空虚

虹見 夢

溺水

 おはよう、今日の私。そして、お誕生日おめでとう。


 目が覚めて、未だ重い瞼を擦り、カーテンを開いて朝日を浴び、朝食を取りにキッチンへ向かい、冷えたヨーグルトとスプーンを手に取って口へ運ぶ。口内に広がる若干の酸味と甘味はいつ食べても変わらない。レースカーテン越しに見える景色は眩しい程に煌めき、鮮やかな色を見せていた。二次元のように魔法とか、秘密道具とか、ラブコメとかなんて存在しない。ただ、平凡で代わり映えのない日常ばかりが続いている。同じようで違う一日が来ては過ぎ去る、ただそれだけ。

 毎日のように目紛しく変わる景色と、日付や月が変わっていくカレンダーだけが、唯一時間の流れを把握するにもってこいだった。時計は規則正しく同じように針を回すだけであって、日付や季節は指し示さない。日付と外の景色を見る度に、べちゃりと何処かで聞こえてくるのだ。

 朝食を食べ終え、ゴミを捨て、顔を洗って身嗜みを整えて支度をして。

「いってきます」

「いってらっしゃい。気をつけてね」

 親とそんな挨拶を交わして、じりじりと己の身体を焼く太陽がいる外へ出て、自転車を倉庫から出してそれに跨り、ペダルを踏んで駆け出す。

 夏休みはもう目前に迫っている。四方八方から蝉の鳴き声は聞こえ、鴉はかあかあと鳴き、田んぼの稲は青々しく成長を遂げている。去年だって一昨年だって見て聞いた景色だと言うのに、不思議と飽きはしなかった。寧ろ、いつまでこんな日常が続くのだろうと。終わりに怯えている自分がいた。

 いつか覚めてしまうというのなら、いっそ幸せなまま死にたいとさえも思う。その辺りにいる虫もミミズも微生物も動物も、いつかは必ず死という終わりが来る。ロボットだって、整備する人や部品が無くなれば壊れて二度と動かない鉄屑になる。そういった終わりにはどうしたって対抗出来ないし、その死だっていつか皆忘れていく。時の流れというのは優しくてとても残酷だ。だからこそ、世界に何か爪痕を残したい、栄光や名声が欲しいと思う考えも自然で、当たり前の事なのだろう。歴史上の人物のように。何かを残して逝きたいと思うのも、別に不思議な事じゃない。

 この世は積み重なった死体で出来ていると、そう思うのは不自然だろうか。そんな考えが、私の脳裏をよぎっては、馬鹿らしいと切り捨てられて消えていた。

 

「死んでしまったらそこでお終いなのです。だから自殺なんてせずに生きなさい」

 ──という言葉は実によく出来た呪いだと思う。

 確かに死んでしまったらそこで終わりだ。棺桶に入って、花に囲まれ、多くの人に見られて逝く。自分のしたかった事も、積み重ねた物も無くなる。所詮天国や地獄なんてもの、人間が作った架空の世界でしかない。生きている者が、死の先を知る事は無いに等しいのだから。色んな宗教について書いてある本を読んだって、宗教によって死生観は様々だったのだから。つまるところ、死が終わりだと思うのは、死の先を誰も知らないからなのかもしれない。死んだら何処へ行くか、死んだら自分はどうなるのかだなんて、誰も知らないし、過去の記録にさえも載っていない。

 死を終わりだと捉えるから、皆その終わりに怯えて、死にたくないと願い、必死に生きる。そこに良く在りたいと願うのは、人の考えた宗教というものの影響だ。良く生きれば生きる程、死んだ先で報われると。これもまあ、よく出来た考えというか、教えだなあと思う。

 死にたくないから生きる。生きたいから食べ物を食べる、水を飲む。この世界で生き抜きたいから勉強をする、知識を得る。エトセトラエトセトラ。いつしかその生きる為の手段は、自分のステータスとして、他人に誇示をする為だけに変化していく。その息苦しさに耐えきれず、自ら命を絶つのは悪い事なのだろうか? 何かを残すから、何かの才能を見せるから偉いのではなく、良く生きるから偉いというのも、あながち間違いではないのかもしれない。

 だからと言って、生きる事が正しいとは限らないと感じる。色んな人を見れば見る程、死ぬよりも辛いという出来事は掃いて捨てるほどに溢れている。生き地獄という言葉があるように。

