような衝撃に、思わずヴァルクの腕を掴んだ。


「アメリア、顔を上げて」


促されるままに見上げると、夜空に赤、青、黄色――幾色もの光が花のように咲き乱れた。

光は雨のように降り注ぎ、また次の花が空へと開く。


「……花火?」


「この祭りの醍醐味だ」


花火が上がるたび、遠くから人々の歓声が響いてくる。

その音が、ふたりの沈黙をやわらかく包み込んだ。


「今は、そこまで悩む必要はない。

王都に戻るまで、まだ時間はある。――君にとっての最善を選べばいい。」


ヴァルクの瞳は、決して残虐な人間のものではなかった。

アメリアへの振る舞いも、領地のために尽くす姿も、

いつだって彼は誠実で、優しさに満ちていた。


それでも――彼が「殺すことで」生きてきたという事実だけは、消えない。


カリナなら、それでもいいと言えただろう。

迷いも恐れもなく、彼を抱きしめてあげられたはずだ。


ロキア王国の王女アメリアは、果たしてその罪をも受け入れられるのか。

誇り高い血を継ぐ者として――。


「必ず、婚約の儀までにお答えします。

でも……ノルディアにいる間は、ただ楽しく過ごしてもいいですか?」


ヴァルクの顔に、ふっと安堵の色が差した。

強張っていた肩がわずかに緩み、彼は静かに頷く。


「もちろんだ。

経路の変更もあって忙しくなるが――君は好きな場所へ、好きなだけ行ってくれて構わない。」


夜空に、最後の花がひときわ大きく咲いた。

光が消えたあとも、その余韻だけが二人を照らしていた。

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