第4話剣の沈黙と影の兆し
百年という歳月は、王国の人々にとってひとつの伝説を遠い昔話に変えるのに十分な長さであった。
子どもは聖堂で無邪気に遊び、老いた者は祈りの言葉を口にし、兵士は忠誠を誓う。王国の生活は、聖剣を中心に回っていた。
だが――その繁栄に陰りが差し始めていた。
最初に異変を告げたのは、空であった。
ある年の秋、王都の空がかすかに鈍色を帯びた。普段なら深い青をたたえる空が、どこか濁ったように見えたのだ。
それは一瞬のことで、人々の多くは気にも留めなかった。だが農夫たちは収穫期に実りが少しばかり悪いことに気づいた。
その冬、北部の村では例年にないほどの猛吹雪が襲い、家畜が多数失われた。
「これは剣の加護を怠ったからだ」
祭司たちは口々にそう説き、人々に祈りを強いた。
だが剣の視点からすれば、それはただの偶然ではなかった。
大地の底からわずかに滲み出る気配――それは百年周期で現れる災厄の影であった。
剣は静かに光を揺らしたが、人々にその意味が伝わることはなかった。
一方、王都では別の不穏が芽生えていた。
王の老齢に伴い、後継をめぐる派閥争いが激しくなったのだ。
王子たちはそれぞれが聖剣に縁を持とうとし、大神殿での祈りの回数を競った。
ある者は「自分こそが次の勇者に選ばれるに違いない」と豪語し、民にその名を広めようとした。
聖剣はただ沈黙を守った。
だがその沈黙こそが、人々にとっては耐え難いものであった。
もし剣が声を持ち、誰かを指し示してくれれば、争いは収まる。だが剣は決して語らない。
王都の民は噂した。
「剣は本当に次の勇者を選ぶのだろうか」
「いや、あれはただの飾りにすぎない」
「それでも、剣がある限り災厄は退けられる」
信仰と疑念がないまぜになり、人々の心は揺れていった。
聖剣は祀られた祭壇の上から、静かに人々の営みを見守っていた。
自身が誕生してから幾度となく似た光景を目にしてきた。
繁栄し、油断し、やがて滅びに瀕する人間の姿を。
聖剣は戦うための力を持つ。だがその力を振るうのは自らではない。
必ず「人」が選ばれ、勇者として剣を振るうのだ。
だからこそ聖剣は待っていた。
次に現れる者を。
己を握り、災厄に立ち向かう者を。
――そして、その時は確実に近づきつつあった。
北部の山岳地帯で、ひとつの奇妙な現象が記録された。
雪解けの時期に、本来ならば姿を見せぬはずの黒い霧が谷を覆ったのだ。
霧に包まれた村では家畜が突然狂い出し、人々は怯えて避難した。
王国の学者たちは「自然の異常にすぎない」と片づけたが、聖剣にはその正体が理解できていた。
――災厄が近づいている。
かつてアルディスと共に戦った五年間、剣は何度も同じ気配を感じていた。
あの時は竜の咆哮であり、獣の群れであり、地を揺るがす巨影であった。
だが今度はどのような姿で現れるのか、剣にも分からなかった。
百年ごとに異なる姿で現れる。
それがこの世界の理であり、人々が災厄を根本から滅ぼせぬ理由でもあった。
その頃、まだ若き一人の少年が、王都から遠い辺境の村で日々を過ごしていた。
名をエリアスという。
彼はこの時点ではまだ何者でもなかった。
農家の次男として畑を耕し、羊を追い、友と笑い合うただの青年にすぎなかった。
だが聖剣は微かに感じていた。
彼の中に宿る「何か」を。
それはまだ言葉にできぬもの、力とも呼べぬもの。
だが確かに、他の誰とも異なる輝きがその少年には宿っていた。
聖剣は沈黙を保ちつつも、わずかに光を揺らした。
人々はそれを「祭壇の火の反射だ」と笑い飛ばしたが、剣にとっては確かな兆しだった。
やがて、王都の空が再び濁った。
今度は誰の目にも明らかであった。
澄み渡るはずの青空に、紫がかった影が走り、雷鳴のような音が大地を震わせた。
大神殿はざわめきに包まれた。
「本当に災厄の時がやってくるのか!」
「勇者を探さねば!」
だが勇者は天より降るものではない。
剣が選ぶのは、あくまで人間の中からである。
聖剣は静かに、しかし確かに待った。
己を握るべき者が、この世界に現れるその瞬間を。
――新たな物語の幕開けを告げるその日を。
だが聖剣の光の奥底には、誰にも知られぬ不安があった。
果たして次の勇者は、本当に災厄に立ち向かえるのか。
あるいは、繁栄に酔った人間たちの脆さに押し潰されてしまうのか。
聖剣には答えがなかった。
ただ、長い時間を超えて積み重ねた記憶があるだけだった。
――戦いの終わりに訪れる歓喜と、喪失の痛み。
それを再び味わうことになるのかもしれない。
聖剣は微かに震えながら、迫り来る影を見据えた。
そして、ひとりの少年――エリアスが運命の糸に引かれ始めていることを、確かに感じ取っていた。
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