 そう考えたら、自殺は必ずしも悪とは言えないのかもしれないと思う。……いい事でもないが。死を選ぶ程、その人は追い込まれたという裏付けになる。

 死ぬ事が悪い訳じゃない。生きる事が正しい訳じゃない。ただ、その途中経過が問題なだけなんだなと、そう思った。

 

 成績といった学校からの評価はとても大切だ。それらが全て自分に向けられる評価になる。学業というものは人間性の評価に繋がる事が大半だ。特に新人時代とか。資格も同じように、資格があって、尚且つ英検二級だとかの高い水準の資格があれば有能な人材として抜擢される。大学をただ出ただけではなく、出た大学も評価に繋がる。学歴社会と言われる理由はこれだろう。

 定期テストではそういったものが顕著に現れる。成績イコール自分への評価、つまり低い点数では社会に出た時とか、大学に進学する時とかでは話にならないのだから。高校によっては八十点を取って当然という風潮がある場所もある。それが息苦しく感じる人も、どうでもいいとマイペースにいられる人もいる。

「いいなあ、お前はたくさん資格持ってるじゃん」

「しかも色んな事も出来るしね」

 他の人がそう評価してくれても、実の所嬉しく感じられない事が多い。

 要は点数というのは自身のステータスに繋がるのだ。例え色んな事が出来たとて、点数が平均値しかない者と、一つの事に対してとても点数が高い者では扱いが違う。私の中では圧倒的に後者の者が評価されると感じている。例え大会で三位と取ったとて、一位の人間には及ばない。色んな事が出来たとて、一つの事を極めている人には追いつけない。全体的に点数が取れていたとしても、順位は真ん中くらいでしかないのなら、多少の意味はあったとしても、世間の言ういい評価には繋がらない。どれだけ勉強を自分なりにしたとしても、結果が悪ければ無意味と捉えられる。そして皆が口を揃えて言うのだ。「本気を出せ」と。

「私もアンタみたいに色んな事が出来る様になりたいなぁ」

「そうかな」

「そうだよ! だって何か凄いじゃん!」

「そんなもんかなぁ」

「当たり前だよ!」

 器用貧乏は有用性なんて無く、その場凌ぎの代わりにしかなれないだなんて事を伝えられたら、どんなにいいのだろうか。唯一にはなれないという残酷な現実を知っている人は、あまりにも少ない。

「器用貧乏なだけだよ。それに、色んな事が出来たとしても、決していい事じゃないし、すごい事でもないんだ」

「どうして?」

「私の上位互換は幾らでもいるからだよ。一つの事を極めている人が凄いんだ」

 何処かで聞いた、自分の代わりは誰一人としていないけど、上位互換が出回っているという言葉が嫌な程に、自分を指し示しているようで。

(……惨めだなぁ)

 所詮、器用貧乏は誰かの下位互換なのです。

 

 嫉妬と言うものは実に醜いものだと感じる。嫉妬が拗れれば拗れる程、褒め言葉を真っ直ぐに受け止められなくなっていくのだから。誰かを純粋に褒める事も出来やしない。声色も固まり、皮肉めいた言葉しか吐き出せなくなる。常日頃から誰かに嫉妬しているという自覚がある私は、嫉妬という物が無くなれば楽なのにと何度も感じた。

 過去に何度も、自身の嫉妬に折り合いをつけられず、他者を傷つけた事があった。謝ろうにも時すでに遅し、謝る機会は失われ、その人とは疎遠となった。その時に漸く学んだのが、謝れるうちに早く謝った方がいい事と、行き過ぎた嫉妬は取り返しのつかない出来事を引き起こす事。自身の言う愚痴というものは、自分が楽になるのと同時に、誰かを否定している事。無論、それらを知った時は何もかも手遅れだったのだが。

 そんな後悔を引き摺りながら誰かと接し、二度と失敗しないよう、当たり障りのない事を言う。人と仲良くなるのも、難しい。距離が近すぎれば、いつか自分が嫉妬で相手を傷つけかねないし、遠すぎれば会話を成立させるのでさえも難しくなる。

 はあ、とため息をつく。

 未練、後悔、嫉妬、憂鬱。

 そればっかりだ、自分の人生なんて。

 スマートフォンに映る、自分の好きなアニメやキャラクターが、自分の人生を照らしてくれる光だった。

 

 朝が過ぎて昼が来れば、自分を襲うのは決まって睡魔だ。授業中寝てしまう原因はこの睡魔にある。日頃の睡眠不足、取れていない疲れと原因は多種多様だ。授業中眠ってしまうのを防ぐ為に、ありとあらゆる休憩時間を仮眠に充てる人も少なくない。

