triste

♦︎♦︎♦︎



コンクールは予想していた通りの結果になった。

私は金賞で、彼女は銀賞だった。

コンクールまでの数ヶ月、私は宣言通りピアノに全てを注いだ。

何度やっても思い通りに動かない指を必死に動かして、完全な演奏が出来るようになるまでただひたすら反復した。

楽譜に指示されたテンポを身体に刻むため、日常生活ではメトロノームの音を聞いていた。

地獄のようにつまらない練習と、何も面白くない毎日を重ね繰り返した結果が、今日のこの成果に繋がった。

だから今日の結果は私にとって当たり前のことでしかない。

あんなに過酷な毎日を耐え抜いてきたのだから、結果は当然のように着いてこなければならない。


私は私が誇らしい。

結果で証明したんだ。

私の方が技術も表現力も彼女より優れている。

私のピアノの方が彼女よりいい音を奏でる。

そうでなければならない。

その結果が今日、証明されたじゃないか。


なのに、なんで私は悔しさを感じているんだ。

なんであんなレベルの低い演奏を見せつけられたのに、私は彼女の演奏に感動してしまったんだ。

本当に彼女はなんなんだ。

なんで私が勝ったのに、勝った気持ちにならないんだ。


なんで横にいる彼女はこんなに楽しそうなんだ。


「やっぱりしいかちゃんすごぉーい! わたし全然ダメだったよ……。序盤からミスしちゃった」


知っている。

誰よりも注目して聴いていたから。

彼女はここがコンクール会場だということも忘れ、前と同じように笑顔でピアノに向かっていた。

厳正なコンクールの場で、あんな顔をして弾く人を未だかつて見たことがない。

しかもミスってしまった、というレベルではなく、私から言わせればほぼ全てが間違っていた。

コンクールにおいて少しのミスは致命傷だ。

なぜなら参加する皆が完璧なまでに自身の演奏を完成させてくるからだ。

親指と小指の絶妙な力加減のバランス、左手が紡ぐアルペジオの粒の揃い方、指定されたペダリングの微かな踏み込み具合まで、全員が足並み揃えて仕上げてくる。

だからこそ、そこに上乗せされる少しの個性と表現力が光るのだ。

基礎的な演奏力は身に付いていて当然。

そのレベルに至っていなければ、そもそも評価すらされない。

だから、あんな弾き方でこの場に挑んでも、そもそも審査員に興味を持ってもらうことすら不可能なはずなのだ。


彼女の演奏なんて本来土俵の中にすら入らない。

めちゃくちゃで、破天荒で、音楽を侮辱しているくらいひどい演奏なのに。

どうして彼女はそれでも笑っているんだ。

どうして皆その演奏に魅せられてしまうんだ。


「……原田さん。とりあえず練習不足すぎ。もう勝負にすらなってないよ」


「めっちゃ毒舌! ひどーい、けどその通りだからなにも言えません」


「もっと練習しないと上手にならないよ、いつまで経っても」


「いいの! わたしはたのしくピアノが弾ければ! というか勝負だったの?」


出た。

またそれだ。

楽しくピアノが弾ければ?

