for four hands
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エレベーターに乗り込んで目的の階のボタンを背伸びしながら押した。もうすぐ春がやって来るというのに未だに外はたまに雪が降っていて肌寒い。ここに来る途中で冷えきってしまった指先に息を吹きかけて温める。これからピアノを弾くのだから指がちゃんと動くようにしておかないと。
彼女が住むマンションに足を運ぶようになってから私の心は段々と弾むようになっていった。他人の家に招待されたことなんて今までなかったし、そこで一緒にピアノを弾くという経験は、今後の自分の人生の中でも訪れない貴重なものになるだろうという確信があった。ずっと一人でピアノを練習してきたから、椅子に並んで腰掛けて二人で演奏するピアノは何もかもが新鮮だった。二人で弾くために作られた曲があるということは知っていたけど、そもそもピアノは一人でオーケストラが再現できる楽器なのだから、二人で弾く曲に何の意味があるのだろうと思っていた。でもいざ大譜表が二つ連なった楽譜を目の前にするとその密度の濃さに驚いた。白い楽譜に散りばめられた音符の数々がまるで星空のように見えた。
彼女は相変わらず下手くそで何度も間違えてはその度に笑いながら指を踊らせた。彼女の雑なペダリングと濁った分散和音が気持ち悪かったから、中低音とペダル操作は私が担当した。彼女を伴奏で支え時折メロディを交代しながら進行する二人用の楽譜は、お互いの手がぶつからないようにうまく腕を交差しながら弾くことが出来るようとても緻密に作られていた。こんな繊細な音楽を今まで見向きもせずどこか冷めた目で軽蔑していた自分を恥じた。
いつも私は夜の20時頃に彼女のマンションに行っている。遅い時間にも関わらず彼女は温かく出迎えてくれた。彼女の両親の姿を見たことは一度もなくて、そのことを彼女に問うと両親はいつも日付を跨ぐ一歩手前くらいの時間まで仕事に出掛けていると教えてくれた。毎日夜遅くまで一人で両親の帰りを待って寂しくないのかと尋ねると、彼女は『最近はしいかちゃんがいるから平気!』と満面の笑みを浮かべたのだった。その時は、面と向かってそう言われるのが私は恥ずかしくて、彼女に早くピアノを弾こうと言って話題を逸らしたのを覚えている。悪い気は全くしなくて、自然と頬の筋肉が緩んでいくのを自分でもしっかり感じていた。
練習の途中に休憩も兼ねて、よく彼女は慣れない手つきでハーブティーを淹れてくれた。彼女がお気に入りだというわんちゃんの顔がプリントされた赤色のマグカップと私用に無地のクリーム色のカップを用意してティーバッグにお湯を注ぐ。本格的なやつではなくてスーパーなどで比較的安価で手に入る大容量パックになったものだ。彼女が淹れてくれるものはいつもお湯の分量が多くて味がほとんどしなかったけど、むしろそれが彼女らしくて私は好きだった。味のしないお茶を片手に、他愛もない会話をたくさんした。好きなアニメの話や、好きな食べ物の話、ピアノ以外に熱中しているもの。本当に当たり障りない会話だったけど彼女の口から紡がれる鈴の音が綺麗で、私はついつい聴き入ってしまった。ピアノを練習しに来ているのに談笑に時間を割いてしまうなど、前までの私なら鼻で笑って蔑んでいただろう。それでも彼女と話している時間は一緒にピアノを弾いているときと同じくらい心が踊っていて、今まで意固地になっていた自分が心底バカバカしく思えた。5、6回目くらいに彼女の家にお邪魔した時は、私用のマグカップが彼女とお揃いの黄色のわんちゃんになっていた。
談笑が終わるとどちらともなくピアノに向かって、また音楽を奏でた。右横に座る彼女はずっと楽しそうな笑顔で弾いていて、私はやっぱり眩しいなと思った。キラキラした音がすぐ隣から産み落とされて天井の暖色照明を柔らかく包む。彼女のメロディを際立たせられるように音を紡いで、流れる汗なんて少しも気にならないくらいに音楽に熱中した。本当の音楽を知った気がした。彼女が見えている風景がほんの少しだけ私にも見えた気がした。演奏途中でお互いの手がぶつかって誤った鍵盤を押してしまいぐちゃぐちゃな音が弾ける場面もあった。それすら可笑しくて、楽しくて、気が付けば彼女と笑いあっていた。
彼女と過ごす全てがかけがえのない時間で、楽しくて、宝物だった。
こんな毎日がこれからも当たり前に続くと思っていた。
だから今日、この幸せな日々が何の前触れもなく唐突に終わりを迎えてしまうなど夢にも思わなかったんだ。
いつものようにインターホンを押す。ぴんぽーんという音が鳴って、続いてとんとんとこちらに向かって近づいてくる軽そうな足音が聞こえた。ゆっくりと金色の装飾がついた黒い扉が開いて見慣れた彼女の漆黒の髪が見えた。
「しいかちゃん」
「外めっちゃ寒かったんだけど。もう雪降らないって天気予報で言ってたのに。相変わらず嘘つきだよね。おかげで指カチカチだよ」
半開きになったドアの隙間から身体をねじ込む。暖房が効いた部屋の暖かさに先程まで寒さと戦っていた身体が解れていく。玄関で靴を脱いで揃えている間も彼女はずっと横に立ったままで、何も言葉を発しなかった。
「原田さんどうしたの? お腹空いたとか? 実はね、今日ママに内緒でおやつ持ってきたんだ! あとで一緒に食べよ! とりあえずまずは練習練習!」
「う、うん」
何度も見た廊下を抜けてリビングに入った。相変わらずリビングに置いてあるグランドピアノは黒く立派に輝いていて何度見てもため息が漏れてしまう。私の家にあるのは小さなアップライトピアノで、グランドピアノに触れるのなんてピアノ教室や発表会の場しかなかったから、自分の好きなタイミングで触れる彼女が羨ましい。
「今日はまず何からやる? ドリー組曲もある程度形になってきたし、ハンガリー舞曲とかにもいつか挑戦したいなとは思ってるの」
コートを脱いで丸めてからピアノ椅子の近くに置いた。鞄から楽譜を取り出して譜面台の上に綺麗に並べる。演奏の準備をしている間も彼女はずっと無言でぼんやりと私を見つめていて、いつものような元気さは感じ取れなかった。俯いては顔を上げてまた下を向くという動作を繰り返している。
「原田さん? あ、お腹空いてるんだっけ。 先におやつタイムにするのもアリだね。今日はなんと、ベルギー産のトリュフチョコレ……」
「しいかちゃん、あのねっ」
私の声を掻き消すように彼女が一段と大きな声を出した。彼女のそんな大声を聞いたことがなかったから戸惑ってしまって椅子の角に足をぶつけてしまった。私を真っ直ぐ見る彼女の瞳はずっと揺れていた。
「しいかちゃんにお話があるの」
「……な、なに」
沈黙が流れた。さっきまで気にならなかったガス給湯器が深く唸る音や、上階のかすかな足音が鮮明に聞こえる。彼女からはいつもの笑顔が消えていて全く知らない人に見えた。そういえば私は彼女の笑っている顔しか見たことがなかったんだなとこの時初めて知った。
「あのね。もう……、もう、やめにしたいの」
「なんのこと」
何を。何のことを言っているのか分からない。本当は多分一瞬で分かってしまったのに、分からないと自分に言い聞かせて誤魔化している。だってあまりにもいきなりすぎるから。何の予兆もなかったから。自分で言うのもあれだけど、私は彼女とかなり仲良くなれていたと思っている。最初こそぶっきらぼうな態度しか取れなかったけど、彼女と話すうちに次第に私は明るくなっていったんだ。そして彼女も私が家に来る度に目を輝かせていたように見えた。だから仲が悪くなる理由なんて何一つないはずなのに。
「ピアノ、わたしはもう弾きたくないの。だからしいかちゃん。自分勝手でごめんなさい。今日で終わりにしたい」
深々と頭を下げた彼女の後頭部は真っ黒で綺麗だな、としか私は考えていなくて、その言葉を理解しようとすらしなかった。だって考えたところで意味が分からないから。ずっと何を言っているんだろう。暖房の熱で頭がぼーっとしてきて何も考えられない。何も考えたくない。
「なんで」
短い言葉しか出なかった。馬鹿な私にも分かるように、何も考えられない私でも分かるように、熟考しなくてもいい明確な理由を教えてほしい。それを聞いたところで今の私には理解出来ないとは思うけど。
「それは……」
彼女もまた短い言葉を言って黙ってしまった。眉をきゅっと寄せて白いワンピースの裾を両手で握ったまま立ち尽くしている。その両手は震えていた。
「わたしが、わたしがっ! ピアノを弾くのがたのしくなくなっちゃったから! だからっ、たのしそうに弾いてるっ、しいかちゃんをみるのがつらいの!」
なんだそれ。おかしいじゃないか。あなたが私を誘ったんでしょ。あなたが一緒にピアノを弾こうって言ったんでしょ。もうとっくに私はピアノの技術は諦めたのに。技術を捨てて唯一得られた楽しいという感情さえも私に捨てろというのか。
気がついた時には彼女に向かって走り出していた。そのまま彼女を押し倒して馬乗りになる。
ごん、と鈍い音が響いて彼女が頭を床にぶつけたのだと分かった。苦痛に顔を歪ませる彼女の上から私は叫んだ。
「じゃあなんで! あの時私を誘ったんだよ! 全部最初から嘘で! ただ私がピアノと向きあってきた時間を無駄にさせるために声をかけたっていうの! 実力じゃ私に勝てないから!」
胸ぐらを掴んで揺さぶる。彼女の柔らかそうな生地で出来たワンピースが私の指の形でくしゃくしゃになる。
「私がようやく楽しいって感じた感情も! 私に付き合ってくれていたことも! 全部嘘で全部演技で最初から私をへし折るためだったってことなんでしょ! ねえ!」
「ち……ちが……」
「じゃあ証拠を出せよ! 今更そんなこと言われてももうこっちは後戻りできないんだよ! 今までの時間全部全部全部返してよ! 返せよ! ずっと楽しかったのに! あなたと一緒にピアノが弾けて! 楽しかったのに! なんで……急に……、私は……」
ぽたっと何かが彼女の顔に落ちた。自分がこんな感情的になれるなんて思わなかった。まるで駄々をこねる小さな子どもと一緒じゃないか。本能のまま感情を剥き出しにしてしまうなんて。
怒って、恨んで、そして泣いている。
「わた、私は、あなた、と一緒にピアノを弾くのが……、毎日を過ごすのが、ほんと、うに楽しかったんだよ……」
彼女の胸に額をくっつけた。一度流れ出した涙は自分ではもう止められなくて、彼女のワンピースの胸元を少しずつ濡らしていった。彼女は口元に両手を当ててずっと小刻みに震えていた。小さい嗚咽が時折聞こえてきて、泣くのを我慢しているのだと分かった。
「ごめ……、ごめんなさい、しいかちゃん、ごめんなさい」
胸元にくっつけた額から彼女の心臓がとくんとくんと血液を全身に送り出す音が聞こえる。謝罪の言葉が彼女の口から紡がれたのに、どうしても受け入れられない。本当にこんなんで終わってしまったらもう私は立ち直れない。
「ほんとうに、なんで急に、そんな事を言い出すの……。私はまだあなたと一緒に弾きたい……のに」
「ごめん……、ごめんなさい……もう、わたしは……むりなの。おねがい、おねがいします、もう来ないでください……」
なにかが切れる音がした。それはきっと今までの時間とかけがえのない思い出と楽しかった記憶全てに亀裂が入る音。もう、元には戻らない。
「……分かった。所詮ピアノなんてあなたにとってもその程度だったってことでしょ」
最後まで彼女が言っている事が理解出来なかった。とても一方的で、意味わからない理由だけを言われて、来ないで欲しいとお願いされたのならもう私が何を言ったって無駄だ。最後の望みをかけて話し合いをしたくても、きっと突っぱねられる未来が見える。
彼女の上から降りて、持ってきた楽譜を鞄にしまった。コートを羽織って玄関へと向かう。彼女はまだ床に仰向けになったまま天井を見つめていた。最後に見えた彼女の表情は、今にも泣き出しそうな深く悲しい色に満ちていた。
マンションを飛び出してひたすら走った。息が切れるのもお構いなしに闇雲にただ走った。漫画やドラマなどはこういうことがあった日にはだいたい外は雨が降っているのに、その日はあいにく雲ひとつ無い満点の星空でついに天気からも見放されているなと思った。いつもなら彼女のマンションが近づいてくると辺りから漂ってくる潮騒の香りと、遠くから聞こえるゆったりとした波の音が心地良いと感じるのに今はただ不快でしかなかった。走って走って苦しくなれば、今のこの心の苦しさなんて上書きできると思ったのに、ただ乗算されるだけでちっとも変わりはしない。まだ走り足りないのかもしれない。このまま走り続けて心臓が破れてしまえば、この苦しみから解放されるだろうか。
苦しい。
苦しいよ。
自宅に飛び込んで靴を脱ぎ散らかしそのままリビングまで駆け抜けた。どたどたと私が鳴らした音に母がびっくりしてキッチンから戻ってくる。
「詩香? どうしたの、今日は早かったのね」