 学校で仮眠を取っている時に夢を見るのはレアケースだ。普通は見ない物なのだが。それ程までに爆睡していたと言われれば、確かにそういうことなのだろう。

 しかし、決して見る夢は良いものではない。きまってどれも悪夢だからだ。……それも起きてしまえば、全て忘れてしまう訳なのだが。

 目を閉じれば、泥の中で惨めにもがく自分が見える。必死に酸素を求め、手を伸ばし、浮上しようと暴れる自分の姿が。最も、それは海水の中に沈んでおり、口を開けば空気が漏れ、海水が入り込み、あまりの塩辛さに喉を掻きむしり、真水と酸素を欲しがるその絵面はいっそ滑稽だ。

 どうしたって皆のようにはなれないのに。二次元とか、御伽噺のように、自分を助けてくれるような王子様なんて現れる訳がないのに。

 自分が良くならなければ、誰かが助けてくれるわけでも、認めてくれるわけでもない。自分を助けられるのは自分だけだし、失敗は許されない。もう、失敗してもいいという考えなんて、そんな世論も風潮も消え去った。失敗をしても許されるのは、まだ取り返しがつくのは、学生だけの特権だ。子供だけの特権だ。社会に出れば、そんな物は許されない。失敗をすれば、「ダメ人間」というレッテルが貼られ、誰からも採用されない。どれだけ人間性がよくても、成績が良かったとしても。

 子供ばかりが贔屓される訳じゃない。子供は、未来の労働源になるから大切にされる。

 最も、大切にされるのは最初だけなのだが。年月が経って成長していけば、有用性を求められる。有用性が無ければ、子供であろうと捨てられる。同時に、それを育て上げた親の評価にも繋がる。親によっては、子に向けられる社会からの有用性があるかどうか、その判断を恐れ、本来であればもっと後にやってもおかしくない事を先取りでやらせる事もある。所謂先取り教育とか、とか、とか。

 勉学での予習復習も、簡単に出来る事じゃない。予習復習が両立出来るのは、ほんの一握りだ。大抵、復習に追われて、予習をしている余裕なんてないのだから。

 成績を上げるために塾へ通うという人も増加しているように感じる。自分の周りにいる人は、三人に一人は塾通いというイメージが強い。おまけに、学力が高い人も塾通いであるケースも。

 ──馬鹿みたいだ。

 成績が悪いのは、勉強をしていないからだとわかっている癖に、そこから逃げ出して、ソーシャルメディアにばっかり時間を割いて、勉強という物から逃れている自分が。そんな当たり前の事実でさえ、真っ当に受け止められない自分が嫌でたまらない。

 泥と海水の中もがく自分を見下し、上から足で上がってこないように踏み潰す。

「諦めろよ」

 他の人にも散々言われた言葉をそのまま、自分に突き立てるように。自分の身体に深々と差し込むように吐き捨てながら、未だ暴れ回る自分を力強く踏んで、最後には蹴りつけた。

 チャイムの音が遠くから鳴り響く。

 目を開いて、次の授業への支度をした。

「ずるいなぁ」

 背後からぼそりと、誰かが呟いた気がした。

 

 ふとした時に、自分が自分でない感覚がする気がする。

 がくりと、自分という人形を操る為の糸が全てプツリ、と切れて動かせなくなったような感覚だ。動いて喋るのは勿論、指先を動かす事でさえ億劫に思えるのだ。身体から自分という自我が抜け出て、肉体という重たい物を引き摺りながら、しがらみなど何もない空へ飛び立った気分だ。幽体離脱みたく、もぬけの殻になっている自分を見下せる訳ではないのだが。どういう訳か、身体を動かすのはとてつもない労力が必要だと感じるくらい重たいのに、私という精神は何処までも空を飛んで行ける心地がする。

「あ、」

 ゆっくりと顔を上げた時に見えた、青い海。その中で綺麗な鳥が泳いでいた。金魚のように、泳いでいた。白い花が咲き誇る海の中で。

「きれいだなあ、うらやましいなあ」

 どうしてこうも、自分は青い海の中ですら泳げないのだろう。


 生きていればいい事がある、という言葉は努力をすれば報われると同じくらい信じがたい言葉だ。信じがたいけど、明日を生きるのには信じたい言葉ではあるが。

 死んだらそこでお終いならば、まだ生きていたいとこいねがうくらい、未練たらたらだ。生き甲斐があるとは、なんかちょっと違う気がする。

「まだ生きているんだ。明日はきっといい事があるさ」

 自分にそう言い聞かせて眠るのも、日課と化している。いつか、そのマヤカシで自分自身を納得させられなくなる日が来るまで、私はそれを繰り返すのだろう。いつまで続けられるかも分からないと知りながら。