上達することを放棄して、感情に操られて弾くピアノほど滑稽なものはないだろう。

ピアノに楽しさを見出すことなんて不可能だ。

楽しんで弾いている限り、苦しみながらもがいて練習する人にかなうはずはない。

音楽は楽しんだら、負けるんだよ。

勝つための音を作り出せないなら、

音楽なんてやっている意味が無い。


「なんか、原田さんってそればっかり。まるで自分に暗示かけてるみたい」


「だってわたし、その弾き方しかできないんだもん」


きっと彼女と私は違う。

前もはっきりそう思った。

だからこの言葉を言ったところで彼女には刺さらない。


「原田さんの弾き方はピアノに対して失礼だよ。自分が楽しむためだけに弾くなんてただのエゴ。あなたの表現力は確かに……凄い、けど、そんなの音楽とはいえない」


強い口調になってしまった。

私が彼女に対して抱いている感情。

それは嫌悪感だ。

本来覚えていなければならない基礎中の基礎である弾き方をせずに、ただ自分の快楽的欲求を満たすためだけにピアノを利用する。

そしてそれがさも正しいことのように振る舞う。

正しい訳ないだろう。

同じ楽器を使う表現者として、そんなのがまかり通ることは許せない。

それを認めてしまったら、私が歩んできたこの数年の意味が、生きてきた意味がなくなってしまう。

でも。

認めたくないのに、認めてはいけないのに。

彼女の演奏に対して私の心が抱いているこの思いは。

きっと。


「しいかちゃんは、ピアノたのしくないの?」


そうだ。そうだよ。

彼女と私は違うんだ。

彼女からこの発言が出てくるのは、私とは見ている世界が違うから。

ピアノや音楽に対して抱く意味そのものが違いすぎるから。

だから、これ以上、私が知っているピアノで、知らない音色を奏でないで。

これ以上、私の人生から意味を奪わないで。


「楽しいわけない。ピアノに楽しさを感じたことなんて一度もない。楽しく弾いていたって、一生上手にはならない」


あーあ。

なんでピアノなんてやってたんだろう。

苦しい思いをしてどんなに完璧に演奏したって、完成されてもいない音に打ちのめされるのなら。

今まで練習してきた日々が全部、馬鹿みたいじゃないか。

もう続けたって意味がないのなら、

いっそここで潔く辞めるのが正解なんだ。

このままこんな感情を抱きながら続けることに、

価値なんてものはない。


「もう、いいや。私は……」


「じゃあさっ」


ぱん、と両手を合わせて彼女は元気よく言った。

彼女の鈴のような声が雪を溶かす陽射しのように、柔らかく響いた。

彼女はそのまま手のひらを上に向けて前に出す。

私の目の前に彼女の小さな右手が差し出される。


「わたしと一緒にピアノ弾こう!」


「は?」


私の演奏レベルまで達していないくせに、一緒に弾いたところで音楽が成り立つ訳ないだろう。

そんなことに割く時間があるなら、基礎練習を続けている方がよほど自分のためになる。


「ピアノは一人でもたのしいけど、二人で弾くともっともーっとたのしいんだよ!」


聞く耳を持つだけ無駄だ。

もう彼女と話しても意味は無い。

ただ私が疲れるだけ。

こんな言葉に惑わされて自分の時間を捨ててしまうなんてとても非効率でしかない。


それなのにどうして、私はその発言に魅力を感じてしまうのだろう。

彼女の瞳が真っ直ぐ私を射抜いて、身動きが出来ない。

この判断をしてしまったら最後、いよいよ本当にピアノを継続することはできない。

その瞬間に周りに置いていかれるのは明白。

今までの人生の努力が全て水の泡。

全てを捨ててまで、彼女の手を取る必要なんてない。

そう思っているはずなのに。

どうして。


「音楽は、一緒にやるとたのしいんだよ、しいかちゃん!」


全てを捨てたら、私にも彼女のような音が奏でられるんだろうか。

彼女が見ている世界が、私にも見えるのだろうか。

おそるおそる彼女の顔を見る。

にひー、と横に開けた口から雪のように真っ白な歯が見える。

心からピアノが楽しいと、そう宣言しているような眩しい笑顔だった。


「……楽しくなかったら辞めるから」


彼女の鈴の声と違って、相変わらずぶっきらぼうな声しか私は出なかった。

言ってしまった。

もう後戻り出来ない。

私の今までの人生で、これほど生産性のない発言をしてしまったことはない。

この判断をしたことに後悔する日も来るかもしれない。

それでも今私の心が感じているのは、何か悪いものから解放されたときのような安堵感。

何かに満たされるような充足感。


やった、と短く言いながらその場で飛び跳ねる彼女がただひたすら眩しい。

ずっと自分の中でぐちゃぐちゃに渦巻いていた感情がさざ波のように揺れて、波打ち際に打ち付けられる。

やがて波は穏やかになっていく。


心臓に手を当ててみた。

今はいつもより少し早い鼓動で、足を動かすために脈を打っている。

前を向くために、脈を打っている。

大事なものを捨てたはずなのに、心が軽い。

いや、大事なものを捨てたから軽いのかもしれない。


認めたくなくても分かってしまった。

彼女の演奏に対して私の心が抱いているこの思いは。

きっと、憧れだ。









♢♢♢




角を曲がれば、見慣れた看板が見えてくる。今日はいるか分からない。お店の予約もしていない。足を動かしているのは、あの日会場で聴いた音だ。今も心臓の奥で光っている音だ。

ただそれだけに突き動かされる足は、いつもより早足だ。少しでも早く話したい、という思いだけが募って、自分でももう止められない。

カフェの入口に辿り着いた。乱れた呼吸を整えてからゆっくりとドアを開ける。


「いらっしゃいま……」


あの日スクリーンから聴こえた声がした。その姿を見て安堵したのか、身体から力が抜けていくのが分かる。心拍だけはまだ早いリズムで熱を全身に送っている。

詩香の姿を見て、入店時の挨拶が止まってしまった茅野が小走りで近づいてきた。


「この前はごめんなさい! ずっと心配してたんです。あのあと、大丈夫でしたか」


そう話した茅野に改めて向き直る。今日自分がここに来た理由を話すために、詩香は深呼吸した。


「いきなり押しかけてごめんなさい。今日は私、茅野さんに聞きたいことがあって来ました」


カフェ入口のレジ前で直立したままそう告げた。茅野のことも他の客のことも何も考えていない行為に申し訳なさが募る。でも今の自分は突如として降ってきた興味にしか矛先が向いていない。聞きたいことがたくさんある。それを茅野の口から聞くまできっともう止まらない。自分のことは自分が一番理解しているのだ。