母の言葉を無視してそのままアップライトピアノが置いてある隣の部屋まで移動する。勢いよくピアノの鍵盤蓋を開けるとばんっと音がして蓋が側板にぶつかった。大きな音に再び驚いた母が私を追って部屋に入ってくる。
「ちょっと詩香! なにやってるの!」
両手を振り上げ、鍵盤に思いっきり叩きつけた。
不協和音と劈く残響が耳に刺さった。こんなんじゃ心の苦しさは消えない。もっと耳を壊してしまうほどの音で埋めなければこの哀しみは癒えることはない。何度も何度も何度も両手の拳を鍵盤に打ちつける。ピアノも、バカ正直に痛みを感じる身体も、指も、全部壊れてしまえばいい。
「ピアノなんて! ピアノなんて! この世からなくなればいい! 二度と私の視界に入るな!」
「詩香!!!」
不協和音を吐き出し続けたピアノから身体が強制的に引き離される。母が後ろから私を羽交い締めにしている。離して。私は目の前のピアノを壊さないといけないんだ。
「ママ! 離して! 離してよ! もう私は! 私は!」
「詩香! どうしたの! 何があったの!」
「もうやだ、もうやだああああああ! 今までの私の人生、全部が無駄だった! 私の全てが今日! 目の前でなくなった! もういやだよ、私、どうしたらいいの! わああああああああっ」
羽交い締めにしていた母の両手が腰に回された。後ろから抱きしめられていることに安心してしまってまた涙が溢れてきてしまった。止まらない。止められない。
「わああああああああああああああああん」
その日はずっとずっと泣いていた。黙ったまま母は後ろから私を抱きしめ続けてくれて、だから私も母の腕にしがみついて声をあげて泣いた。
どんなに泣いても涙が苦しみを押し流すことはなかった。
♢♢♢
ゆっくりと瞼が開いた。毎日見ている自室の天井がそこにはあって、閉めたカーテンの隙間から僅かに漏れ出る月の光が部屋全体を薄暗く照らしていた。こんな遅くまで寝てしまったことを軽く後悔しながら身体をゆっくり起こす。この後寝ようと思ってももう目が冴えてしまって眠れないだろうなと詩香は思った。そういえばいつの間に眠っていたのだろう。そもそも今日一日何をしていたか思い出せない。もしかしたらずっと眠ってしまっていたのかもしれない。何か夢を見ていたような気がする。あまり思い出したくないような悪夢だったような。背中にじんわりと汗をかいているのが分かる。とりあえずシャワーを浴びに行こうと立ち上がりかけた時に不意に暗闇から声がした。
「詩香。具合どう?」
「わ! びっくりした!」
全く人の気配を感じなかったので急に聞こえた声にかなり驚いてしまった。声がした方を見ると母が壁際に置いた椅子に腰掛けていた。いつからそこに居たのか、何故自分の部屋にいるのか疑問がふつふつと湧き上がる。
「ママ……? なんで私の部屋にいるの? あれ? 私、今日何して……」
判断力が低下していた寝起きの頭が徐々にクリアになっていく。そうだ。今日自分は出掛けていたはずだ。toeLのメンバー達と一緒に原田さんの家に。途中までの記憶はあるのに、どうやって自分の家に帰ってきたかを思い出すことが出来ない。
「あなた……、今日倒れたのよ。たぶんあなたのお友達? から愛依ちゃんに連絡がいって、愛依ちゃんがここまで運んできてくれたの」
「……え」
「あとで愛依ちゃんとみなさんに謝っておきなさいね。とりあえず普通そうで安心したわ。びっくりさせないでよね」
「うん……、そうする……」
母の話を聞いている途中で、眠っていた間に見た悪夢の内容がゆっくりと脳内に浮かび上がった。あれは夢でも何でもなくて、自分の過去の実体験だ。ようやく思い出した。原田さんとの間に何があったのかを。自分の過去を。
「ママ。私ピアノやってたよね」
その言葉を受けた母は石のように固まったように見えた。皺が刻まれた小さな目を精一杯見開いてこちらを真っ直ぐ見ている。
「……ええ、そうね。やってたわよ、ピアノ。あなたからその話題に触れるとは思わなかったから動揺しちゃってるわ今。もしかしてそれが原因で倒れたの?」
「全部思い出したんだ。私がピアノを嫌いになった理由も全部。記憶に鍵をかけて、ピアノをやってたこと自体を忘れてた。あの時のことは……思い出したら苦しいけど、それでもやっぱりあのとき原田さんと一緒にピアノをやってた時間は大切だった。大切だったのに……」
「詩香」
母がこちらに近づいて、いつかのように抱きしめてくれた。母に抱きしめられるなんて大人になってからは初めてかもしれない。その腕の温もりはどこまでも優しくて、詩香は母に身体を預けた。母の服からふんわりと香る柔軟剤の匂いがなんだか懐かしく感じてしまって油断したら涙が出そうだった。
「あなたはね……。原田さんと出会ってから本当に楽しそうにピアノを弾いてたのよ。毎日帰って来る度にその日の出来事を嬉しそうに話すあなたが可愛かったわ」
「……うん」
「あの日はあなたが泣いて泣いて大変だったの。原田さんと喧嘩したってあなたは言っていたけど、あの時のあなたにとっては本当に辛い出来事だったんでしょう。あの時何もしてあげられなくてごめんなさいね」
「……ううん」
「大好きだったはずのピアノに嫌悪感を剥き出しにするあなたを見ているのが辛かった。だから私もあなたが悲しみに潰されないようにピアノのことは言わないようにしたの。あなたは次第にピアノや音楽のことを忘れていったわ。そしてその穴を埋めるように色んなものに興味を示し始めたのよ。だから私はあなたがしたいと言ったことはなんでもさせてあげたいと思った」
やっと分かった。
自分が色んな事柄に興味を持っても続かなかったのは、どうせ続けてもいつか目の前から跡形もなく消えて無くなってしまうと知っていたから。未来のことを考えないようにしていたのは、ほんの少し先の未来でさえも簡単に壊れることが分かっていたから。記憶の奥の奥に大切な思い出を封印して縋るように何かを求め続けていたのだ。代わりになるものなんてあるわけがないのに。
「ありがとうママ。本当にありがとう。私、もう大丈夫だよ。ママはずっと私の過去を覚えてくれてたんだね。私を守ってくれてありがとう」
母の目から透明な雫が流れてきて、それが自分の身体にゆっくりと落ちた。母は涙さえも温かくて、この人がいかに自分を大切にしてくれていたかが分かった。気がついたら自分も泣いていた。あの日のように悲しい涙ではなくて、優しさに溶けていくようなそんな涙だった。
「当たり前でしょう。娘のことを忘れる親なんていないわ。そうだ詩香。ピアノ、まだうちにあるのよ。弾いてみる?」
「……弾く。私、弾きたい」
にこりと微笑んだ母の後ろについて自室を後にする。急勾配の階段をゆっくり降りて、リビングに出た。リビングの隣には物置となってる部屋があってそこには自分の古い服や母のミシンや父が読まなくなった古本などが詰め込まれていた。ずっと物置だと思ってたからこの部屋に入ることはほとんどなかった。所狭しと積まれた古い家具や衣装ケースの間を抜けていくとそこにはシルクで出来た大きめのブランケットがかけられた箱のようなものがあった。母がゆっくり布を取って現れたそれは、埃が被った黒いアップライトピアノだった。そのピアノはずっとずっとこの場所で誰かを待っていたように淋しげに佇んでいた。
「……弾いていい?」
「もちろん」
ピアノの前に立って鍵盤蓋を開ける。椅子はなかったから立ったまま中央位置のドの音を押した。長らく調律されていないピアノの音はひどく平均律からズレていて、あまりにもヘンテコな音に思わず笑ってしまった。
「……変な音」
「そうね。でも優しい音だわ」
「うん」
『星』のメロディを弾いた。ワンフレーズしかないメロディをただひたすら繰り返していると、狂った音に耳が慣れてきた。いつまでも弾いていられそうだと詩香は思った。優しい音に身を委ねながら母と一緒にその日の夜を過ごした。
長い長い夜だった。
♢♢♢
次の日、toeLのメンバー全員に電話した。グループ通話で繋いで昨日のことを謝ったが、みんな詩香のことを心配する声ばかりで、むしろ嫌な思いをさせて申し訳ないと逆に詫びを入れられたくらいだ。だから自分もなんで倒れてしまったのかを説明した。記憶を取り戻したことと原田さんとの間にあったことを話している間、みんなは黙って耳を傾け続けてくれた。一通り話し終わった後、青斗は詩香の心の整理が出来るまで休んでほしいと提案してきた。その気持ちだけで充分だったし、今は音楽を早く完成させたいと告げると青斗はいつものような温かい声色で分かった、とだけ呟いた。
クラウドファンディングのサイトページは昨日の夕方頃に桃葉が一般に向けて公開してくれていた。本当は昨日原田さんの家に行った後カフェかどこかに移動して、みんなで画面を見ながら公開する予定になっていたので、手を煩わせてしまったことに罪悪感が芽生えてしまった。桃葉はむしろ役に立てて嬉しい、という言葉を投げかけてくれて、それだけでも心が救われたような気持ちになった。みんなの優しさに助けられて自分は今を生きているのだと実感する。だから、この人たちのために一刻でも早く音楽を届けたいと思った。ちなみに愛依にもお礼とお詫びを兼ねて電話したのだが、『デパ地下のシュークリームでいいよ! 安上がりのウチ最強でしょ』と電話越しに鼻息の音まで聞こえてきたので吹き出しそうになった。今日までずっと関係を続けてくれている友人に改めて感謝の言葉を述べると、不思議そうな声で『また何かに憑かれた?』と冗談を返されたので、その様子があまりにも可笑しくて笑い声を抑えることが出来なかった。
それから数週間が過ぎた。本番で使用するダンスの振り付けは完成して、みんなはVRCに籠って練習する日が増えていった。クラウドファンディングの方は公開してから着々と支援者が増えていて、この調子でいけば来週には目標金額を達成出来そうだった。ライブの日には余裕で間に合いそうだ。ところがもう一つの音楽作成のタスクだけは最終工程で止まってしまい、そこからなかなか進まない。現在はお昼の12時を過ぎたところで、今日も朝から編集ソフトを触っているのに進んだのはループ素材のフェードアウトの微妙な調整だけだった。
曲はもう少しで出来上がるところまで来ているのに何かが足りないような気がしてまだ完成には至らない。みんなにはずっと仮音源で練習してもらっているから早く完成した音楽を届けなければならないのにどうして何かが足りないと思ってしまうのだろう。彼女が残したプロジェクトファイルを開いて作り方を参考にしながらエフェクト選びやプラグインの調整など細かな部分を見直しても、欠けている何かを見つけ出すことができない。彼女にあって自分には無いものは音楽に対して楽しいという感情を持つことだと思っていた。確かに今楽しいと思いながら作っているかと言われれば首を縦に振ることは出来ないし、地味な音を一つずつ組み合わせていく地獄のような作業に楽しさを見出すことなんて、完成期限が迫っている今の自分には到底無理な話だった。彼女はパソコンに向かって曲を作る行為にも楽しさを感じていたのだろうか。もしそうなら本当に尊敬してしまう。地道な作業の繰り返しと何度も聴き返してどこが納得いってないのかも段々と分からなくなっていて集中力が続かない。一旦リフレッシュして気持ちを切り替えたほうが良さそうだ。一度制作の手を止めて、彼女が残したプロジェクトの曲を聴き返す。
彼女の曲を聴きながら、また過去を思い返した。あの頃感じた痛みはもうあまり感じない。でもやはり気になる部分はある。どうして彼女はピアノに楽しさを感じられなくなってしまったのだろう。ピアノの申し子と言わんばかりに誰よりも楽しそうに奏でていたのに、急に態度が変わってしまった理由がどれだけ考えても思いつかない。自分が何かしてしまったのだろうかと思ったが、やはり同じく何度考えても理由が見当たらなかった。その理由が分かればもっとこの心のもやもやは晴れる気がする。toeLのメンバーなら何か知っているだろうか。
「あれ……?」
彼女が作った夜の海の曲を聴いていた時だった。ふいに曲から磯の香りが漂ってきてこの香りを嗅いだことがあると強く思った。もちろん海の香りなのだから海にいけば当たり前に呼吸をするだけでその空気が鼻に流れ込んでくるのだけれど、それが何故か鮮烈に彼女と結びついている。彼女のマンションに向かう途中、いつもその香りがした。遠くで鳴っている波の音を聞く度に、自分は今日も彼女に会えると心を弾ませていなかっただろうか。彼女と一緒に練習途中に海を見に行ったことがなかっただろうか。その海から見上げた夜空に心を打たれた気がする。左隣には潮風で靡く彼女の黒髪があって、その横顔が素敵だなと思ったことがなかっただろうか。
いや、絶対にあった。
