19話 恋
一刻ほど経った頃、地響きのような蹄の音が森を揺らした。
氷狼騎士団の面々が雪煙を巻き上げて飛び出してくる。その先頭を駆けるのはヴァルクだった。
アメリアが乗っていた馬を巧みに操り、颯爽とこちらへ向かってくる姿に――膝から力が抜けそうになり、思わず馬の首筋にすがりつく。
安堵で胸を押さえるアメリアとは対照的に、騎士たちは戦場を駆け抜けた直後とは思えぬほど、生気に満ちた顔をしていた。
ヴァルクは馬を降り、迷いなくアメリアへと手を差し伸べる。
一瞬、意図がわからず目を瞬かせたが、降りるように促されていると気づき、その手を取った。
次の瞬間、彼の左手が腰を支え、ふわりと宙に浮かせる。
まるで重さが消えたかのように、振動ひとつなく地面に降り立った。
「……」
見上げれば、彼の額には擦り傷ひとつない。汗すら流れていなかった。
「怪我はないか?」
低い声に胸が温かくなる。
「はい! 皆様がお守りくださいました。……ヴァルク様は?」
「私にそれを聞くんだな。」
その笑みが、何よりの返答だった。
すぐさま彼は団員たちへ視線を移す。
「ここで野営する!」
号令と同時に、騎士たちはきびきびと動き出す。
次々と荷を下ろし、焚き火の場所を作り、天幕を張り……わずかの間に、荒野は大規模な野営場へと姿を変えていった。
⸻
アメリアはテティと共に用意された天幕の中で休んでいた。
テティはよほど先程の出来事がショックだったのだろう。あまりにも言葉を発しないので心配になり、声をかける。
「テティ、大丈夫?」
「…アメリアさま…どうしましょう…」
「なに? どこか怪我でもした?」
テティは目に涙を溜め、アメリアを見つめる。
「わたし…リンク様に恋してしまいました!」
「ええっ!?」
あまりに予想外の言葉に、アメリアは天幕の中で思わず大きな声を上げてしまった。
「しっ、しーっ!」
テティが慌てて口元に指を当てる。
「外に聞こえたらどうするんですか!」
リンク――それは先ほどテティが相乗りをさせてもらった団員ではないか。
「リンク様の広い背中に、逞しい腕…狼が襲ってくる中、片手で手綱を操り、もう片手で剣を振るうあのお姿…! 時折、私を気遣ってくださる優しい眼差し…」
突然語り出すテティに、アメリアの頬がひきつる。
「好きにならない方がおかしいですよね?」
「あ…ええ…そうかも、ね。
でもね、テティ。あなた“吊り橋効果”って知ってる?」
「吊り橋? ですか?」
「揺れる吊り橋を渡る時、胸がドキドキするでしょう。その鼓動を、一緒に渡った人への気持ちと勘違いしてしまう現象のことよ。」
「まあ! つまりアメリア様は、私の恋心はただ危険な目にあったせいだと仰るんですね!」
「そ、それは……その可能性もあるってだけよ。あなたは若くて綺麗なんだから、簡単に隙を見せない方がいいわ。」
「……アメリア様って、おばあちゃんみたいなこと言いますね。」
うっ。鋭い一言に胸へグサリと刃が突き立った気分だ。
「でも、ご安心ください。そもそもリンク様は貴族ですし、私とは身分違いです。遠くから眺めるだけで十分なのです。叶わぬ片思いだと思って、優しく見守っていてくださいね。」
テティはアメリアをまるで親戚のお姉さんでも宥めるように微笑んだ。
実際はテティの方が五つ年上なのだが、背丈の小ささと、ころころ変わる豊かな表情は、年齢を感じさせない。
きっと、彼女から好意を寄せられた男は、すぐにその想いに応えてしまうだろう。
だがリンク・メルディは貴族だ。たとえ今は氷狼騎士団の見習い騎士でも、貴族はつねに家の利益を優先する。
前世で見てきた王宮の駆け引きを思い出すと、テティの恋の結末は哀しいものにならざるを得ないように思えた。
「……わたしは、あなたの幸せを祈ってるわ。」
振り絞るように言うと、テティは満足げに笑い、天幕の隙間からリンクの姿を探した。
人は恋に落ちると、他のものが見えなくなる。そういえば――ふと自分を省みる。
(わたしは……誰かに恋をしたことなんてあったかしら)
「――あっ、アメリア様! ヴァルク様がいらっしゃいますよ!」
テティが声をひそめながらも弾む調子で囁いた。
「近くで見ると威厳があって恐ろしいですが、遠くからだと……目に保養ですよねぇ。」
アメリアも天幕の外へ目を向ける。
焚き火の揺らめきに照らされ、ヴァルクがライオネルと何やら言葉を交わしていた。
その影を見つめていると、理由もなく胸がざわめいた。
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