「えっと……、とりあえずお店の奥に来てください」


入口付近で立ったまま話す二人に周りの客がそろそろ不審感を露わにしているのが伝わってくる。茅野の後をついて、お店の奥へと入った。



ここで少し待っていてください、と言われ案内されたお店の準備室のような場所は、小さな木目の天板にスチール製の足がついたテーブルが中央に置かれていて、テーブルの周りには人間工学に基づいて作られた湾曲した背もたれが立派な椅子が設置されていた。大胆なヘリンボーン柄の壁紙と壁に掛けられたオレンジ色の時計が柔らかく調和していて、安心ややすらぎといった印象を与えてくれる。お店の奥の普段見えない所まで、お洒落に作り込まれていることに詩香は感銘を受けた。どうぞ、と促され座った椅子は、自分の背骨の形に作られたのではないかと錯覚するほどフィットして、このまま立ち上がれなくなるのではないかと思った。


「それで、あたしに聞きたいことって」


厨房の方から戻ってきた茅野が、詩香の対面に腰掛けながら流れるように口を開いた。おそらくシフトの調整をしてくれていたのだろう。時間を作ってくれたことに対してまずはお礼を言わなければ。


「まずは今日、予約もせずに来てしまってごめんなさい。忙しいのにお時間作っていただきありがとうございました」


詩香がそう言うと、茅野は手を軽く振りながら気にしないでください、と言った。


「あたしもまだ聞けてないことありましたから。あとシフトはほんとに気にしなくて大丈夫ですよ。権力でどうにでもなります」


にこりと笑う茅野の顔は、笑顔のはずなのにやはり少しだけ怖く見える。最近カフェのシフトに新しく男性の方が入ったらしく、その人に早く仕事を覚えてもらえるチャンスだからむしろありがたいと逆に頭を下げられた。その男性店員には心の中で謝っておくことにする。詩香のせいでその方が辞めてしまったら、もうそれは営業妨害みたいなものだ。


「ほんとにすみません……。それで、えっと、茅野さんにさっそく聞いてもいいですか」


軽く咳払いをして姿勢を正す。椅子と背中が同化してしまっているのできちんと姿勢を直せたかは分からなかったが、真剣な詩香の表情に茅野も背筋を伸ばしたように見えた。


「なんで辞めるんですか」


直球の言葉を投げた。まずは一番に疑問に思っていることを茅野にぶつけると、茅野はガラス玉みたいな飴色の瞳を大きく見開いた。


「この前の……見てくれたってことですかね」


首を縦に振って肯定を示す。あの日、あのステージで見た光景は今でも鮮明に蘇る。目を閉じれば網膜の裏に四人の姿が浮かびあがるくらい、強烈な光が自分の中に降り注いで、その熱が生んだ熾火が今もまだ心を焼いている。鮮烈なあの光の音がまだずっと鳴っている。


「私、本当に感動したんです。茅野さん達のステージは、VRが全く分からない私から見てもとにかく凄くて、音楽もダンスも全部が素敵でした。だから」


この人達が魅せるステージは、全てが煌めいていた。ダンスの技術も、音楽も、その表現力も、表情も何もかもが雲ひとつない澄んだ夜空に点々と輝く星のように輝いて見えた。だからこそ、分からない。


「だから、なんで引退してしまうのかが私には分からない。事情があるのは分かります。でも茅野さん達の顔は辞めたくて辞める、というようには見えませんでした。続けたくてたまらないのに、仕方ないからというような……、一種の諦めに近い感じに見えてしまったんです」


自分でもなんでこんなに憤りを感じているのかは説明出来ない。興味が長続きせず、すぐに諦めてしまう自分が言う資格などない。この人たちにも継続することに意味を見出せなくなった理由があるのなら、きっと自分は諦めがつく。だからその理由が知りたかった。何の疑念も抱く余地がない、その理由を。


「……ありがとうございます。そう言ってもらえるだけであたしは嬉しいです」


時が止まったと思うほど長い長いお辞儀だった。テーブルに額がくっつきそうなほど頭を下げて茅野は感謝を述べた。でも詩香が聞きたかった回答ではない。もしかしたら何か言えない理由があるのだろうか。詩香が頭を上げてください、と言いかけたその瞬間、茅野が勢いよく頭を上げた。茅野の柔らかそうなセミロングの髪がふんわりと揺れて、ミルクバニラみたいな甘い香りが漂ってくる。


「あたし、午後からシフト休みで、出掛ける予定なんです。もし良かったら着いてきてくれませんか」


そして先ほどの質問には答えずに、唐突にそう言った。詩香を真っ直ぐ見つめるその瞳は若干濡れているように見えた。


「会ってほしい人達がいるんです」




♢♢♢




茅野の後を着いてお店を出て、最寄り駅から総武線に乗り込む。移動中はお互いほぼ何も話すことなく終始無言の状態が続いていたので、詩香は電車内の広告をぼんやり眺めながら時間を過ごしていた。しばらく電車に揺られ、新宿で降りて、水道橋・千葉方面ホームの左手にある階段を登る。新宿駅南口の改札を抜けてそのまま徒歩で少し進んだ建物の前で茅野は足を止めた。