そう思った時には愛依に電話を掛けていた。ワンコールで出た友人に要件を告げると、おっけーとだけ返ってきて電話が切れた。急いで日焼け止め入りの下地と眉毛だけ整えた簡易化粧を終わらせて、スマホとパソコン、メモ帳を鞄に押し込み玄関へ向かう。玄関のドアを開けるともうすでに愛依が車で迎えに来てくれていて、軽く手を振りながら助手席へと乗り込んだ。
「ウチのこと、タクシー手配アプリかなんかと勘違いしてない?」
「ごめん、愛依! どうしても車ですぐに移動したくて!」
「まあ詩香に頼ってもらえるのは嬉しいし、頼ってって言ったのウチだしな。全然おっけーよ。 それじゃドライブデートと行きますか! んで、どこ向かえばいいの?」
マップアプリを開いて候補の場所を探す。表示された検索結果には意外と候補が並んでいて手当り次第に潰していくしかなさそうだ。
「ねぇ、愛依。東京で波の音が聞こえる場所で思いつくところない?」
「チル的な感じで店内とかで流れてる場所ってこと? それとも本当の波のこと言ってる?」
「本物のほう」
ハンドルを握りながら愛依はうーんと唸って考え始めた。都内でも本当に意外とたくさんあるのだ。有名なところなら愛依も知っている可能性が高い。詩香もスマホをスクロールしながら思い出の場所の風景の映像を記憶の本棚から引っ張り出す。煌めく星空と一緒に何かを見た記憶がある。あれは何だっただろうか。
「葛西臨海公園とか? あと羽田の近くにもあった気がする。なんだっけ……、たしか城南島海浜公園だったかな」
「おっけ。じゃあとりあえず葛西臨海公園に向かってもらおうかな」
「おうよ! 飛ばすぜ!」
愛依はそのままアクセルを吹かして目的地の臨海公園を目指した。車で移動している最中にどうして急に波の音が聞きたくなったのかを聞かれた詩香は、自分の記憶の中にある思い出を掻い摘んで説明した。ハンドル操作をしながら話を聞いていた愛依は、『詩香が仲良くしてるあの店員さんなら知っているんじゃない?』と言ってきたのだが、今桃葉は絶賛追い込み練習中だし、自分の咄嗟の思いつきでメンバー全体に迷惑をかけたくないと思い桃葉には今回のことは聞かなかった。それを愛依に告げると『ウチのことはこき使っていいのかよ』とぶーぶー言いながらツッコミを入れてきたので、デパ地下のシュークリームにプラスして最先端のスイーツ盛り合わせセットもつけると言ったら大人しくなった。相変わらずこの人は映えそうな食べ物には目がないのだ。
臨海公園に辿り着いて、車の中から辺りを見回した。確かに綺麗な場所ではあるが、自分の中にある思い出とは重ならない。この風景の中には彼女はいない。
「ごめん愛依、ここじゃない」
「あちゃー、ハズレか。じゃあ次はどこ行く? どこまででも付き合うぜ」
「うん、ありがとう。んー……、次はどうしようかな。ちょっと待ってね」
スマホで調べることは諦めて、記憶だけを頼りに目的の場所を絞り込む。彼女と星空を見た時にどんな会話をしたのか思い出せればその場所が見えてくるかもしれない。
「ん……?」
記憶が混濁している。そもそもずっと星空を見たときの記憶は母とキャンプに行った時のものだと思っていた。キャンプ場は確か山の中で、波の音なんて一切聞こえなかった。その時は本当に母が言っていた通り自分は直ぐに眠ってしまって星空なんて見ていなかったのかもしれない。母と交わしたと思っていた会話の数々は実は全部原田さんとの思い出で、自分がピアノに関する記憶を無意識に閉ざしてしまったから、関連性のある事象も全て忘れてしまっていた可能性は充分有り得る。それなら、星空の下で彼女と話した記憶は確か、大きな月の話とか、綺麗な星を数えたりとか、あとは星にも負けないくらい煌めく何かの光のこと。
「橋……、そうだ橋! 吊り橋! キラキラ光る橋が見えたんだ! 星空の下に確かにあった!」
記憶が一気に繋がって脳内を走り抜けていく。波の音が聞こえて、輝く吊り橋が見える風景。その景色だけが網膜に焼き付いていく。
「それ、レインボーブリッジじゃね?」
愛依の言葉で確信した。レインボーブリッジが見える海風漂うあの風景はきっとあそこしかない。頭の中に降ってきた場所の答え合わせをしようとその名前を口に出した。愛依も同じ場所を想像していたのが分かった。
「「お台場海浜公園」」
海浜公園の駐車場に車を止めて、砂浜へと向かった。この景色だ。間違いない。この場所に夜、彼女と一緒に来たことがある。ここから彼女が住むマンションまではそう遠くなかったはずだ。
「愛依、私行くところがあるの! 」
「え、ちょ、ウチは?」
「ごめん、ここで待ってて!」
「ちょっと詩香!」
愛依に背中を向けて走り出す。記憶の中の思い出がルートを自動的に示してくれて、身体が勝手に目的地へと吸い寄せられていく。角をいくつか曲がって、直進した先に見えたのは見覚えのある分譲マンション。あの頃よりも建物が小さくなったように見えるのは身長が伸びたせいだ。あの日はあの場所から逃げるように走り去ったのに、今は逆にただその場所へ向けて足を進めている。彼女が最後に見せた表情の意味が、今日ようやく分かるかもしれない。
辿り着いたマンションの、入口の自動扉の前に立つ。オートロックシステムのために作られた専用インターホンに目的の階の部屋番号を入れた。あんなに色々忘れていたのに一切迷うことなく部屋番号を打ち込めたことが意外だった。ぴんぽーんと昔何度も聞いた音がしてしばらくの静寂が流れた。既に別の人が住んでいるという点を全く考慮していなくて、内心押してしまってからかなり焦っていた。でも少し待った後にインターホン越しのざらついた声が口にした名前に詩香は胸が高なった。
「はい、原田です」
少ししわがれた心温まる低い声で、その人は確かに原田と名乗った。すぐに桃葉が言っていた原田さんの祖父だと分かった。
「あのっ、私っ、えっとすみません、原田さんの、あの、知り合いで……!」
インターホンを押した後のことなんて考えていなかったので何と言っていいのか言葉に詰まった。これじゃただの不審者だ。ちゃんとここに来た理由を告げなければ。何か言葉を発しないと。
「もしかして、孫の……お友達かい?」
その人の声はずっと穏やかで、夜の海岸に打ち寄せる静かな波のようだった。だから詩香も咄嗟に出てしまった。彼女本人にはついに言えたことがなかったその名称を。
「……はい。友達です」
どうぞお入りください、と促され自動扉が開いた。数年越しに見るマンションの構造もやはり身体が覚えていて、無意識にエレベーターまで向かうことができた。1階で既に待っていたエレベーターに乗り込み上階へのボタンを押す。静かな音を立てながら上に昇る箱の中で、詩香はこの後のことを考えた。聞きたいことがたくさんあるはずなのに、何から伝えればよいのか整理出来ない。結局ほとんど考えられないまま目的の階に到着してしまった。
金色の装飾がついた黒色の扉はあの頃と同じままの風貌で懐かしさに胸が締め付けられた。今でもインターホンを押したら彼女が満面の笑みで顔を覗かせてくれそうな気さえする。早鐘を打つ心臓に手を当てて深呼吸してからインターホンを押した。
ゆっくり扉が開いて、穏やかな声に似つかわしい優しそうな老夫が出迎えてくれた。案内された後をついてリビングに入ると、そこには黒いグランドピアノが置いてあった。
全部、あの頃のままだ。
「ピアノ……。ずっとあるんですね」
そういうとその老夫は口を真横に引いて優しそうに笑った。その面影が彼女と重なって、この人がやはり彼女の祖父なのだと再確認できた。
身体をきちんと老夫へ向けて挨拶をする。今日ここに来た理由をちゃんと伝えなければならない。
「まずはいきなり来てごめんなさい。私、三保詩香といいます。原田さんの……えっと、お孫さんのことでお聞きしたいことがあるんです」
詩香の言葉にその老夫は目を見開いた。口を震わせて目に涙を浮かべている。
「君が、詩香さんか。そうか、君が……。孫がね、よく君の話をしてくれたんだ」
「えっ、ほんとですか」
実は最初から嫌われていたのかもしれないと密かに思っていたから、その言葉を聞けただけでだいぶ心が軽くなったような気がした。なおさら彼女がいきなり辞めると言い出した理由が想像できなくなる。
「あの……お孫さんがどうしてピアノを弾かなくなってしまったのかご存知ですか。私、彼女と一緒にピアノをここで弾いていたんです。本当にすごく大切な思い出なんです。最後まで私にはその理由が分からなかった。なんでもいいんです! 何か少しでも覚えていることがあれば……」
「孫は、とにかくピアノが大好きな子だったよ」
懐古の表情を浮かべながらその老夫は語り出した。すぐに彼女がピアノに楽しさを感じなくなってしまった理由が分かった。それはどこまでも残酷な現実で、ひどく単純明快で、幼い子が抱えるにはあまりにも酷な理由だった。
「孫は、早くに両親を亡くしたんだ。丁度詩香さんとピアノを弾いていた時期だね」
「亡くなった……んですか」
「交通事故でね。見るに堪えない姿だった。孫の両親はいつも夜に仕事をしていてね、その日も車で職場に向かったんだ。ひどい土砂降りの夜だった。泥濘にタイヤが取られて対向の大型トラックに押しつぶされたんだよ」
心臓がどくんと鳴った。
「いつものように君とピアノを弾いた夜だった。孫は一人ずっとこの場所で両親の帰りを待っていたんだ。でも次の日になっても二人は帰ってこなかった」
心臓がずっと煩い。
「私のもとに連絡が来たのは身元確認が取れた次の日の午後だった。慌ててここまでタクシーを飛ばしてやってきたんだ。孫はずっと玄関で立ち尽くしていたよ。私の顔を見て、『おかあさんとおとうさんが帰ってこないの』と泣き叫んでいた」
心臓が痛い。
「あまりにも可哀想で真実を伝えるのにとても勇気を振り絞ったのを覚えているよ。孫はその日からずっと泣いていて、しばらく涙が止まることはなかった。私もずっと胸が苦しかった。こんな老いぼれじゃなく、大好きなお母さんに抱きしめてほしいだろうに、私に出来ることはただ傍にいてあげることだけだった」
痛い
「孫のピアノの先生は母親だったんだ。だから孫はピアノを弾くことができなくなった。母親のことを思い出してしまって泣いてしまうから。それでもピアノが好きで、毎晩ピアノの下で丸まって眠っていたよ」
私は
「君と……、君と一緒にピアノを弾くのがやっぱり好きだったんだろうね。両親を失ってからもしばらくの間は君とピアノを弾く時だけ鍵盤に手を置いていた」
彼女を
「でもまだ幼かったから耐えられなかったんだろう。ピアノに触れる度に苦しくなっていった心が先に壊れてしまった。最後に君に酷い事を言ってしまったとずっと後悔してまたしばらく泣いていたよ」
傷つけた
「それから彼女は笑わなくなってしまった。以前のような無邪気さは完全に消えて、仲の良い友人を作ることもなかった。どうせ自分が壊してしまうから、といつも暗い顔をして言っていたよ。そのあと中学になる頃にはこの家を飛び出して一人で暮らすようになった。ピアノはそれでも諦められなくて続けていたみたいだけど、まるで機械的のような……、楽しいという言葉はもう孫の口からは出てこなかった」
ただ黙って聞いていることしか出来なかった。自分はあの時彼女に追い討ちをかけるように深く傷付けてしまった。語られた真実はあまりにも重たくて、自分がピアノを嫌ってしまった理由なんて塵に等しいレベルなのだと思い知らされる。
まだ最後に見せた彼女の表情が消えない。
泣きたくて堪らないのに涙を決して見せなかった彼女の顔を。
きっと自分のことを傷つけないようにしてくれた彼女なりの最後の優しさだったのだろう。
壊れた心から黒いものが一度溢れてしまえば止められないそれがお互いをより深く蝕んでしまうと彼女は分かっていたから。
自身が一方的に嫌われることで、一人で全部背負い込もうとしたんだ。
「でもね。詩香さん。孫は本当に君とピアノを弾くのが大好きだったんだよ。昔はいつも楽しそうに君のことを語ってくれたよ。だから君を嫌いになったわけでも、ピアノを嫌いになったわけでもないんだ。どうか、孫を許してやってほしい」
「違いますっ! 私怒ってるんじゃなくて、最後に……私、原田さんを傷付けてしまった……。謝るのはこちらです、本当にごめんなさい……」
頭を深く下げて謝ることしかできなかった。謝ったところで取り返しなんてつかないのに、今の自分にできる最大限のことがこれしかない。なんて情けなくて空虚なんだろう。
「ちょっと待ってておくれ」
詩香に顔を上げるよう促した後、老夫はリビングの奥の部屋へと消えていった。しばらくして小さな何かを持って戻ってきて、グランドピアノの譜面台にことんと置いた。銀色でできた手のひらサイズの小さな箱には上部に何種類かのボタンが付いていて、表面の小窓からは巻いてある黒いテープが見える。小さなカセットテープレコーダーだ。
「これにね、孫が残したピアノの音が入っているんだ。君の名前を呼んでいたよ」