 まるで命綱のない綱渡りみたいだ。渡りきった先に何があるかも分からない暗闇の中、落ちれば二度と戻って来られない綱渡り。

 はは、と小さい笑い声が漏れる。

 本当、我ながら救いようのないヤツ。人生、そんな簡単に上手くいく訳がないじゃないか。こうして苦悩するのも、私だけじゃない。他の人の方がもっと、苦労をして、悩んで、苦しんでいるのだから。どうして私だけがと考えるのは、あまりにも怠慢じゃないか。自意識過剰、それに尽きる。

 私の見ている世界が狭いと言うのなら、どうして私はこうも一人なんだろうか?

 答えなんて、とうの昔に出ている。

 私が、それを未だに認めないだけだ。

 

 自分の手を見ると、いっそ気持ち悪いくらいに汚れているように見える。

「アンタの手、綺麗でいいなぁ」

「そう、かな」

「うん。だって指先綺麗だし、細長いじゃん」

 羨ましいよ、と笑う相手は、屈託なくそう言う。

 嬉しいよ、と返せば、相手は「そっか」と返す。

「そういうお前さんの手は、温かいな」

「逆にアンタのが冷たすぎるんだって」

「そんなもんかな」

「そんなもんなの!」

 悪い事をしたな、とわざとらしく笑えば、触ってて気持ちいいから別にいいけど、と相手は口を尖らせた。

 チャイムがまた、鳴り響く。

 いつまでもこんな馬鹿みたいな日常を過ごせたらいいのにと、ありもしない事が頭をよぎった。

 

 昼が過ぎて、夜になる前触れである夕方が来れば、教室を真っ赤な光が窓から照らし込んでくる。最も、それは秋とか、冬とかにしか見られないが。

 皆が早く家帰ってゲームしようぜ、駅行かね、と楽しそうに話している中、リュックの中に荷物を詰め込み、机を後ろに下げてそそくさと教室を後にする。掃除当番はまだ、自分ではない。

 今日は部活もない。そのまま家へと帰る為、自転車のカギを胸ポケットから取り出し、カギにつけた鈴をりんりんと鳴らしながら廊下を歩く。色んな人が自分と同じように歩き、すれ違う廊下は談笑で溢れているというのに、自分の持つ鈴の音が仲間外れなくらいによく耳に入った。

 りん、りん。

 自分にとっては、カギを失くさない為だけにつけているのだが、今だけはその音色が愛おしく思えた。

 玄関先に辿り着けば、自販機で飲み物を買う者や、部活行きたくねーと言いながら居座る者がいた。運動部は確かに大変だろう。今の季節は夏だ。自転車を漕ぐだけでなく、ただ外にいるだけでも汗をかくというのに、じりじりと皮膚を焼く日差しの中で運動をするのだから、他の人より何倍も汗をかく、喉が乾く。到底自分の持つ水筒一本じゃ足りないだろう。それを気遣うように自販機には様々なスポーツドリンク、お茶などが年中販売されている。それだけではない。ちょっとした缶ジュースや、ブラックコーヒーに紙パックのコーヒー牛乳。はたまたプリンまで。昼休みに階段の踊り場に現れる購買も自販機以上に充実している。自分も何度か買ったりしているし、自販機で販売されている飲み物は基本安い。外に置かれている自販機じゃ120円もするであろうジュースは、ここでは90円という安さで買える。スポーツドリンクだって外じゃ150円するものが110円で購入出来るのを考えると、近くのコンビニで買うよりも遥かに安いかもしれない。コンビニで飲み物を買う事は無縁だから、実際のところそうであるかは知らないが。

 人混みをかき分けながら外に出て、少し距離のある自転車置き場へと足を運ぶ。朝と変わらず蝉は鳴き続いている。学校前では鴉ではなく雀がちゅんちゅんと鳴いている。

「……暑い」

 日差しが痛い、という程ではないが、いかんせん湿度が高い。蒸し暑い、サウナのようだ。風が吹けば多少は涼しくはなるが、その風ですら熱風だ。アスファルトからも熱気が感じられる気がして嫌になる。