「ここです!」


立ち止まって、くるりとこちらを振り返った茅野が建物を指さしながら言った。指さされた場所を見て詩香は若干戸惑う。どう見ても某有名ファストフード店である。


「えっと……マクドナルド?」


「そうです! お腹すきませんか? ちょうどお昼どきですよ」


出掛ける前の腹ごしらえといったところだろうか。詩香が疑問を問うと、茅野は今日の目的地です、と言いながら店内入口へ向かった。自動扉が開いて店内の暖かい空気が頬を撫でる。


「あ、いたいた! ごめん〜、お待たせ」


茅野が手を振りながら近付いていったテーブルには先客の男性3名が座っていた。詩香もおそるおそる後ろを着いていく。正直人見知りはしやすいタイプだという自負があるので、いきなり知らない集団に投げ込まれるのはどうも苦手意識が出てきてしまう。


桃葉ももは遅いよ〜。僕もう食べ終わっちゃったんだけど」


青斗あおとはどうせ一緒に食べ始めても秒で食べ終わってるんだからいつもと変わらないでしょ。あ、理希りきくんも潮音しおんもおひさ〜」


青斗、と呼ばれた人の隣まで歩いていった茅野は荷物とダウンジャケットを空席に置いた。暑い、と言いながら手をパタパタと振って扇いでいる。


「いまだに理希って呼ばれるの慣れねぇからゆん兄でいいよ。お、そっちの子はどなた?」


理希という人が詩香を見ながら言った。店内の喧騒にかき消されないように少し大きな声で発言したので、詩香は僅かに肩がぴくりと跳ねてしまった。四人の視線を真っ向から浴びて、遅れて緊張がやってくる。


「あ、私は……。茅野さんに着いてきただけで……」


だんだんと声が萎んでいくのが自分でも分かった。突然の状況に対して、何と言っていいのか戸惑っていると、青斗が茅野に向かって口を開いた。


「桃葉、どういうこと?」


その言葉を待ってました、とばかりに茅野が不敵な笑みを浮かべた。やはりこの人の笑顔には若干の怖さがある。嫌な予感しかしない。


「ナンパ……いや、勧誘? 話したいことがお互いあるからもうぶっちゃけみんなで話そーよ! 的な?!」


少し遅れて理解した。

茅野はお膳立てをしてくれたのだ。

聞きたいことがあるなら直接メンバー全員に向かって聞け、ということか。

この人達は、きっとあのステージで見た『toeL』のグループメンバー達だろう。


なになに面白そうじゃん、と青斗が目を輝かせた。先ほどから一言も発しない潮音に手招きされ、詩香は椅子へと腰掛けた。まさか本人達をいきなり目の前にするなんて思わなかったので、余計に緊張してしまい、じんわりと背中が汗で湿る。


「じゃあとりあえず自己紹介ね! あたし茅野桃葉です! というか、今の今まであたし、あなたのお名前聞いてなかったです! すみません!」


詩香の隣に腰掛けた茅野はこちらを見ながら早口で言った。確かにこちらも名乗っていなかった。自分の名前を名乗らずに色々出しゃばってしまったことに顔が熱くなる。


「え、あっ、ごめんなさい! 私、三保詩香です」


対面に座った理希は呆れた表情をしていた。名前も聞かずに連れてくるとかガチナンパじゃん、と呟いている。今回は自分が名乗っていなかったのが原因なので茅野を責めるのはお門違いだ。青斗も謝罪を示すように手を合わせているが、どう考えてもこちらの不手際なのでそのような行動をさせてしまったことに心がちくりと傷んだ。


「違うんです! 茅野さんにはお世話になっているのに、ずっと名乗ってなかった私が悪いんです! ほんとにすみません!」


みんなの顔を見回した後、頭を下げる。緊張と恥ずかしさでもう体温はずっと急上昇し続けていた。


「桃葉ってこういう人なんだよ。ごめんね」


青斗に頭を上げるように促され、ゆっくり体勢を起こすと、青空のように澄んだ瞳と目が合った。その声はあの日、猫耳を付けた青色の少女から発せられた声と同じだった。


「もしかして、アオさんですか?」


紹介ビデオで覚えた名前を口にした。紺碧の夜をその身に宿しながら宙を舞う姿が脳裏に焼き付いて離れない。まだそのときの熱を思い出せる。

仮想世界での名前を呼ばれた青斗は目を細めて笑みを浮かべた。


「僕達のこと知ってくれてるんだ。嬉しいなぁ」


青斗の言葉にゆっくりと頷く。


「一致しているかわかりませんが、湯葉さん、しおんさん、そして茅野さんはねくたーさん」


そう言って三人に順番に顔を向けた。三人とも詩香と目が合うと首を振って肯定する。呼ばれた名前に茅野は嬉しそうな反応を示している。

この茅野という人のことが少しだけ分かった気がした。きっとこのグループのことをとても大事に思っていて、仮想世界を通じて育んだメンバーとの絆や過ごしてきた時間を尊んでいるのだろう。全ての原動力はそこにあって、ブレることのない一本の太い芯に従って行動している。だから多分、自分に接してきたのは、藁にも縋る思いだったに違いない。失いたくない時間を守るために、今この場にはいないもう一人のメンバーと繋がりのある自分に、あの日声を掛けずにはいられなかったのだ。