老夫はレコーダーの再生ボタンを押した。カチッと鳴った後にぶーんと唸るモーター音とテープが巻き取られる音に混ざってパチパチとしたノイズのようなものが流れた。しばらく待っていると彼女の声とピアノの音が聞こえた。あの『星』のメロディを彼女が弾いている。記憶を思い出せても彼女の声だけは最後まで思い出せなかった。こんな綺麗な鈴の音をどうして忘れてしまったんだろう。あの頃のままの彼女がまるでそこにいるようで、気がついたら涙が流れていた。
『♪〜〜〜〜〜』
『んー、ちゃんとこれ、とれてるのかな』
『♪〜〜〜〜〜』
『あ、今のけっこう良かったかも! この感じにしようかな』
『♪〜〜〜〜〜』
『よし! ひとまずこれで! もう一回通しで弾いてみよーっと』
『♪〜〜〜〜〜』
『何してるの?』
『わ! おかあさん! いま録音中だったのに!』
『ごめんごめん! 今度は何してるのかなって思って声掛けちゃった』
『あのねあのね! 今わたし、曲を作ってるの! しいかちゃんと一緒に弾きたいんだ!』
『すごいじゃない! どれどれお母さんにも聞かせて』
『こんな感じだよ!』
『♪〜〜〜〜〜』
『綺麗なメロディね。こんなの思いつくなんてうちの娘は天才さんだな〜?』
『えへへっ、おかあさんありがとっ。今度しいかちゃんに会った時に聴かせてあげるんだ! あ、そうだ! しいかちゃんと一緒に作ったらもっと楽しいはず! 絶対そうだよ!』
『二人で一曲作ったら、一生二人の思い出になりそうね』
『そうでしょそうでしょ〜! 曲のタイトルは決めてあるんだ! 星っていう名前なの』
『キラキラしててぴったりね。まるでお星様を見てる時に聞こえてきそうなメロディだものね』
『それだけじゃないんだ〜! ふっふっふ、今日のわたしは頭が良くて、めちゃくちゃいい考えが浮かんだんだよ!』
『あら、なにかしら』
『あのねあのねっ! しいかちゃんのお名前ってみほしいかちゃんでしょ? お名前にね、ほしって入ってるの! どうどう? 気づいたわたし天才でしょ?』
『あらほんとだ! やっぱり天才さんね!』
『んふふ、そうでしょそうでしょ! わたしが月で、しいかちゃんは星なの! 二人いれば夜なんて怖くないよ! だっていっぱいいーっぱい夜の空を光らせるから!』
『本当にキラキラしてるわ、あなた達』
『そうだ! 今度しいかちゃん誘って星空見に行ってみようかな! しいかちゃんと見る空は絶対きれいだよね』
『♪〜〜〜〜〜』
『この曲の話もして、一緒に作ろって言ってみる!』
『ねぇ、月ちゃん』
『なぁに?』
『誰かのためにつくる音楽は楽しいでしょう』
『うん! とっても楽しい! はやくしいかちゃんに聴いてもらいたいな〜』
『ほんとにしいかちゃんのこと大好きなのね』
『うんっ! わたし今まで発表会とかでもみんなに下手だって言われてきたから……。まあその通りなんだけど。でもしいかちゃんはね! 初めて会った時にわたしの音が素敵だって言ってくれたの! 嬉しかったなあ。だから初めて会ったときからずっと大好きなんだしいかちゃんのこと!』
『♪〜〜〜〜〜』
『あ、録音してるんだった! 今のおかあさんとの会話も全部入っちゃった! もう一回曲だけ撮り直』
ブツっといってテープの回転が止まった。涙が止まらなくて声を抑えることが出来なかった。彼女の声もピアノの音もとにかく美しくて、彼女が自らの母親と話している微笑ましい様子が逆に胸を割いた。目の前に彼女の祖父がいるのにも関わらず、子どものように大声を出して泣いて、とめどなく溢れる涙をただ零し続けた。
「孫は……、そのあとまたピアノを弾き始めたということを桃葉さんから聞いたよ。多分桃葉さんや支えてくれる誰かに出会えたんだろう。孫がまた大好きなピアノに向かった。それを知れただけで私は本当に嬉しかった。詩香さんも、もしかして桃葉さん達と知り合いなのかな」
「はい……、はい……!」
両手で涙を拭って必死に声を絞り出す。拭っても拭っても涙が溢れてきて袖口をどんどん濡らしていった。
「孫にピアノを楽しいという気持ちを思い出させてくれてありがとう」
「わ、私は……っ、原田さんに何もしてあげられてなくて、何にもっ、何にも……」
「でも君は今も桃葉さんたちと音楽を続けてくれているんだろう。それだけで充分だよ」
「原田さんと約束したのに……っ、一緒に曲を作ろうって……! それも叶えてあげられなかった……っ、私は……っ」
「なら、その曲を完成させてあげてくれないか。孫やみなさんのために」
自分に今できること。それは彼女が残した曲を最後まで作り上げることだ。
心を込めて、作ることだ。
ずっと原田さんの音を越えられるには、toeLに相応しい曲を作るにはどうしたらいいかばかりを考えて音に心を込めていなかった。期限に間に合わせることだけ考えて、そこにいつしか感情を乗せることを忘れていた。
彼女にあって自分に足りないもの。
それは、『誰かのために心を込めて作る』という想いだ。
その場ですぐにパソコンを開いた。涙で滲んだ視界で画面がぼやける。もしかしたら、という考えが唐突に脳裏を過ぎって、今すぐ確認せずにはいられなかった。彼女のパソコンからコピーしたロックがかかった編集プロジェクト。彼女自身でも彼女の母親の生年月日でもなかったパスワード。自分の誕生日では開かなかったパスワード。
推測したパスワードを入れた。
四桁ではなく八桁のものだ。
初めて彼女と会った、あの年の私の誕生日。
『20070126』というパスワードで開いた編集プロジェクトの中身は、一曲分の波形データだった。震える指で再生するとパソコンの安っぽいスピーカーから『星』が流れ出した。和音もリズムも何も無い、ピアノだけで紡がれたメロディ。
楽譜には途中までしか書かれていなかったそのメロディには続きがあった。
彼女はメロディを作り上げていたんだ。
約束通り、メロディを完成させていたんだ。
メロディが出来上がったらそれに伴奏をつけるって、あの星空の下で彼女と約束したんだ。
「あっ、ああ、っ、ああぁああああああっ」
胸の奥で堰き止められずに、決壊した声が喉を突き破った。悲鳴に近い泣き声がリビングに叩きつけられて、その振動で譜面台に置いてあるレコーダーが動いたように見えた。嗚咽ばかりが喉を震わせて呼吸ができない。何度拭っても頬を濡らすものが追いついてきて、もう戻らない時間をなぞるように滴り落ちた。老夫が優しく背中をさすってくれて、その大きな手の温かさが心に空いた大きな穴を塞いでくれているような気がした。
「私っ、やらなきゃ。やらなきゃ……!」
「君が孫のことを覚えていてくれるだけで、私は嬉しいよ」
ぎゅっと目をつぶって流れ続ける液体を切る。老夫の言葉に大きく首を振って全力で肯定を示す。もう二度と忘れたりなんてしない。
絶対に忘れない。
海浜公園に戻ったときにはすっかり夜になっていて、頬に残った雫を冷たい夜風と潮の香りが静かに連れ去ってくれるようだった。それでもまだ溢れる感情の水脈は止まらなくて目尻から外へ押し流されていく。
愛依は展望デッキにいて、隅田川から東京湾に流れる水筋を黙って眺めていた。詩香の姿を見て小走りで駆け寄ってくる。
「詩香まじ遅い! どこいってた……の……」
涙を流しながらフラフラと歩いて愛依の傍に寄る。その胸に顔を埋めて声を押し殺して泣いた。安心しきってしまったのか、喪失のしるしの液体は静まる気配がなかった。
「どしたガチ泣きじゃん。最近よく泣くね詩香は。今度はどうしたの」
「私、私っ! 最後に原田さんにひどいこと言っちゃった……! 謝りたくても、もう、謝れないじゃんか……! 会いたい……っ、彼女に会って謝りたいよぉ……っ」
愛依の腕が背中に回される。前に同じように泣きついた時も、愛依は黙って抱きしめてくれた。そしていつも気の利いた優しい言葉で励ましてくれるのだ。
「その人との間に何があったのかウチは分からんけどさ、詩香はその人のこと本当に大切だって思ってるってことでしょ。そんなに泣くくらいだもん」
「そうっ、私、ほんとに大切だったのにひどいことを言って、ずっと忘れて今まで生きてきたっ」
「でも、今は思い出したんでしょ」
「そうだけど……」
愛依は静かに頭を撫でてくれて、詩香がしっかりと聞き取れるようにゆっくりと喋った。
「詩香。思い出って消えないんだよ。絶対ね。小さい頃の楽しかった出来事も、忘れたいほど辛かったことも、全部自分を作る要素になって人は成長していくの。その思い出の数々で詩香はできているんだよ。たくさんの思い出があったからこそ素敵に成長した今の詩香にウチは出会えたんだ」
愛依の声は心にまっすぐ届く。
心臓の痛みを直接拭い去ってくれる。
「だからその人のことを思い出したときにより良い思い出が蘇るように、思い出をたくさん作ろう。謝れなかった後悔じゃなくその人のために詩香が今できることをやって、もっと素敵な詩香になってやろう。あなたのおかげでもっと私は素敵になれたよって胸を張って言えるくらい」
心臓に届いた言葉が血液となって全身へ送り届けられる。
「だから詩香が今言うべきことはごめんじゃなくてありがとう、な! 『あなたに出会わせてくれてありがとう』って盛大に言ってやろうぜ」
愛依の言う通りだ。
今の自分に出来ることを精一杯やる。
原田さんとの約束を叶えたい。
「……そりゃ愛依が結婚するわけだわ。こんな最高にカッコよくて可愛い人をほっとくわけないもんね」
「だろ? ウチに会えたことにも大感謝してな」
「一生大好き」
高らかな愛依の笑い声が波の音と混ざりあって夜空の星を揺らしていた。あの頃原田さんと見た景色とはまた違う表情を見せていた星空はとにかく眩しくて綺麗だった。
♢♢♢
「どうしたの? 急に話があるって」
休日のカフェで真剣な表情の詩香を見ながら青斗がそう言った。他のメンバーも何事かと目を見合わせている。
愛依と海浜公園へ行った数日後に、詩香はtoeLのメンバー全員をカフェに呼び出した。自分の中で固まった音楽に対する方針をみんなに説明するためだった。あと2週間程度でライブ当日を迎えてしまうのにまだ曲ができていないのだから、メンバーに相当負担がかかっているはずで、詩香は心の底から申し訳なさを感じていた。それでも、決心は揺るがない。作りたいと思える音楽を作るためにはこれから話すことをメンバーには了承してもらわなければならない。
「みんなに話があるの。私が作ってる音楽。一から作り直させてほしいの」
全員が息を飲んだのが分かった。だってただでさえ今のバラードが出来上がっていないのに、ここからあと2週間で全く別の曲を作り始めて完成させるというのだ。無謀にも程がある。自分が同じ立場だったら易々と同意はできないだろう。
「無茶なお願いなのは分かってる。でも、私は原田さんと約束した曲を作りたい。そしてその曲でみんなに踊ってほしい」
「……構成も変えるのか」
理希が静かに呟いた。もうバラードの尺で振りを作っているし今から音楽を作り直すということは、振り付け自体を大きく変える必要があるからだ。
「……うん。テンポは90から180まで引き上げる。だいたい見積もった感じだと4分以内。バラードからtoeL向けの四つ打ちに変更するつもり」
詩香は頭の中で組み立てている構成を説明した。原田さんが完成させた星のメロディは32小節。それだけだと間が持たないから、そこに詩香オリジナルの要素をプラスする。星のメロディを全て彼女が作ったままに取り入れて、あとは彼女が作った曲からモチーフを拝借して繋ぎ合わせる。これで概算だと4分に収まる。
「一つ教えてほしいんだけど、どうして急に変えようと思ったの」
青斗が質問を投げた。誰しもがその疑問を持っていることだろう。詩香は持ってきたパソコンの編集画面を表示してみんなのほうへ向けた。
「これ……」
「うん。原田さんの編集プロジェクト。パスワードが分かって開けたんだ。さっき言った通り、彼女は『星』を完成させてた。このメロディはそのまま使いたいと思った。それに……」
そう。それだけならバラードのままで良かったはずなのだ。詩香自身が曲の雰囲気をガラッと変えたかった理由。それを伝えたい。
「私が、みんなのために作りたいと思った曲はやっぱりバラードじゃなかったから。toeLらしいビートで観客を沸かせられるような、そんな滾るような音を作りたい。そしてそこに私が伴奏をつけた彼女のメロディが乗るの。これが私がやりたい『星』の完成形だよ」
一息でそう言い切った。自分が理想としている音楽。それを他の誰でもないこの人たちのために作りたい。自分と彼女が紡ぐ音でtoeLをもっと輝かせたい。この人たちが喜ぶ顔が見たい。
「おっけー、分かった。桃葉と潮音のスケートをサイドグライドに変更。倍テンだから基本ハーフ2ステップで、2、4でバウンスとノリを出そう。これなら大幅な変更は要らない。理希さんはフォーメーション調整、僕はコークスクリューを入れる」
飛び出す専門用語に目を丸くしてしまった。みんなは青斗の発言に口角を上げながら頷いている。
