37話 祭りの灯りの下で
外はすっかり陽が落ち、暗闇の中に街が浮かび上がっていた。
露店が並ぶ通りはランプのオレンジ色の光に照らされ、どこからともなく笑い声と笛の音が響いてくる。
甘い蜜菓子の香り、焼きたての生地の香ばしさが風に乗って鼻をくすぐった。
「なにか欲しいものはあるか?」
「そうですね……お腹も空いたので、カピタが食べたいです!」
ヴァルクが少し眉を上げた。
その反応にアメリアは首を傾げる。
「よくカピタなんて知っていたな。王都では見かけぬ食べ物だと思うが。」
「えっ……と、先日テティやメルディ卿と街を散策した時に見つけたんです。そのときは食べられなかったので…」
(あぶなかった……)
胸の内で小さく息をつく。
本当は前世で食べた記憶だが、うっかり口に出すところだった。
「そうか。なら、カピタを探そう。」
ヴァルクが歩き出す。
人々の喧騒の中を進む二人の肩が時おり触れ合い、灯の揺らめきが銀髪と浅黒い肌を交互に照らした。
賑わいの中なのに、不思議とふたりだけの時間が流れているようだった。
「あっ、ねえ、あのお店がいいわ!」
アメリアが指さした先には、少し寂しげな露店があった。
人通りはあるのに、誰も足を止めようとしない。
けれど、店先では若い夫婦が懸命に客を呼び込んでいた。
「いいのか?あまり人気ではなさそうだが。」
「ええ!すぐ買えますし、せっかくだから沢山買って貢献しましょう!」
アメリアが笑顔で声をかけると、妻のほうがヴァルクの顔を見て凍りついた。
「りょ……領主さま!?」
「騒ぎになりたくない。静かに頼む。」
「は、はいっ!も、申し訳ありません!」
「こんばんは。素敵なお店ですね。」
「えっ……ええっ、も、もしかして、アメ……」
アメリアは人差し指を唇に当てて「しー」と微笑む。
「何がおすすめですか?」
「あっ、えっと!全部おすすめです! うちは生地から全部手作りなので!」
「ここには昔から?」
「いえ、実はその……三ヶ月ほど前に移住してきたんです。夫が道路工事の仕事を得たので。でも力仕事が向いてなくてすぐ辞めてしまって……今は二人でカピタを売っているんです。」
妻が申し訳なさそうに言うと、隣の夫が明るく笑った。
「いやあ、まさかここまで力仕事が向いていないとは思いませんでしたよ。でもカピタには自信があるんです!西の山に行っても“逃げ出した奴だ”なんて言われながら、昼には買ってもらえるんで助かってます。」
その様子に、アメリアはふっと目を細めた。
(この夫婦……やっぱりあの人たちね。)
彼らは前世でカリナが働いていた、あの温かな食堂を切り盛りしていた夫婦だ。
笑い合うふたりを見つめながら、アメリアの胸には懐かしさと安堵が同時に広がっていった。
「それじゃあ、鹿肉と鶏肉と、あとチリソースのをください。」
「おお、姫様、目が肥えていらっしゃる。」
店主が答え、妻が紙に包んだ後、袋に詰めて手渡した。
ヴァルクは金貨を一枚渡し、「釣りはいらない」と言った。
たった数枚の銅貨で買えるはずのものを金貨で買ったことで、今日の売り上げをゆうに超えたのだろう。
慌てる店主にヴァルクは、「うまかったら、工事現場で毎週配達できるようにしてやろう」と言い添えた。
その声音は低く穏やかで、まるで励ますようだった。
夫婦は何度も頭を下げながら、涙ぐんでいた。
ヴァルクは紙袋を手にアメリアの耳元で囁いた。
「どこか静かなところで食べよう。」
そう言って連れてきたのは、街と城を一望できる小高い丘だった。
夜風が頬を撫で、遠くの灯が金の粒のように瞬いている。
街灯はないが、月明かりと街の光で互いの顔を見分けられるほどの明るさがあった。
ふたりは並んでベンチに腰を下ろし、静かに袋を開いた。
ヴァルクはひとつのカピタをふたつに割り、アメリアに手渡した。
「念のため先に食べるから、少し待って。」
カピタ――ノルディアを含むこの辺りの地方で親しまれる名物料理だ。
小麦粉を練って焼いた生地に、肉や香菜を挟み、甘辛いソースをかけて仕上げる。
見た目は素朴だが、焼きたての香ばしさが食欲をそそる。
最初に手渡されたのは鹿肉のカピタだった。
ヴァルクが大きく口を開けて頬張ると、アメリアは思わず目を丸くした。
ふたつに割ったとはいえ、まだ大きいカピタが、あっという間に半分以上なくなっている。
「……うん、大丈夫そうだ。」
「あ、はい。お味はいかがですか?」
「味…そうだな、悪くない。ベリーソースはあまり好きじゃないんだが、これはうまいな。」
そう言って笑みを浮かべる彼に、アメリアは安堵の息をもらした。
負けじとひと口頬張ると、ふわっとした生地の香ばしさと、じっくり火を通した鹿肉の旨みが広がる。
独特の臭みはすっかり抜けており、柔らかな肉に甘酸っぱいベリーソースがとろりと絡む。
酸味が肉の味を引き立て、後味には香菜の爽やかさが残った。
「美味しい……うん、すごく美味しいです!」
ああ、この味。懐かしい――。
アメリアが満足そうに食べ進めると、ヴァルクはフッと優しく笑った。
ふたりで食事を楽しんだ後、ヴァルクが持ってきていた水筒から暖かい紅茶を貰い、ふたりはしばらく無言のまま、美しい夜空の中に浮かぶノルディア城と街の煌めきを眺めていた。
「…アメリア。王都までの道の経路変更の承認が降りた。君の願い通り、西の山を採掘しながら、坑道を道に直していくことになったよ。」
「まあ!さすがはお父様です。わかってらっしゃるわ。」
ヴァルクは、そんな彼女の明るい声に小さく笑った。
だがその笑みはどこか影を帯びていて、アメリアは一瞬、胸の奥がざわめいた。
「もうひとつ……王から伝言があった。」
「伝言、ですか?」
夜風が二人の間を抜けた。
街の灯が遠くでまたたき、沈黙の中に彼の低い声が落ちる。
「――君が王都に戻ったら、すぐに婚約の儀を行う、とのことだ。」
アメリアは一瞬、言葉の意味を理解できずにいた。
月明かりが彼の横顔を照らし、その瞳がほんの少しだけ、苦しげに揺れた。
(婚約の儀って…前世では二年後だったはずなのに…)
婚約者がヴァルクに変わったことで、すべてが早まっているのだろうか。
それが何を意味するのか、考えがうまくまとまらないまま、なんとか声を出した。
「……そう、ですか。」
喉の奥で掠れた声が漏れる。
ヴァルクは視線を落とし、膝の上で指を軽く握りしめた。
「君に言ったことを覚えているか?」
「もしかして、婚約期間の3年の間に他の相手を探して私から婚約を解消しろという……あれのことですか?」
アメリアは顔を上げた。
けれど、彼はもう夜空の向こうを見つめていた。
その横顔には、苦悩と決意が交じり合っている。
沈黙のあと、アメリアもまた空を仰いだ。
(まだこの人は、私が他の誰かを探すことを望んでいるの……?
あの洞窟の日から、少しは心が近づいたと思っていたのに――勘違いだったのかしら。)
星々の光が滲んで見えたのは、夜風のせいだけではなかった。
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