「原田さんは今日は来ないんですか」


だから自分もそう発言してしまった。あの日ステージで踊っていたのは目の前にいるこの四人だけで、今この場にもグループのメンバーは四人しかいない。茅野はメンバーの一人があの曲を作ったと言っていたので、間違いなく原田さんが作っていたのだと思っていたから、自分からその発言が出てきたことは至極真っ当なものだ。もしかしたら今日会えるかもしれないと、メンバーを見た瞬間に淡い期待を抱いていた。でも、四人の顔を見て自分の発言が間違っていたことに気づく。一度口から出てしまった言葉は取り消せない。


「そっか、よるのちゃんの知り合いなんだ」


原田さんの名前を呼ぶ時の青斗の声はより一層柔らかい温もりに包まれていた気がした。そして、その温もりの奥でひっそりと哀しみが息をしているようにも見えた。


「よるのちゃんは、亡くなったんだ。2年前に」


「……え?」


絞り出した声はおそらく声になっていなかった。抱いた淡い希望が音もすることなく溶けて消えて、その後には何も残らなかった。

会えば何かを思い出せると思っていた。その願いはもう絶対に叶わない。この人たちが辞めてしまう理由はもしかしたら大切な存在を失ってしまったからかもしれない。そうだとしたら、部外者の自分が言えることは何も無い。


「詩香さんが思ってることではないですよ。つっきーが亡くなってしまったことはずっとずっと悲しくて、今でも心の奥がきゅってなるけど、あたし達はちゃんと受け入れて前に進んだんです」


動揺して震え始めた詩香の左手をそっと握りながら茅野が横から優しく声を掛けてくれる。心の中を覗かれてしまったことに戦慄することはなく、むしろ握られた手の熱から茅野の優しさが染み渡って強ばった身体の硬直が解けていった。


「だから、教えてください。詩香さんが知ってるつっきーのこと。あたし達は大好きな人の思い出や生きてきた証なら何でも聞きたいんです」


再び四人の視線を肌身に感じる。視線から逃れるように思わず下を俯いてしまった。

向けられた期待に自分は答えることが出来ない。あのピアノの音は何処かで聞いたことがあるはずなのに、どんなに記憶の奥底に潜水しても、手がかりはまだ何も見つけられなかった。暗い深海をただゆらゆらと彷徨いながら落ちていって、水圧で潰されるように心が苦しいと悲鳴をあげる。息継ぎのために水上に顔を出すこともできず、ずっと心臓が締め付けられている。悲しいと感じて流した涙も、溟渤めいぼつの波に攫われて混ざりあってしまうから、自分が本当に泣いているのかどうかも定かではなくなっていく。

ずっと息ができなくて苦しい。


「私……、私っ、原田さんのことなんにも覚えてないんです! きっと大切な何かがあったはずなのに、なんにも思い出せない!あなた達のステージで聴いた曲、も、原田さんの音だってすぐに分かったのに! 私はそれを前にどこで聴いたのか分からない! あのメロディをどうして私は知っているのっ」


肺胞に残った酸素が次から次へと泡ぶくとなって口から流れていく。息継ぎがしたくてしたくてたまらない。止めどなく溢れる言葉が周囲を困惑させてしまうのは明白なのに、堰を切ったように零れ続ける。


「何があったのかは分からないけど、三保さんが言える範囲でいいから教えてくれないかな。言いたくないことは言わなくていいから。俺らは今は聞くことしかできないけど、話せば少し楽になるってこと、俺は知ってるんだ」


理希は僅かに青斗の方を見た後、再び詩香に目を戻した。理希の詩香を見る目はひたすらに優しかった。この人たちは本当に仲間想いで、今までもこんな風にお互いを支え合って切磋琢磨してきたのだとすぐに分かった。今日出会ったばかりの自分にすら当たり前のように手を差し伸べてくれるのだから。

その言葉に頷いて、詩香は茅野と出会った日のことをゆっくり話し始めた。自分が原田さんが作った曲を知っていたこと、楽譜が読めること、原田さんとどこかで会っているかもしれないということ、そしてそれらに関して一切の記憶がないこと。


「だから、私は茅野さんやみなさんが聞きたいことに関しては何も答えられないんです。ごめんなさい」


最後にそう付け加えて口を噤む。このテーブルの周りにだけ静寂が流れた。騒がしい店内の近くの席の会話や、フライドポテトが揚がる音、自動扉が開いて入店を知らせる電子音だけがやたらクリアに鼓膜を揺らす。


「あのさ」


真っ先に口を開いたのは青斗だった。その口から出た提案に詩香は息を飲んだ。目の前に座る青斗の姿に一瞬だけ、仮想世界の猫耳少女の姿が混ざったように見えた。やっぱりその瞳はどこまでも澄んでいて、葵色の世界に誘われるようだった。