「え、でも、いいの?」
「詩香。僕たちはtoeLだよ。2週間もあればクオリティは持っていける。詩香はやりたいんでしょ。それなら反対する理由がない。あとさ」
全員の目がこちらに向く。みんなの目の奥には蒼い月の光が輝いていて吸い込まれそうなほど壮麗だった。自分がこのチームの一員であることが本当に誇らしい。
「そんな詩香の音楽が聴きたいから最初から僕たちは君に頼んだんだ。最高のステージにしよう」
目の前に差し出された四つの手に自らの手を重ねる。この人達を月と星の光でもっと輝かせる。これが自分と原田さんの願いそのものだ。
「絶対成功させる!」
「よーし、そうと決まったら猛練習だよみんな! しぃしぃの音楽、待ってるから!」
「そうですね! 自分もステップ見直します」
「フォーメーションの置き換えは任せてくれ。あと出来れば現実で振り合わせる時間も作りたい。最終週はスタジオ泊まり込みでやりたいくらいなんだが、今から取れるとこあるかな」
理希の言葉にふとその情景が降りてきた。広い空間で音響設備が整っていて、振りが確認できる大きな姿見が置いてある場所。
「私、心当たりがある……!」
鞄の奥底に手を突っ込み一枚の紙を取り出した。ずっと鞄に入れっぱなしだったその名刺からは、天然由来の湯の成分が混ざったような木の香りがした。
♢♢♢
観音開きの扉に手をかけゆっくりと押す。頑丈そうな見た目よりも軽い力で開くことをすっかり忘れてしまっていたので、開いた扉が両脇の壁に勢いよく当たりそうになった。慌てて取っ手部分を抑え扉の動きを静止させる。扉を抑えた詩香を横切ってメンバーが続々と宴会場の中へと進んだ。
「おお〜、中はほんとによく見る宴会場だ」
「旅館の宴会場貸切とか凄くない?! というかしぃしぃ一体何者なの!」
「ちょっと昔のツテで……。まあ昔っていうか最近なんだけど。でも女将さんが親切な方で良かった。ダメ元だったからありがたい限りだよ」
広々とした宴会場を見回しながらメンバーが感想を漏らす。姿見をチェックしつつ持ってきたタオルやペットボトルの水などをテーブルに置いた。
理希からスタジオの話が飛び出した時、詩香は咄嗟にこの旅館の宴会場のことを思いついた。そのまま勢いで女将さんにコンタクトを取って事情を説明したのだが、快く承諾してくださって一週間分この場所を押さえてくれたのだ。一介の旅館利用者であるだけの自分にここまでしてくれる女将さんの人情には本当に頭が上がらない。
「いや、でもこんな広いとこ使わせてもらえるなんてマジで助かるわ。詩香ちゃんには感謝だな」
「本当ですね。自分も旅館で練習できるなんて思わなかったのでテンション上がってますよ!」
「しかも天然温泉付きでしょ! 僕もはや温泉入りに行きたいんだけど!」
青斗が目を燦々とさせながら発した言葉に男性チームが賛同する。本当にそのまま温泉に行こうとしたので慌てて三人の前まで走っていって両手を広げて制止した。
「ちょい待ちちょい待ち。本来の目的忘れてない? 私が言えたことじゃないけど、もう全然時間ないんだから! 練習するよ! ほら!」
「みんな、自由だねぇ」
後ろで桃葉が声を出して笑っている。詩香も釣られて笑いそうになった。この何でもない日常のワンシーンさえも愛おしいと感じる。でもいきなりの自由行動に目をつぶる訳にはいかない。この場を提供してくれた女将さんのためにも優先順位はきちんとしなければ。
「じゃああたしからみんなが今すぐ練習したくなるようなビッグニュースを発表するね〜! これ見て!」
そう言って桃葉は鞄からタブレットを取り出して宴会場の足が低いテーブルの上に置いた。その画面には見覚えのあるサイトページが表示されている。遠目からでも表示されているものが何か分かる。だってこれは自分が作ったページだ。
「え、まさか……」
「そう! クラファンサイト、目標金額達成しました〜! ぱちぱち〜!」
最近は音楽制作に専念していて、クラファンプロジェクトの方のチェックは桃葉に任せていたのだ。ページ中央の支援金額の割合を示すステータスバーが確かに目標金額を突破していた。皆、画面を見たまま固まっていて実感がまだ湧かないようだった。乾いた桃葉の拍手の音だけが宴会場の壁に反射する。反射して遅れてやってきたその音が耳から入って徐々に身体に熱を与えていく。
達成した。達成できた。
「うおおおおお! やった、やったなアオ!」
「青斗さん! おめでとうございます!」
「青斗!」
遅延した熱の音が皆の血液を沸かせて、宴会場が興奮の熱気に包まれていった。理希と潮音はその場でハイタッチしている。詩香も口元の緩みが抑えられないまま首を勢いよく青斗の方へ向けた。青斗だけはまだ現実を飲み込めていないように、ぽかんと口を開けたまま画面を食い入るように見つめている。
「ほんとに……、現実なのかな、夢じゃない?」
「ほんと! ほんとだよ! これで資金は集まった! 治るかもしれない! これからもtoeLの活動が続けられるかもしれないんだよ!」
青斗はこちらを向いて正座した状態で深々と頭を下げた。ほとんど土下座のような形を保ったまま姿勢を崩さない。その身体は細かく震えていて、泣いているのだと分かった。理希と潮音が青斗の丸まった背中を包むようにその肩や背中に腕を回す。
「詩香。本当に……。ごめん、何て言っていいか分からない……。ありがとうだけじゃ到底足りないけど……。それでも本当にありがとう……」
「……ううん、私はページを作っただけだよ。達成できたのはこれまでのみんなが築き上げてきたものがあったから。ファンの方々がみんなを待ってくれているからだよ」
数字が語ってくれている。toeLを待っている人達がたくさんいるということを。寄せられた多数のコメントにも青斗の病気を心配する声や、グループの存続を訴える声が見られた。支えてくれた支援者だけじゃない。他にもきっと待ってくれている人達が大勢いるはずだ。
「しぃしぃの言う通りだよ。あたし達が今までやってきたことの全部がこの結果になったんだよ。みんな青斗のことが大好きってこと!」
タブレットの向こう側から桃葉が声を上げた。桃葉の表情は軽やかで、晴れ晴れとした声は冬の澄み切った空気のようだ。
「次のライブが最後じゃない。その先もきっとある。ずっとずっとあたし達を応援してくれている人たちのために、これからも最高のtoeLの姿を見せたい。だからみんな! やろ! 早く踊りたくてたまらないのあたし」
立ち上がった桃葉の方を見て、残りのメンバーもゆっくり頷く。残り一週間、自分たちに今出来ることをやり尽くして最高のステージを迎えたい。ここにいる全員がそう思っているのだということはその表情を見れば明らかだった。そのまま各々が準備を初め、全体の練習が始まった。
旅館での初日は宴会場の音響チェックと姿見の確認、理希が書き換えてくれたフォーメーションを図面で確認する作業が主となった。楽曲のシーンの切り替わりタイミングでのそれぞれの立ち位置調整や一人一人の見せ場での足運び、VR会場全体を使ったパフォーマンスの魅せ方などが細かく指定されていて、情報量の多さに愕然としてしまった。これを全てみんな頭に入れているというのだろうか。
「もちろんこれは指標だ。タイミング等は極力合わせてもらいたい。けどソロパートとかは各自が踊りやすいように変えてもらって構わないよ。俺だって本番は気分がノッてたら多分動き変わる」
理希が図面のポイントを指さしながら説明した。青斗は図面を捲りながら何度も首を振っていて、その目は真剣そのものだ。紙の上の文字を頭に叩き込むように視点を滑らせる。
「うんうん、僕もそれで賛成」
「……みんなすごいね。いつもこんなの覚えてるんだ……」
「詩香ちゃんは動きは把握しなくていい。始まってしまえばあとは俺らが何とかするだけだ。この前送ってくれたデモ音源、構成を変えるならなるべく早く教えて欲しい」
「わかった」
詩香の曲は先日デモ版が出来上がっていて、すでにメンバーには共有済みだった。あとはここから音色の最終調整やエフェクトの見直し作業を進め本番当日までに仕上げなければならない。
「ごめん、まだ完成してなくて。どうしても納得いってないんだ……」
「いいよいいよ! 曲の大枠は決まったんだから僕らは練習あるのみだし、詩香は納得行くまで調整続けてよ。本番ぶっつけでも大丈夫だから」
「ありがとう青斗」
曲の構成も使う音色もしっかりと詰めて音を形成したのに、どうしてもまだ納得がいかない。
原田さんが作ったメロディにコードをつけて伴奏を作りtoeLらしいリズムビートで進行する『星』は今の自分の最大限の力を出し切ったものであると思っている。決して妥協はしていないし、この短期間で向き合った音の種類は数百にも至るだろう。それなのにあと何か一つ足りないものがあると思ってしまう。あと一週間でそれが何なのかを見つけなければいけない。このままその何かを諦めて完成と言ってしまうのは違う気がするのだ。
練習を再開したメンバーを遠目で見ながら、詩香はまた曲の構想に思いを馳せた。
「うわぁお、広い広ーい!」
「桃葉! 寒い! 早く進んで!」
露天風呂の入口でドアを全開にしたまま立ち止まった桃葉の背中を押してお湯に入るよう促す。二人分の身体が沈みこんだお湯が勢いよく溢れて遠くで小さな波を作った。
「あ〜、一生ここのお湯の中に住める」
「さすがに死ぬよ」
桃葉と肩を並べてお湯を取り囲む石に背中を預けた。足を伸ばすとその振動で水面が揺れて、視界に映る自らの足の輪郭が捉えられなくなっていく。横に座った桃葉は片手で掬ったお湯をもう片方の腕の上に塗り込ませるように流していて、彼女の整った顔立ちとその所作が相まってとても美しく見えた。
「やー、温泉ってあたし久々だなー。ダンスでかいた汗を温泉で流して、また練習……。これ無限ループ入ったんじゃない?」
「まあ実質そうなりそうだよね。というか練習のために来たんだからいいんだよそれで」
あどけない顔で笑う桃葉は笑うと少し幼く見えて先程までの妖艶な姿とは別人のようだった。その笑顔には自然と吸い寄せられる力が宿っているようで、詩香は無意識にその笑顔を見つめてしまっていた。目と目が合った状態で桃葉が身体をこちらに向ける。シリコン製のゴムで大雑把にまとめられた彼女のセミロングの髪が揺れて、水滴がぽたぽたと湯の表面に落ちて波紋が広がっていく。
「しぃしぃ。ありがとね。あの日しぃしぃに出会ってなかったら、あたし達はあと一週間で終わってた。こんな風に温泉に入る余裕なんかなくて、前も言ったかもだけど、本番の日が来なければいいのにってずっと思ってたと思う。だから、あの日、あたしと出会ってくれてありがとう」
湯の中で手を握られ、そのまま引っ張られた。ざばっという音を立てて二人の手が湯の中から現れる。外の冷気から守るように詩香の右手を両側から桃葉の両手が優しく包み込んだ。
自分が愛依に言われたことを、この人はいとも容易く口にしてしまうのだ。気恥ずかしさ等は全く感じさせず、心からの想いを真正面からぶつけてくれる。だからこんなにも真っ直ぐ心臓が撃ち抜かれる。お礼を言わなければならないのはこちらの方だ。
「それを言うのは私の方だよ。桃葉に会えていなかったら、あのまま原田さんのこともピアノのことも全部忘れて生きていたんだと思う。思い出さないままの人生でも案外普通に過ごしていけたのかもしれない。でも私は、やっぱり昔のことを思い出せて良かったって思ってる」
だから、私と出会ってくれてありがとう。
そう付け加えて桃葉に想いを伝えた。桃葉は嬉しそうに手の甲を撫でてきて、少しむず痒かった。
「しぃしぃとつっきーってどことなく似てるよね。話し方とか。今ちょっとつっきーの面影が見えて泣きそうになっちゃった」
「え、嘘だあ。原田さんってどっちかといったら桃葉に似てる喋り方だったような……。私の頭の中にぼやっと浮かんでくるのはもっとこう……、元気いっぱい! って感じで」
「うっそ、想像できないんだけど! 待って今想像する……。あー、これはあたし昇天です」
「……なんの話?」
眉間に皺を寄せ目をつぶって小さい頃の原田さんの姿を思い浮かべている桃葉は突如そんなことを言い出した。何を想像しているのかは分からなかったが終始ニヤニヤしていたので詩香は若干の恐怖を感じてしまった。よくもまあこんなに表情がコロコロ変わるものである。
「絶対可愛かったよね! って話!」
「んー……、あー、まあそうだね、可愛かったかもね。逆に大人になった原田さんのほうが想像できないよ」
「きっとあたしより青斗の方が知ってるよ! つっきーと付き合ってたからね」
思わず立ち上がってしまった。その衝撃で大きな波が発生して桃葉の身体を押し流す。最近で一番の衝撃的事実だった。自分の記憶を思い出した時くらいの衝撃だ。いや、もしかしたらそれ以上かもしれない。
「……マジ?」