 携帯を取り出してみれば今日の最高気温は32度、日本はいつから亜熱帯になったのだろうか? 毎朝天気予報を見ているから最高気温も目に入るとはいえ、年々最高気温が上昇しているのを考えると気が狂いそうになる。

 まだ自分の自転車が日陰に置けているだけマシか、と思いつつ自転車のロックを外し、手に持っていた弁当箱入れを自転車カゴに積み、スタンドを思いっきり蹴ってそれを動かす。早く帰ってエアコンの風を受けたいが、そうそう早く帰れるような距離ではない。片道でもおよそ5キロあるのだ。道中に日陰がある箇所は少ない。身体的にはまさに地獄とも言えよう。

「あと、二日かぁ」

 夏が終わってしまえば、一年なんてすぐに終わってしまうのに。そしたら、受験、就職といったものに追われる日が来る。

 夏休みなんて、来なければいい。

 そう恨みがましく、自転車のペダルを強く踏みつけた。

 

 案外、自分の一番嫌いな季節は夏なのかもしれない。

 35分程の時間をかけて帰路につき、荷物を地面へ乱暴に置き、制服を脱ぎ捨てて体操着姿になってからエアコンを慌ただしくつけ、冷凍庫から取り出したアイスを口へ運ぶ。口内に広がる甘く爽やかな風味を味わいながら、室内でも聞こえる蝉の鳴き声に耳を傾ける。音楽も流していない無音の自室では蝉の鳴き声と、ちくたくと規則正しく音を鳴らす時計が何とも言えないハーモニーを奏でている。ワイシャツですら体操着を貫通して汗ばんでいたのもあり、下着は水でも被ったレベルでびちゃびちゃだ。きっとこのまま冷房の風に当たっていては頭を痛めるどころか風邪をひく。

 学校から帰ってきた後はありとあらゆる疲れが自身を襲う。もう今日は外に出たくない気分だ。

 時計を見れば既に短針は6へ向かい出していた。ああまた一日が終わってしまう。学校の時間が過ぎれば後は夜が来るだけなのだ。夜が来れば必然的に自責に追われる。一日の一人反省会、最早それは懺悔の時間にさえ思える。

「ただいまー」

「おかえりー」

 親の帰宅に挨拶をして、鞄からスマートフォンを取り出してベッドへ沈み込んだ。

 

 夏というものは苦手、というか嫌いだ。祭りの季節であると同時に、怒涛の如く時間ばかり過ぎ去っていく。祭り騒ぎも終われば、手元に残るのは静寂ばかり。楽しい時間が終わった後の虚しさに、いつも慣れない。

 今日はこんな事があった、楽しかった、と日記をつけるほど、自分は几帳面な性格ではない。良くても三日坊主だ。毎日日記をつけるのは、小学生の時から苦手だった。夏休みが来る度に毎日日記をつけろと言われては、日記をつける事を忘れ、最終日が迫れば迫る程泣きながら日記をつける。そんな苦い思い出しかない。

 それに、なんだか悲しいじゃないか。日記をつけるという事は、過去の事を記録に残す。楽しかった事も、悲しかった事も。それを見る度に、あの時に戻りたいと願ってしまうのだから、いっその事忘れてしまえたら幸せなのになとつい、考えてしまう。共通して、夢という楽しい出来事はあっさりと覚めてしまうものなのだ。永遠なんてありはしないし、仮に永遠が来たとしても飽きがくる。終わりを恐れ、永遠を求めながらも、決して欲しいとは思えないのだ。終わりがあるからこそ、少しでも長くともがいたり、一瞬の楽しみというものを楽しめる。人間という生き物は身勝手で、愚かしい。

 永遠なんて欲しくない。終わりがあるから、生きとし生けるものは皆美しい。

 命は蝋燭のようだ。そんな話を、国語の授業だか落語だかで聞いた事がある。蝋燭に灯された光は、蝋燭が溶けきるまで、消える事を知らない。途中で折られたりして、短くなったとしても、強い風で光が弱々しくなったとしても、そこに光が在るのなら、必死に燃え続けようと輝く。そしてその光は、他の蝋燭を照らしたり、光を分け与えたり。

 そして同時に、お爺ちゃんやお婆ちゃんの蝋燭は、もうじき蝋燭が溶けきってしまう事も分かっているし、父さんや母さんの蝋燭も、折り返し地点として、もう半分くらいしか残っていないのも分かっていた。対して自分の蝋燭は、まだまだ長い。人生100年とは言っても、その100年は幸せであるのかどうかでさえも分からない。右も左も前後もわからなくなって、人の名前すら忘れてしまうのは嫌だ。短く太く生きようにも、世間はそれを許さない。