「僕達に音楽を作ってくれないかな」


この人の言葉には、過去や未来といった時間軸の概念すら捻じ曲げてしまうほどの説得力があった。その発言は過去の詩香を知っている前提があってのもので、先の未来のために投資する価値が見出だせない限り出てこないはずだ。でもこの人の碧色の瞳からはそのような打算的な思考は読み取れず、何事も現実的に考えてしまう自分がどこまでも浅はかなのだと思い知らされる。これはきっと青斗が自らの直感だけを信じた発言だ。


「でも私……、音楽なんて作ったことなくて」


「うん」


「原田さんみたいな凄い音は、私なんかには出せないんです」


「それでも、僕は詩香さんに頼みたい」


こちらの心の中を貫いて、椅子の背もたれにまで浸透しそうな慈愛に満ちた視線が詩香を捉えて離さない。


「次のライブが僕達のラストステージなんだ。最後の曲は詩香さんが作った曲がいい。よるのちゃんがこの場にいたらきっと喜んで賛同してくれる」


そんな重大なことを欠陥だらけの自分に頼んで良いのだろうか。この人たちは周りに認められた英才集団で、対してこちらは何の取り柄もないただの一般人だ。そうまでして、この人たちが自分に拘るメリットなんて何一つない。詩香はまた自分が損得しか考えていないということに気がついて、つくづく自分が嫌いになりそうだった。


「でも私……」


「もう決めたの!ね、みんな!」


青斗がそう言うと周りの三人の表情がみるみる和らいでいった。本当に厚い信頼関係が成り立っているのだと実感させられる。


「まあ俺らのリーダーがそういうならね」


「青斗が決めたんならあたしはおっけー! てかむしろめっちゃ嬉しいんだけど! 詩香さんの音聴けるの、楽しみに待ってる!」


「自分もです。三保さん、青斗さんのこと信じてあげてください。絶対大丈夫ですから」


三人が同意を示した様子を見てから、青斗は再び詩香のほうに向き直って目配せした。勝利を確信したときのようなその表情に心が絆されていく。ずっと感じていた息苦しさが薄れていく。


「それによるのちゃんが繋いでくれたこの出会いには絶対意味があるんだよ。だから、詩香さん。僕達と一緒に『音楽』をろう」



きっと強引にでも連れ出してくれる人を待っていたんだ。


閉じ篭った殻を無理やり外側から破り捨ててくれるそんな誰かを。


この感じを、心が覚えている。


あの時も確か、そうだった。


何かを捨てる決断をした震える自分の手を取って、前に進む勇気をくれた人がいたはずなんだ。


細雪のようにキラキラとした笑顔で手を差し伸べてくれたその人がきっと。



「分かりました。お力になれるか分かりませんがやらせてください」


詩香の言葉に四人が喜びを隠しきれないくらい弾けた笑顔になった。でも詩香がずっと抱いていた疑問はますます膨れ上がっていく。こんなに素敵なグループなのに、何故。


「私からも質問いいですか。どうして、引退してしまうんですか」


少しの間しかまだ会話を交わしていないがそれでも分かる。この人たちはやっぱり楽しんでダンスや音楽と向き合っている。こんなに素敵な人たちが、共に積み上げてきたものを自らの手で壊すようなことなんて絶対にしないはずなのだ。


「toeLさんのステージを見た時、思ったんです。綺麗だなあって。気づいたら自然に涙が流れていました。私だけじゃない、友達も、周りのお客さんも全員が見惚れていたんです。今こうして実際に話してみてわかりました。みなさんの人柄の良さがあってこそ、あそこまで愛されるグループになったのだと確信しました。だから私は」


「それはね、単純なことなんだよ」


詩香の言葉を遮って青斗が口を開いた。それ以上の追及が出来なくなってしまうほどの冷たい魔力が宿った声だった。


「僕が病気だから」


「病……気?」


予想していたより遥かに最悪な答えが返ってきてしまい口淀んでしまった。続けたくても続けられない事があることに、今まで自分がいかに恵まれていたかを嫌でも知ってしまう。立ちはだかる障壁は小説の物語のように簡単に解決なんて出来なくて、そこにはどこまでも残酷な現実という呪いが付き纏う。だから、あのステージで見た時のみんなの表情から絶念の意が読み取れてしまったのか。

こんな結末はあまりにも不条理ではないのか。


「ずっと前からなんだ。みんなやよるのちゃんの音楽に支えられてなんとかやってきたけど、もう限界が近いんだ。今の日本じゃ受けられる手術も限られていて、かといって海外渡航なんてできる費用は僕にはない。みんなには、僕無しでも続けてほしいって最初お願いしたんだ。でも一人でも欠けたらtoeLじゃないって言われて。きちんとみんなで話し合った結果だよ。だから最後のステージは今まで以上に頑張りたいんだ」


淡々と現実という剣で連撃を的確に打ち込んでくる青斗の言葉に心臓が切り裂かれる。先の未来を見通して、それを受け入れる青斗はなんて強い人なんだろうと詩香は思った。未来から目を背けてきたばかりの自分が心の底から情けなくて、代わってあげられたらどれだけいいだろうかと心が叫ぶ。