「マジ。あとで青斗に聞いてみたら? あ、でもナイーブな話ではあるからあんまり突っ込んでは聞けないかも」
「いや、それはもちろん……。というか私今まで青斗に原田さん関係で失礼なこと言ってないかな?! 心配になってきたんだけど!」
今まで青斗と交わした会話を思い付く限り思い出そうとしたが、思い返しても脳内をチラつくのは青斗の凛とした瞳の奥の蒼い光だけだった。病気だけではなく、最愛の人を失ってもなお前に進み続ける青斗の強さに胸が苦しくなってくる。
この人のために出来ることをしたいと思った。
そしてそれがきっと自分の音楽に足りない最後のピースだ。
「桃葉。私、青斗と話してくるよ」
立ち上がった勢いのまま桃葉に背中を向けた。水の抵抗を大股で歩いて掻い潜り、足を湯船から出して地面を蹴る。滑らないように気をつけながら脱衣所まで走った。
「ほら、そういうところがそっくり。誰かのためにすぐ何かしようと行動するところがさ。しぃしぃ、頑張って」
走り去る瞬間、後ろから桃葉の声が聞こえた気がしたが、自分が掻き分けながら歩いた水音に飲み込まれてうまく聞き取れなかった。
ただ、背中を押されているようなそんな感覚だけが確かにそこにはあった。
「青斗っ」
男性メンバー三人がいる客室のドアを思い切り開けた。勢いよく開いたドアの音にびっくりして三人は手に持っていたトランプをひっくり返したように落としていた。修学旅行じゃあるまいしなんでトランプを持ってきているのかというツッコミは一旦頭の片隅に置いておいて、三人の前に立った。
「詩香ちゃんどうしたの。あと浴衣がはだけてちょいセンシティブよ。見えそう」
理希が手に持ったトランプを後ろ手に隠しながら言った。すでに床にばら撒かれている証拠物があるのだから隠す意味がない。これでバレないと思っているなら小さな子がつく嘘のほうがまだ可愛げがある。
そしてここに来るまでにかなりダッシュしてきたので、確かに浴衣の帯が解けてほぼ生足を晒してしまっていた。ただ今の自分にはトランプだとか自分の醜態だとかは全てどうでもいい事項だ。
「お見苦しいものをすみませんね。というか私の下着とかはどうでもいいの! ね、青斗。原田さんってどんな人だった?」
青斗の近くに駆け寄ってその隣に座った。予想していなかった詩香の質問に青斗も含め全員が固まる。
「自分たち、席外しましょうか」
「ううん。しおんもゆん兄も居て大丈夫だよ。ちょっと相談したいことがあるの」
席を立ちかけた潮音に座るように促してから再び青斗の方へ向き直る。青斗は目をぱちくりとさせて質問の意図を探るように喉を鳴らした。
「えっと、また急になんで?」
「いきなりごめん。私の音楽に足りない何かが分かった気がするの。だからイメージを膨らませたい。青斗にとって原田さんがどんな人だったのかが分かれば、より完成に近づける気がするんだ。あ、えっと、温泉で桃葉から二人のこと聞いちゃったから……」
詩香が最後に呟いた一言で合点がいったのか、青斗はなるほどね、と言って宙を仰いだ。その時背後のドアが開いて、桃葉が『あっつい〜』と言いながら客室内に入ってきた。口には棒付きアイスキャンデーを咥えていて、両手には自分の客室から持ってきたであろう枕が抱えられている。確定で枕投げを始めようとしているその佇まいに、どうしてみんな修学旅行の夜みたいな行動をしているのかという再ツッコミが喉奥から射出されそうになったがなんとか押しとどめた。
「しぃしぃ、もうその話してるの?」
真剣な表情のメンバーを見ながら桃葉が詩香の隣の位置まで歩いてきてそのまま腰を下ろした。桃葉の方を見て頷いてから再度視線を青斗に戻す。青斗はメンバー全員の顔をゆっくり見回した後、こちらを直視して口を開いた。
「よるのちゃんは、僕の全てだったんだ」
青斗の静かな声が客室の木の香りと混ざり合って空間を浮遊する。自分の吐き出した息が跳ねたのが分かった。あの頃彼女が自分にくれたかけがえのない時間という名の贈り物。青斗も彼女からそれを受け取っていて、現実と仮想の垣根を超えてもたらされた温度のある時間が今もなお胸を灼いているのだ。
「話し方も、笑い方も、踊っているときの動きも、優しいピアノの音色を奏でてくれたあの日の夜のことも、初めて出会った日のこともずっと覚えてる。人付き合いが苦手で、どちらかといったら静かな人だったけど……、優しくて 温かくて僕にとってはずっと眩しい人だった」
彼女の声も影も振り返った先で揺れる黒色の髪もすでに現実には存在しない。それでも交わした言葉や沈黙、彼女の隣で呼吸をした時間の全てが青斗の血液に混ざって熱を帯びながら輝いている。愛依が言っていた、自分を形作る決して消えない光。
「よるのちゃんの音は何度でも僕を舞台に連れ戻してくれた。病気で動かなくなっていく身体もあの音を聴けば宙を舞えるくらい軽くなったんだ。だからこの先もずっと大切で、他に代わりはいないよ。でも徐々にその大好きだった声も忘れていってる。僕はよるのちゃんのことを忘れていってしまうのがたまらなく怖い。あの音がなかったら僕は……」
自分は大切だった時間を思い出すのが怖くて、
逃げるように彼女の音を忘れてしまった。
青斗は大切だった時間を忘れることが怖くて、
彼女の音を渇望しているのかもしれない。
「絶対に忘れないよ。だって原田さんの音が鳴る限り私達は離れない。私達が離れなければ、彼女もまたずっと一緒にいるんだ」
「……詩香?」
自分の音楽にあと一つだけ必要なもの。
それはtoeLを結ぶ月の糸。
青斗や他のメンバーが心打たれた原田さんの音。
自分が感動して泣いてしまい、心の底から憧れた彼女の音。
その音を、再現することだ。
toeLは五人じゃない。
原田さんも含めた六人だ。
彼女のピアノの音が鳴らないなら、それはtoeLではない。
「みんなに二つ話したいことがある。まず一つ目、やっぱり私の音楽は本番直前まで完成しないと思う。原田さんが残した『ブルームーンダンス』という楽曲には彼女自身が弾いて録音したピアノの音が使われていた。この曲から彼女のピアノの音だけを抽出、一音ずつ切り貼りして別のピアノフレーズをつくる。その音を『星』の中に取り入れたい」
全員の顔を順々に見ながらそう言った。また突拍子もない浮世離れしたことを言っていると誰もが思っているだろう。でも自分はこういう人間でこうなってしまったらもう止まることはできない。
「可能なのか、そんなことが」
「できる。でもかなり時間がかかると思う。本番までにはやり遂げるから信じて欲しい。こう見えて昔ピアノを弾いてたときは、作曲者の意図や楽曲が生み出された背景を再現するのは得意だったんだよ。彼女の音を隣で聴いてきた私ならその音を甦らせることができるはず」
理希の言葉に即座に答えを返した。膨大な時間を要する気の遠くなるような作業になることは明白だがそれでも完遂しなければならない。問題はもう一つの話の方だ。もしかしたらメンバーの立ち位置がずれ込んでしまう可能性がある。
「もう一つは……。私も当日みんなと一緒にステージに立ちたい。ダンスは出来ないけど演奏で参加したいの。みんなの後ろ姿を見ながらピアノを弾きたい。直前になってからこんなことをお願いす……」
「あたしからまず一つ目の話について」
隣から聞こえた声に会話の片端が切り取られる。先程まで口に咥えていたアイスキャンデーはすでになくなっていて、桃葉は残った木のスティックを片手で軽く振っていた。ただの木材がまるで魔法のステッキのようだ。
「あたし、しぃしぃの音楽待ってるってずっと言ってたんだ。それはしぃしぃが本当に心の底からやりたいと思えるものを待ってるって意味だよ。ここに居るみんなもそう。前に青斗も言ってたでしょ。しぃしぃの想いが乗った音が聴きたいから頼んだって」
青斗の方へ顔を向ける。青斗は満ち足りた笑みを浮かべていて、ゆっくりと首を縦に揺らしながら言葉よりも確かな肯定を差し出してくる。
「二つ目の方は自分からいいですか。これをまず見てください」
しばらく口を閉じていた潮音がそう言いながら、スマホを詩香の前に置いた。その画面にはTポーズを取った女性の3Dモデルの三面図が表示されている。詩香と同じくらいの長さの白色のショートヘアをした女性アバター。
「え、これって……」
「詩香さんのアバターです。実はずっとこれを作ってました。鹿も可愛いですけど、やっぱり演奏するなら人型のほうが良いかと思いまして」
「な……んで? 私、演奏したいなんて今まで一言も言ってなかったのに……」
絶句した詩香の顔を見て、潮音はふっとやわらかい光に包まれたように笑った。
「初めてマクドナルドで会った日、あの時もうすでに顔に書いてましたよ。『音楽を奏でたい』って。だから青斗さんだって、詩香さんに曲の依頼をしたんです。それに自分にできるのはこれくらいですから」
「さあどうだろうね〜。 僕はただ直感に従っただけかもよ〜」
この人たちにはどこまで先が見通せているのだろう。こんな風に飄々と言ってはいるが青斗には直感を信じられるだけの自信があったに違いない。そうでなければあの時に音楽を作ってほしいなどという言葉はやはり出てこないのだ。
「俺が作った図面もちゃんと詩香ちゃんのポイント位置落としてたよ。だから最初から俺らは一緒にやるつもりだったってことだ。今更とかそういうのじゃない。はなから全員、詩香ちゃんとステージに立つって思ってたんだよ」
絶対に彼女の音を再現させて、六人でステージに立つ。これが今自分の中にある最高値の直感で、身体を滾らせる原動力だ。あとは彼らが信じてくれた自分自身を信じてただ前に進むのみ。
「ありがとう、みんな」
心臓に灯る星屑の光が夜の中で息をするように瞬いた。ふと顔を上げれば窓から夜空が見えて、同じように柔らかさを増した星の集まりが空に溶ける。言葉にならない感情がまるで夜空を借りて瞬いているかのようだった。
旅館での残りの日々はメンバーは振りの最終確認やフォーメーション調整、詩香は音の再現のための研究と地道な編集作業に費やし、あっという間に時が過ぎ去っていった。作ってもらったアバターは潮音に外部ソフトを経由して詩香のVRCのアカウントに紐づけてもらった。仮想世界にログインするために使用するヘッドセットは予め桃葉が原田さんが使っていたものを旅館に持ってきていて、詩香はそれを借りることになった。桃葉はここに来る前に原田さんの家に立ち寄ってパソコンの電源を入れていたらしく、詩香が身につけたヘッドセットをリモートで原田さんの家のパソコンに繋いで、パソコン上で立ち上げたVRCがヘッドセットのモニターに映るように設定してくれた(この辺の設定は本当に何をやっているか分からなかったし、進化しすぎた時代と用意周到な二人にダブルの意味で怖くなった)。
初めて仮想世界に入ったときはとにかく圧倒されて、ミラー越しに見る自分の動きに合わせて動くアバターは本当に自分の身体のように思えた。ちなみに少し移動しただけで画面酔いしてしまい、最初のログイン時間は10分と持たなかった。改めてこのヘッドセットをつけながらあんな激しい踊りを踊る四人は化け物だと感じた。
楽曲については当日まで調整を続けるし、楽器の演奏に関しても当日原田さんの家の電子ピアノを借りて演奏するということになったので、詩香は完全にぶっつけ本番となる。もちろん不安しかなかったが、それ以上に早くみんなと同じステージに立ちたいという思いが募って、当日が待ち遠しかった。
練習以外には、女将さんが奮ってくれた絶品の料理をみんなでワイワイ言いながら楽しんだり、温泉に入って心地よい疲れを癒したりした。客室から見える星空をみんなで見上げた夜や結局男性チームが持ってきたトランプに全員が夢中になった時間もあって、そのどれもが眩いくらいに充実していた。自分の人生の中で再び楽しいと思える日が訪れるなんて思ってもみなかった。たくさん笑って、食べて、没頭して、眠った。
そして間もなくその日が訪れる。
新生toeLの再出発の日だ。
明日の夜にはもうステージの上にいて、音やダンスと対話する。
みんなで作ったパフォーマンスを待ってくれている人達に全力でぶつける。
原田さんと約束した曲をステージの隅々まで響かせて、その音に乗るみんなの後ろ姿を目に焼き付ける。
そんな最高の時間を想像しながら詩香は眠りについた。
瞼が少しずつ落ちる度に幸福度が増していくような気がした。
♢♢♢
彼女の部屋の電子ピアノの前に腰掛けた。パソコンとピアノをケーブルで繋いで音が流れるかを再確認する。ピアノの音色をシンセサイザーに切り替えてメロディラインを指でなぞった。
ピアノが置いてある四畳半のこの部屋とリビングを隔てるドアは開けっ放しにしているので、他に物が置いていない分部屋全体がより広く見える。今、この部屋には自分一人しかいない。まもなくライブが始まる時間で、皆それぞれの自宅からログインして仮想空間のステージに集まり始めただろう。どんなに遠く離れていようと、ひとたびヘッドセットを装着してしまえば皆の呼吸を目の前で感じることができる。仮想へとコンバートさせて物理的距離の制約から解き放たれた身体は瞬きする間に皆と同じ空間の熱を感知できる。