 はあ、とため息をつきながら机上の物を片付け、スマートフォンに充電器を差し込み、電気を消し、ベッドを見下ろす。

 眠りに落ちる為だけにベッドへ入る時は、不思議と棺桶に入る心地がするものだ。今日の自分は、これから死んで、次に目が覚めた時は明日の自分として、生まれ変わるのだと。ガワだけはそのまま、中身だけが蛹のように溶けて他の物と混じり、蛾として形を変える。そこには、過去の記憶を持った別人でありながら同一人物が残るのだ。昨日の自分と今日の自分が同一人物だなんて、どうして言える? ただ外側が同じのそっくりさんなだけではないのか。

 ベッドの上には布団と枕しかない。それもそうだ、昨日一昨日先週先月去年の自分の身体は、今自分が動かしている。これから自分も、ベッドで眠って知らぬ内に明日の自分へと混じって、何も無かったかのように消え去るのだから。自分が明日も存在しているとは限らない。自分が存在したという証なんて、どこにもありはしないのだから。

 ふう、と息を吐いて、ベッドの上へ沈み、布団を被る。

 おやすみなさい、今日の自分。

 明日の自分は、きっと今日の自分よりも上手くやってくれるだろうと信じて。

 きっと自分は、望まれなかった自分なのかもしれない。それでも、今日という日を、必死に生きたつもりなのだから。

 そうして、ゆっくりと目を閉じた。

 

 おはよう、今日の私。そして、お誕生日おめでとう。

 

 目が覚めて、未だ重い瞼を擦り、カーテンを開いて朝日を浴び、朝食を取りにキッチンへ向かい、冷えたヨーグルトとスプーンを手に取って口へ運ぶ。口内に広がる若干の酸味と甘味は不思議なことに、毎日食べていても飽きがこない。レースカーテン越しに見える景色は煌々と輝いて、鮮やかな色を映し出していた。二次元のように魔法とか、秘密道具とか、ラブコメとかなんて存在しない。ただ、平凡で代わり映えのない日常ばかりが続いている。

 朝食を食べ終え、ゴミを捨て、顔を洗って身嗜みを整えて支度をして。

「よっし、今日も一日頑張るぞ」

 自分の両頬を軽く叩き、鏡に映る自分に向かって笑顔を作ってみせる。

「げ、時間やばい」

 そそくさと自分の部屋に戻り、慌ただしくリュックを背負い、ロッカーの鍵を胸ポケットへ入れ、自転車の鍵を手に取る。勿論エアコンも切った後に部屋を出て、玄関で靴を履き、

「いってきます」

「いってらっしゃい。気をつけてね」

 親とそんな挨拶を交わして、じりじりと己の身体を焼く太陽がいる外へ出る。今日は昨日と比べて涼しくなる予報らしいが、白い花の咲いていない青い海を見る限り、そんな事はないだろうと苦笑する。いそいそと自転車を倉庫から出し、それに跨って、ペダルを強く踏み込んで町へと駆け出す。

 外は色んな所から蝉の鳴き声は聞こえ、鴉は青い海の中でかあかあと鳴き、田んぼの稲は青々しく成長を遂げ、陽の光を一心に浴びていた。そんな中、何処かで知らない人が死んで、知らない所で新しい生命が生まれているのだろう。きっとその中に、望まれなかった子供も、望んだ死が溢れているに違いない。

 今日はこんなにも晴れている。きっといい事があると、胸の内でそう感じた。一学期最後の学校の日だからこそ、より一層気合が入るものだ。今日は学校で何をしようか、どんな事が起きるだろうかと期待に胸を膨らませると、自然と口角が上がり、ペダルを踏み込む足が軽くなる。

「楽しみだなあ!」

 今の自分なら、きっと何処へだって飛んでいける。泳いでいける。だってこんなにも、外は綺麗なのだから。今日起こることだって、悪い事ばかりじゃないと謎の確信があった。

 強く、早く、ペダルを踏んで。楽しみが自分を迎えてくれるであろう学校へ、真っ直ぐ進む光のように、自転車で走って行く。

 

 一瞬だけ鼻腔を掠めた、線香の香りに見て見ぬふりをして。

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空虚 虹見 夢 @Yume_Nijimi

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