今日何度目かの静寂がまた流れた。さっきまで聞こえていた隣の席の会話や店内の音は一切聞こえない。まっさらな白い楽譜を見た時のように頭が白夜に染まって視界さえも白く塗りつぶされていく。白色の世界で、音だけが鳴っている。


先程まで無音だったはずなのに、その音はどんどんと近づいて、詩香の海馬を優しく撫でる。

あのメロディが聴こえる。

ずっと自分の中で繰り返し再生されるワンフレーズのピアノの旋律。


「あ」


青斗はこの出会いに意味があると言った。

そして、少し前から自分の中にあのメロディが流れてきたことにも

原田さんは託したんだ。

大切な時間がいつまでも終わらないように。

大切な人たちがバラバラになってしまわないように。

その想いを、願いを、夜空に瞬く星に託して、それが流星となって私に降り注いだのだろう。

そんな現実離れした妄想なんて少し前の自分なら絶対に信じなかった。

でも音楽には魔法が宿るって分かってしまったから。

キラキラ輝く音が存在するって知ってしまっているから。

今もずっと繰り返し流れるメロディ。

あの楽譜に幼い文字で書かれていたタイトルは。


『星』



「提案があります」


どこまで息継ぎをせずに言葉を紡いだか分からない。でも今のこの人たちに自分ができる最大限のことをしなければいけないと思ったらもう止まらなかった。差し伸べてくれた手を握り返したのなら、次はこちらがもう片方の手を差し伸べるべきだ。そうやって人との繋がりは出来ていく。

現実に立ち向かうには現実しかない。より強い現実で上書きするしかない。


「医療資金を集めましょう。青斗さんの」


詩香が放った言葉が宙を舞ってテーブルに落ちる。その言葉は落ちるスピードが早すぎて誰も反応できなかった。だから詩香は状況が読めずに固まったままの四人に追い討ちをかける。


「クラウドファンディングを使います。もちろんそれなりのリターンは用意しなければいけないですけど、みなさんにはこれまでの輝かしい実績があります。ファンの方だってこのままtoeLが解散してしまうのは悲しいですよ」


未だ表情が強ばったままの四人に改めて笑顔を向ける。自分はこの人たちの居場所を守りたい。心からそう思った。そしてそれが彼女の願いだ。


「ウェブページの立ち上げは私がやります。デザイン案も考えます。だからやってみませんか。やる価値は大いにあるはずです」


そう強く宣言すると、その圧で固まった時間が一気に流れ出したのか、四人がハッとしたように息を飲んだ。うまくいくんでしょうか、という潮音の囁き声が聞こえてくる。


「絶対に上手くいくという確証はないです。でも! 私が音楽を作ることに賭けてくれたのは他でもないみなさんです。私だってみなさんのために何かしたい。やらないよりはやったほうがいいと思うんです」


青斗さんがもし良ければですが、と言いながら青斗の瞳を真っ直ぐ見返した。他の二人も首をゆっくり動かして身体を青斗の方へ向ける。


「もし、もしそれが叶うなら、本当に、なんて言ったらいいか……。言葉じゃ言い表せないね」


その声が喜びに満ちているのだと誰しもが分かった。だから自分はこの人の為に全力を尽くそうと思った。toeLの未来はこんなところで終わらせる訳にはいかない。


「えーーーーーーん、詩香さん、ありがどうほんとうに!」


茅野がガバッと両手を広げて抱きついてきた。そのままの勢いで潮音の肩に背中がぶつかってしまう。ゆっくり茅野の両脇の下から腕を通して抱き返した。セミロングの髪から漂うミルクバニラの香りが店内の油の香りを浄化する。


「三保さん。感謝してもしきれないよ。俺からも礼を言わせてくれ。ありがとう」


「自分もです。今日三保さんに会えて本当に良かったって思ってます」


理希と潮音が頭を下げる。でもまだ発言しただけで何も出来ていない。やるべきことは山程ある。


「まだこれからですよ! でも私やると決めたからにはやりますから! 原田さんのためにもみんなで頑張りましょう!」


手のひらを下にして前に突き出す。誰も何も言わずにその手に自らの手を重ねていった。五人分の手が重なった後、全員でその手をゆっくり上に挙げた。頭の奥で聴こえるメロディに混じって、鈴の音がしゃん、と鳴ったような気がした。



ぐーっという音がユニゾンで鳴った。聞こえた音は鈴の音じゃなくて詩香と茅野のお腹の音だったみたいだ。


「あははっ、そういえば何も頼んでなかったからお腹すいたねー! あ、もう詩香さんもtoeLの一員なんだから、タメね! しぃしぃって呼んでいい?」


「え、なんで元の名前より読みにくくするんですか……? えっと、私ダンスも何も出来ないけどいいんですか」


恐る恐るみんなの方を見る。誰も嫌な顔なんて一つもしていなくて、歓迎ムード一色だった。


「もちろん!もうここにきた時点でメンバーの一人だと思ってたよ! じゃあ改めまして、倉橋くらはし青斗です。青斗でも、アオでもいいよ! 僕は詩香って呼ぶね」


「俺は柚原ゆはら理希だ。みんなよりはちょっと歳上。親しみを込めてゆん兄と呼んでくれていいぜ! よろしく詩香ちゃん!」


「自分はみなと潮音です。VRでの名前もしおんなので、そのまま呼んでください。改めてよろしくです、詩香さん」


みんなの声があの日ステージからした声より明るく透き通っているように感じる。この居場所を絶対に大切にしようと誓った。だから自分も精一杯の笑顔で一人一人の顔を見ながらはっきりと告げた。