だから自分は一人じゃない。
「原田さん。行ってくるね」
ヘッドセットを頭につけて仮想空間へとダイブした。緑色の読み込み画面が視界いっぱいに映し出された後に別の場所へ転送される。開けた視線の先には紺青に輝く月が幻想的な、宇宙空間のような空が延々と広がっていてその質量に圧倒された。空間の端には半円を描いたような形のステージがあって、そこから扇状に観客席が広がっている。現実でよく見るようなライブ会場の造形もVRで表現された月や空が頭上に輝いているだけで一際特別に見えた。
観客席はほとんど埋まっていて、ライブの開始を待つざわめき声が至る所から聞こえてくる。詩香は急いでステージ裏へ移動した。もうすでに四人が集まっていて最後の打ち合わせをしていたようだった。手を振りながら四人へ駆け寄っていく。
「ごめん、お待たせ!」
「あ、しぃしぃ遅いよ! もう始まっちゃう!」
「ごめん! 音楽の最終調整ついさっき終わったんだ。やっと完成した……!」
ここに居る四人だけではない。
ずいぶんと彼女を待たせてしまった。
ずっと昔にした約束の曲。
数年の時を経てようやく完成した『星』。
「じゃあ、あとはみんなで思いっきり楽しむだけだね」
青斗はそう言って腕を前に突き出した。その手の甲は上空から降り注ぐ月の輝きを宿していて、撫でられた白光が手の熱で溶けているかのようだった。揺蕩う月白に導かれ一人、また一人とその手の上に自らの手を重ねていって、詩香の目の前に四つの手のタワーが出来た。
「詩香ちゃん。背中は預けたぜ」
「しぃしぃ! ぶちかましちゃって!」
「思いっきり楽しみましょう、詩香さん」
「詩香。君の音楽を、よるのちゃんとの大切な思い出が詰まった曲を響かせてやろう」
彼女との約束の曲はきっとこの日のために生まれたんだ。目の前の四つの手を、夜空から照らす月と星の光でもっと美しく輝かせるために。toeLのみんなを際立たせられるように。
「みんな! 行こう!」
四つの手の上に自分の手を力強く置いた。笑顔を交わしあってからそれぞれが最初の立ち位置へと散って行った。
暗転した世界に観客席から声が上がる。四人の背中だけを見ながらステージの幕が上がるのを待った。スポットライトの熱が前から降り注いで視界が白で覆われた後、観客の熱狂が見えた。
原田さん。
あなたがメロディを作った『星』。
遅くなってごめんなさい。
ようやく完成させたよ。
あなたが大好きだったメンバーと一緒に
ステージに立ってこれからこの曲を演奏するの。
だからそこから聴いていてね。
ううん、違うな。
一緒に演奏しよう。
完成したら一緒に弾くって約束だったもんね。
最高の音楽でみんなを照らそう。
そのために私たちはこの曲を作ったんだから。
あと、この曲にね、もう一つ名前をつけたの。
あなたが名付けた『星』という曲名には、
私の名前を入れてくれたんだよね。
だから私もあなたに相応しい曲名をつけたい。
冬のダイヤモンドを形成する六つの一等星。
その中の一つである伴星を連れて輝く恒星。
夕方から明け方まで空に残って、
冬の間迷わず見つけられる"目印"のような星。
その学名から取った名前をこの曲につけた。
私にとってあなたはそんな人だった。
ずっとずっと憧れだったんだよ。
だからまたあの頃みたいに、
あなたの隣で一緒に弾きたい。
鍵盤に指を置く。
ステージの後方に設置されたピアノの前。
逆光で黒くなる四人の背中を少しだけ遠くから見つめる位置。
月の光と影が交差する仮想空間の中で、詩香の指先だけが現実と同じ重さを保っている。
最初の音を静かに鳴らす。
胸の奥に溜めていた息がゆっくりと解けていく。
旋律を支えるクラップビートが二回、鳴った。
そして、低音が落ちた瞬間、空間そのものが脈を打った。
仮想の床は黒曜石のように艶を帯び、ビートに合わせて幾何学模様が呼吸する。
四人は円陣を組むことなく、しかし確かな引力で結ばれた位置に立っていた。
最初に動いたのは青斗だった。
フリルのついたドレスが音に反応するアンテナのように揺れる。
そのステップは軽く、けれど切れ味がある。
床を蹴るたび足元から淡い光の青夜が弾け、残像となって宙に浮かんだ。
現実ではありえない、跳躍と静止の中間。
時間を一拍だけ噛みしめてから、次の動きへ滑り込む。
そこへ桃葉が割り込む。
紫色の髪がスピンと同時に放物線を描き、彼女の身体の軸を強調する。
そのムーブは直線的で、toeLのダンスの骨格そのものだった。
肩、胸、腰が順番にビートを受け止め、まるで音楽を分解して再構築しているかのようだ。
青斗の軽やかさを、地面に引き戻す重力として支える。
次のブレイクで、フォーメーションが崩れる。
理希が一歩前に出た瞬間、空間のスケールが変わった。
長身の身体と頭部に伸びる羊の角がシルエットを誇張し、影が床に巨大な円を描く。
彼の動きは遅く、しかし一つ一つが深い。
重心を落とし、関節を軋ませるようにウェーブを流すと、床そのものが波打った。
仮想空間は彼の身体を増幅装置として扱い、動作を地形へと翻訳する。
その波に乗って、潮音が跳ねる。
小さな竜の身体は、重力の束縛を拒むように宙を舞った。
羽ばたきはビートのハイハットと同期し、尻尾が描く軌跡は星の譜面になる。
立ち止まることなく空中でロックし、フリーズし、回転する。
ただ、胸の奥で燻る熱が、色の変化となって鱗を走る。
四人は再び集まり、今度は縦一列になる。
音楽が加速し、心臓を揺らす四つのビートが跳ね上がる。
動きが連鎖する。
前の動作を次が受け取り、少しだけ歪めて返す。
詩香の指が低音を押さえるたび、理希の重いステップが床を揺らす。
高音を散らすと、潮音が宙で羽ばたく。
旋律が跳ねれば青斗が笑うように跳ね、リズムが締まると桃葉の身体が軸を刻む。
彼らは踊っている。
生きている身体で、今この瞬間を選び続けている。
その事実が、胸の奥を少しだけ痛ませる。
仮想の中にある紛れもない現実。
原田さんは、もうここに立てない。
VRに意味を与えることも、その身体をアバターに変換することもできない。
でも彼女は音の中にいる。
今も曲の中で鳴る彼女のピアノの音が夜を塗りつぶしていく。
鍵盤に触れるたび、記憶が反射する。
潮騒の香りがする夜道。
グランドピアノの冷えたペダル。
譜面に落書きされたわんちゃんのイラスト。
"おそろいのマグカップで飲んだら美味しいね!"
"変わんないよ。いつものお湯の味だよ"
そんなどうでもいいようで取り戻せない会話。
その全てが鍵盤から直接流れ込む。
彼女の音が、呼吸をしている。
彼女のピアノがビートの奥で鳴った瞬間、VRならではの演出が爆ぜた。
背景が消え、無限の夜が広がる。
星はリズムに合わせて瞬き、ビートのキックが鳴るたびに星座が組み替わる。
理希の足元から浮かび上がった床が分解され、四人は宙に浮いたまま踊り続ける。
上下の概念は失われ、フォーメーションは球体になる。
桃葉が中心軸を取った。
紫の靡く髪がコンパスとなり、他の三人がその円周を回る。
潮音が上、青斗が横、理希が下。
逆さまでも、決して動きは狂わない。
身体の向きが違っても、詩香が紡いだ音は共有されている。
toeLのダンスの根にある「同じグルーヴに立つ」という感覚と彼女のピアノの音だけが、絶対的な座標として残る。
フォーメーションが変わる四人の背中を詩香は黙って見続けた。
四人が離れ、重なり、また戻る。
青斗から離れた青色の夜の光が四人の後ろで息をするように凪いだ。
まるでそこに五人いるような配置だった。
偶然かもしれない。
それでも、胸がわずかに締めつけられる。
あと少しで曲が終わる。
もう少しでこの時間が終わってしまう。
月のような和音が広がり、星のようなアルペジオが瞬く。
その重なりの中に、彼女の『星』のメロディと詩香がつけたコード進行が鳴った。
ラストスパート。
最後のサビだ。
メンバーの誰もが目を見開いた。
詩香自身も驚きを隠せなかった。
『星』のメロディの上に『ブルームーンダンス』の旋律が重なっている。
確かにその曲から引用した部分はある。
でも冒頭のこのメロディは今回使用していない。
それでも確かに聴こえる。
自分の右手の横で動く小さな手が見える。
「……原田さん?」
ふと右隣を見た。
こちらを見て屈託のない顔で笑う小さな彼女と目が合った。
いつかのようにスノードロップの衣装に身を包んで楽しそうにはしゃぐ彼女がそこにいた。
詩香が鳴らす鍵盤の高音部分に手を置いて、彼女は言った。
その声は聞こえなかったけど、口の動きだけで何を言っているのか分かった。
"しいかちゃん、連弾しよう!"
溢れた想いが、途切れず頬を流れた。
目の前はもうぼやけて何も見えていないのに、光った音の輝きが夜空の奥に屈折して、空間全体を眩しく包み込んだ。
音がずっと光って消えない。
眩しくて痛い。
自分が作った旋律なのか、右横の彼女が今弾いている旋律なのか分からなかった。
ずっと楽しそうに鳴るピアノの音だけが星座の一部となってただただ光っていた。
失明するくらい強く、光っていた。
約束の音の最後の一拍が鳴った。
詩香は最後の和音を鍵盤に叩きつけた。
終わりではなく夜空に残る光の余韻だった。
すべてが解放され、床が戻り、重力が帰り、音楽の余韻がフェードアウトする。
四人は息を合わせたわけでも、合図を出したわけでもない。
それでも、完璧な終止だった。
夜が消えた後でも月は残る。
人は去っても、音は誰かの身体を通って、また踊り出す。
詩香は鍵盤から手を離し、鍵盤の横に感じる見えない六人目の居場所を、そっと残したまま立っていた。
気が付いた時にはステージの最前列にメンバー全員と一緒に並んで深々と頭を下げていた。
割れるような拍手と歓声。
今もなお輝き続ける空間に浮かぶ光。
これが彼女が見ていた景色。
ようやく笑いながら弾いていた彼女の気持ちが理解できた。
こんなの笑うしかないじゃないか。
あぁ、楽しいなぁ。
輝く光に溺れてしまいそうだ。
後方に配置されたピアノから鈴の音が聴こえた。
振り返ってももちろん誰もいなかった。
でもそこには記憶の音が淡く輝いていた。
だから、その空間に向かって呟いた。
自分が発した言葉はきっと、眩い光に掻き消されて跡形もなく蒸発するだろう。
それでも言わずにはいられなかった。
「原田さん。私と出会ってくれてありがとう」
♢♢♢
光はゆっくりと薄れ、夜は巡った。
それから、二年の季節が静かに流れた。
toeLの活動は青斗の不在によって一時的に中断されていた。青斗のアメリカでの手術は無事に成功したようで、リハビリも順調に進んでいるという報告を数ヶ月前に桃葉経由で聞いた。
他のメンバーとは現実でも仮想世界でも交流を続けていて、会う度に会話が弾んだ。あのライブの日のことは今でも鮮明に思い出せる。星が更新され、月が満ち欠けを何度か繰り返す間に年月だけが過ぎていったけれど、目を閉じれば鼓膜を揺らす歓声がまだ聞こえる。それが自分だけではないということは、ライブの日のことを嬉しそうに話すみんなの声や表情を見れば明らかだった。あの瞬間に見えた景色は確かにメンバー全員と共有出来ていた。
あれからいくつか曲を作った。
toeL全員が再び集まった時にまた同じ景色を見に行くためのものだ。
自宅にあるアップライトピアノも業者に調律をお願いして再びまた弾き始めた。
どうしても右隣にうるさい誰かが座っていないと落ち着かなかったけど、音を鳴らす度に見える光の粒が綺麗で気付けばピアノに向かって音を奏でている瞬間が増えた。
今も鍵盤に手を置いて新たな旋律を探している。
「詩香? またピアノ弾いてたのね」
「うわああああ、録音してたのに! やり直しだ……」
「え、ごめんなさい、部屋から音聴こえたから」
「せめてノックしてよ! まあノックされてもやり直しにはなるんだけど……」
背後のドアが音もなく開いて母が部屋に入ってきた。手早く機器の録音状態を解除して、首だけを向けて母を見る。母の表情はいつにも増して穏やかで、どことなく嬉しそうに見えた。
「また急に録音なんてどうしたの」
「んー、動画編集してたんだけどさ、いいBGMなかなか見つかんなくて、それならいっそ自分で考えるか〜って感じ」
この二年で動画編集スキルは格段にアップした。愛依と一緒に行った数々のカフェで撮り溜めた素材を使って何本かVlogを作成したり、toeLメンバーとVRChat内で巡った綺麗なワールドを撮影してワールド紹介動画を作った。YouTubeに新たに作ったtoeLのチャンネルにメンバーと巡る仮想旅行の様子をアップしたところ、ファンから好印象のフィードバックが返ってきたので、今も週一ペースでアップロードを続けている。
音楽と動画の制作で今はとにかく充実した日々を送っていた。毎日が楽しくて仕方ない。
「ママ。私、結婚はしばらく出来そうにないけど、でも毎日楽しいよ」
母にきちんと身体を向けてそう言った。母は相変わらず目を細めていて、頬に刻まれた皺の形が変わるくらい口角が持ち上がっていた。その声色は柔らかい陽だまりのようだった。
「あなたが幸せならそれでいいのよ」
「うん、めっちゃ幸せ」
ビシッとピースサインを決めた。陽だまりに呼応するように自然と釣られて笑顔になったのが分かった。
「それじゃ、私、これから出掛けてくる!」
「あら、もうすぐ夜になるわよ。どこ行くの」
ピアノの蓋を閉じて荷物を持つ。
今日一番の幸せになるであろう事象を告げた。
「アメリカから帰ってくる仲間を迎えに空港に行ってくるよ」
京急線の第3ターミナル駅で降車して改札を抜ける。左側を向いて進むとエスカレーターが3台並んでいて、出発ロビーまで直通する一番右の台に乗り込んだ。
出発ロビーの待ち合わせ場所には見慣れた人影が3つあって、詩香の姿を見てそれぞれが手を振ってくれた。待ち合わせ時間よりだいぶ早く着いたはずなのに、すでに全員揃っていてなんだか嬉しくなった。きっとみんなも待ちきれなかったのだろう。
「みんな早いね」
「あたし国際線来たの初めて!早く着きすぎたからポップタウン? ってとこ見てた! プラネタリウムカフェ今度行ってみたい!」
「え、自分もそこ居ましたよ! 多分桃葉さんとは反対のエリアに居ましたが」
「えー! 連絡してよ!」
「二人とも目的が観光になってないか? おじさんは独り寂しくここにずっと立ってたのに」
「まあまあそんな事言わずに! あたし優秀だからお土産買ってきたよ!」
「東京にいるのにお土産ですか」
「そうそう! じゃーん! 見て! 空港限定ピンバッジ! めっちゃダブったけど!」
「ガチャガチャじゃねぇか」
「あれ回す人身近で初めて見た……」
この日常があまりにも楽しくて、可笑しくて、笑ってしまった。みんなもそれぞれピンバッジを片手に笑っていた。だからこそ今この場に居ないメンバーに早く会いたくなってしまう。
青斗が乗った飛行機の到着時間がやってきて、ロビーは搭乗ゲートから吐き出された人で埋め尽くされた。次々と押し出される人の中からその人を探す。しばらくして見えた姿に心が歓喜しビートを打った。そのシルエットは懐かしい蒼の香りを纏っていて、こちらを見て笑いながら近付いた。
「みんな!」
聞き馴染みのある声に反応して足が勝手に動き出した。みんなも同じように一斉に青斗に向かって走り出す。
「青斗! おかえり!」
「アオ、無事に帰ってきてくれて何よりだ」
「ずっと待ってましたよ!」
「うわーん、青斗おかえり〜! そしてさっそくお土産あげるー! 空港限定ピンバッジ!」
「あ、ありがとう……? というかあのガチャ回す人いるんだ」
「しぃしぃとおんなじこと言わないで! てか回すでしょ! 限定なんだから! 青斗には二つあげるね! 一個はつっきーの分」
渡された二つのピンバッジを両手で受け取った青斗は大事そうにそれを手のひらで包み込んだ。先ほど桃葉から受け取ったピンバッジを再び全員が取り出して胸の前に掲げた。きっとこんな他愛も無い会話もこのピンバッジを見る度に思い出すのだろう。思い出は消えない。
「みんな、ただいま」
青斗がゆっくり呟いた。深みのある声がして、小さな金属の欠片が心臓の鼓動のように光った。欠けていた音を取り戻した心臓は普段より早いテンポで鳴動して熱を持った。
帰ってきてすぐ日本食が食べたいと言った青斗に、詩香はエアポートガーデンを提案した。第3ターミナルに直結しているこの場所には海外観光客を誘惑する日本の展示物が並んでいて、もちろん和食や和のスイーツなどのショップが勢揃いしている。比較的新しい施設だが、前に愛依とオープンしたばかりの時期に一緒に来たことがあって、その時の楽しかった印象が根強く残っていたので、ぜひみんなともその時間を共有したいと思った。
歩きながらみんなでたくさん話をした。青斗の海外生活のこと、桃葉が働いているカフェで新メニューを考案したこと、潮音が新しい衣装の3Dモデルを作ったこと、理希がVRC内に新たなダンスサークルを設立したこと。自分からは音楽を何曲か作ったことを話した。みんなの口から紡がれる話はまるで小説の物語のようで、聞いているだけで心が踊った。
エアポートガーデンに向かう通路に差し掛かった時だった。ふとアップライトピアノが目に入った。誰でも自由に弾くことができるストリートピアノだ。愛依と来たときはピアノがここに置いてあることなど気にも留めなかった。
通路の入口付近にある大きな窓。その窓際に向かって配置されたピアノは、月明かりを受けて鈍く輝いていた。
「詩香。僕、君のピアノが聴きたい」
横から青斗の声がした。本来それは彼女の役目であるはずだった。青斗の心に住み着いて離れない音をその目の前で奏でられるのは彼女しかいなかった。自分では代わりにはなれない。
でも、自分には彼女と過ごした時間の音がある。
何よりも大切で、かけがえのない音がある。
みんなと出会わせてくれた音がある。
だから今はこの音をどこまでも響かせたい。
ただそれだけが心に在った。
「分かった。じゃあ一曲だけね」
ワインレッドの椅子に腰かけて、アップライトピアノの鍵盤の蓋を開けた。ふわっと木の香りが漂って鼻腔をくすぐる。
あのライブの日の思い出が蘇る曲。
自分とみんなを繋いでくれた曲。
果たされた彼女との約束の曲。
彼女にきっと届くだろうか。
「それでは聴いてください。『α Aur』」
曲名を告げて、鍵盤に置いた指を押し下げた。
星座の音色が辺りいっぱいに広がって時間を切り取った。窓から差し込む月の音が途切れることなく五人を包んで、詩われたメロディに重なった。
音が止んでも、光は残り続ける。
奏でられた約束はこれからも夜空を巡っていく。
♦︎♦︎♦︎
「しいかちゃん! はやくはやく!」
「うー、寒いんだけど……。早く帰ってピアノ弾こうよ」
練習の途中で彼女がいきなり夜空を見に行こうと言い出した。こんな冬の夜にわざわざ寒い思いをするのは嫌だったけど、目を輝かせて私の袖を引っ張る彼女の熱意に負けてこうして外に出てきてしまっているのだから私も大概だ。嫌だとは言いつつ彼女と過ごす日常は何もかもが新鮮で私に彩りをくれる。心では本当は楽しいと思っているのに、それが彼女に伝わってしまうのがなんだか照れくさくて、この気持ちを彼女に直接言えたことはない。
「ついたー!」
彼女が案内してくれた場所は目の前で静かにさざめく波が見える海浜公園だった。マンションから徒歩で僅かな距離しか歩いてきていないのに、こんなに近くに波の音が聴けるスポットがあるなんて知らなかった。通りで彼女のマンションに向かう途中、いつも磯の香りがしたわけだ。
「すごい……。ぜんぶがキラキラだ」
横にいる彼女は空を見上げて感嘆の息を漏らす。私も同じように上を見た。視界に広がるのは濃紺の星空と正確に円を描いたような大きな月。遠くに見えるレインボーブリッジの電飾が空と海に反射して、柔らかいフィルターがかけられているみたいだ。
「たしかに綺麗だね。レインボーブリッジってあんなふうに光るんだ」
「ね! あんなにぴかぴかするなんて知らなかった! あとお月様がまんまる! 大きい!」
「月も大きくて綺麗だけど、星も空全体に散りばめられてて綺麗だよ。まるで絵画みたい」
紺色に塗りつぶしたキャンバスの上から白い点をいくつも付けたような星空。大小様々な大きさで光り輝いていて瞬きするたびにその光が線となって揺らめいた。自然界の偉大さに圧倒される。
「んふふ、やっぱりしいかちゃんと来られて良かった」
「……なに急に」
「急じゃないよ! 前から一緒に星空を見たいなっておもってたの!」
彼女はそう言うと目を閉じた。両手を祈りのように胸の前で組んで短く息を吸う。そして全身を揺らしながら歌い出した。オクターブの跳躍から始まるメロディが空と同調する。
「♩〜〜〜〜」
ただ歌っているだけなのに空の星や吊り橋の灯りが増幅されて輝いたように見えた。透き通る鈴の高音が光り続けて私の周りを浮遊する。ひとしきり歌ったあと彼女は私を見て弾けた笑顔を浮かべた。
「シンプルだけど、素敵なメロディだね」
「やった嬉しい〜! 実は今曲を作ってるんだ! まだ途中までしかできてないんだけど……。それでねっ、しいかちゃんに伴奏つくってほしいの! 一緒に曲つくりたいなって! だめかなぁ……」
彼女は伏し目がちな表情をして探るように私を見る。いきなり一緒に曲を作ってほしいと言われても私は今まで完成された楽譜しか見たことがないし、曲なんてもちろん作ったことがない。でも彼女と新しい何かを始めることにワクワクする自分もいた。彼女と過ごす日常がまた少し鮮やかに色付く予感がする。
「いいよ! 作ったことないからちゃんと出来るかわからないけど……。でも原田さんと一緒に作れるならなんでも楽しそう」
「ほんと?! 絶対だよ! 約束!」
「うん」
悩むことなく頷いた。彼女は私が口にした答えに手を合わせながら嬉しそうに飛び跳ねた。小さくやった、という声を漏らしながらスキップする彼女の笑顔が眩しかった。彼女があまりにも眩しかったから私はその光に見惚れてしまった。
ふと瞼に白いものが落ちてきて思わず顔を上げる。見上げた空からはふんわりとした小さい雪の結晶が降ってきて視界を白で覆っていった。吊り橋の光に照らされた粉雪は夜空の星が降ってきたかのようだった。
「雪だぁ……!」
「綺麗だけど寒いね。もっと上に着込んでくれば良かったな」
「こうしたら寒くないよ」
左手に熱を感じた。いつの間にか彼女は私の左側に回って私の手を握っていた。手を繋いだことなんて親以外の人とはなかったからびっくりして手が強ばってしまった。私と同じくらい小さな手で懸命に握ってくる彼女の熱が繋がった手から腕を通って全身に回る。ひたすら心地良い温もりが身体を煌きながら循環する。
「いつも一緒にピアノ弾く時はわたし、しいかちゃんのこと右側から見てるでしょ? だから今日は左側から見たいなっておもったの! こっちから見るしいかちゃんも素敵だね!」
「あははっ、なにそれ、どっちから見ても変わらないよっ」
彼女の言動が可笑しくて零れる笑みが抑えられなかった。繋いだ手から流れ込んできている彼女の熱にはほんの少し彼女の成分が混ざっているのかもしれない。だっていつもの私ならこんな風に笑わない。こんなに心が弾んで、踊って、歌っているなんて、かつての自分には想像もつかなかっただろう。私が私じゃないみたいだ。キラキラしていてこの瞬間全部が愛おしい。
「原田さんって面白いねっ」
「ば、ばかにしてるでしょ! だってほんとにおもったんだもん! 素敵だって!」
「あははっ、原田さんもずっと素敵だよ! 前からずっとそう思ってた」
「え! しいかちゃんにそんなこと言われるなんて……雪でも降る?」
「ばかにしてるでしょ。てかもう降ってるのよ」
「んふふ、仕返し。あ、そうだ! しいかちゃんに聞きたいことがあったんだけど、いつも一緒に演奏する楽譜の最初のページに『ふぉー、ふぉる、はんどす?』って書いてるじゃん? あれってどういう意味かわかる?」
「えぇ……、知らないで弾いてたの……。『for four hands』ね。"連弾で"っていう音楽用語だよ。ひとつのピアノで一緒に弾こうってこと。普通意味調べるでしょ」
「すごい! しいかちゃん博識!」
「博識って言葉は知ってるんだ」
「うぅ〜、ひどい、いじわる! 音楽辞典文字ちっちゃくて読みにくいんだもん!」
「これだから感覚で弾いてきた人は……」
「でもでも!しいかちゃんだって今は楽しく弾いてるでしょ! 用語に捉われすぎてもダメなんだから!」
「うん、そうだね。楽しい。楽しいよ。私たち、足して2で割ったら丁度いいのかもね」
「じゃあ手繋いでるからこのまま融合しよう!」
「融合って言葉も知ってるんだ」
「もーっ!」
「あはははははっ」
星空の下でそんな会話を延々とした。寄せて返す波の穏やかな音に混ざる彼女の鈴の声はやっぱりずっと素敵だった。寒さなんてもう微塵も感じなかった。繋いだままにした手の放し方が分からなくなったみたいで、私はただ強くその手を握りしめた。
「さっきの話……、曲の伴奏を私が完成させたら、そしたら一緒に弾いてくれる?」
彼女がさらに強く手を握り返したのが分かった。
夜の星がそっと合図を送るように瞬いた。
私たちの音は、きっと永遠だ。
「うん! もちろんだよ! 絶対改めて言うよ!『しいかちゃん、連弾しよう』って!」
[完]
Blue Moon Dance -Story of Capella- ぱむ @yolu39
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