「桃葉。青斗。ゆん兄。しおん。こちらこそよろしくねっ」


じゃあなんか注文しにいこー、と桃葉に背中を押され、注文カウンターへ足を運んだ。踏み出した足は羽のように軽くなっていて、空まで飛んでいけそうな気持ちになった。




♢♢♢




それからの家での毎日はひたすらパソコンと向き合う日々となった。しばらく進んでいなかった動画編集のプロジェクトを立ち上げることは一切なく、音楽編集ソフトを起動して、作曲の仕方を調べては試行錯誤しながら画面を音で埋めていく。編集ソフトは原田さんが使っているのと同じものの商品URLを青斗に教えてもらい、それを使うことにした。使い方を青斗にディスコードで聞いてみても、さっぱり分からないと言われてしまったので早くも詩香は頭を抱えることになった。どうやら残りのメンバーも作曲したことはないようで、本当にtoeLの音楽は原田さんが担っていたのだと再確認する。スマホで調べればやはり先人の知恵の結晶がそこにはあって、もうスマホなしでは絶対に生きていけないな、と詩香は思った。

また、同時にクラウドファンディングのウェブページのデザイン案とリターンについて熟考する機会も日々の生活の中に増えていった。アイデアの数々は勤務終わりの電車の空いている席にたまたま座れた時とか、お風呂で目をつぶってシャワーでシャンプーを洗い流している時とかに唐突に閃くことが多く、閃いたものを忘れないようにその場ですぐメモを取っている。流石にお風呂の中で思いついたときはメモが取れなかったので、声に出して忘れないようにしていたのだが、お風呂上がりに母から何歌ってたの、と聞かれた時は少しだけ恥ずかしかった。並行して訪れたタスクにやりがいを感じながら、瞬く間に時間だけが過ぎていった。


メンバーとは定期的に連絡を取っている。みんなが仮想空間で落ち合うためのツールとして使っているものはVRChatという名前のゲームだ(正確にはVRSNSというらしい)。詩香はVRをやるためのゴーグルやゲーミングPCを持っていなかったので、メンバーと仮想空間で会うことは出来ないと思っていた。しかし初めてメンバーに会った日に、桃葉にVRChatはスマホアプリ版もあるんだよ、と言われマクドナルドの店内ですぐにインストールした。その日はそのままみんなスマホを取り出してアプリ版VRChatを起動し、ゲームの中にあるマクドナルドのワールドに集合した。ふとスマホから目を離すと、すぐ近くにみんなの現実の姿があるし、現実でもマクドナルドにいるから不思議な感覚になった。チュートリアルもなく何をすればいいか分からなかったので、隣の桃葉や潮音に細かく教えてもらったのだが、説明された項目が多すぎて正直全部覚えていない。ちなみになんでマクドナルドの店内にいるのに、ゲームの中でもマクドナルドにいくのか、という質問をその時に隣に座っていた潮音に聞いてみたのだが、それがVRChatです、とさも当たり前のように言われてしまった。はっきり言って訳が分からない。

それでも、メンバーと繋がっているという実感を持つことができるのは事実なので、音楽制作の傍ら分からないところをスマホで調べようと思った矢先、気が付けばVRCと書かれた青色のアプリアイコンを押してしまっていることが多くなった。そういえば昔から片付けの最中に漫画や小説を見つけた時はついつい夢中になって読み進め、片付けの手が止まってしまうことが度々あったのを覚えている。数年経っても成長していない自分の行動心理に、詩香は自分で笑ってしまった。


アプリアイコンを押してVRChatを起動する。

現在は水曜日の夜の21時。この時間はVRChat内で定期的に開催されているダンスレッスンイベントにみんなは顔を出していると言っていた。青斗はダンスレッスンのインストラクターも兼任しているということを後から知って驚いた。toeLの活動で忙しいのではないのかと詩香は疑問を抱いたが、ずっと続けてきたレッスンを疎かにしたくないという理由と、VR初心者やダンス未経験の人に少しでもVRダンスに興味を持ってもらいたいという強い熱意が青斗にはあるようだった。きっとたくさんの人を気にかけて、誰にでも分け隔てなく接する青斗の優しさがあるからこそ、toeLが多くの人に愛されているのだろうなと思った。


「みんなこんばんは〜」


「しぃしぃだ! 会いたかった!」


「相変わらず詩香ちゃんのアバター……、ごめん、ちょっと……、ぶふっ」


ねくたーと湯葉が近付いてくる。人のアバターを見ていきなり吹き出すのは失礼極まりない。ちなみにねくたーは桃葉の、湯葉は理希のVRChat内でのプレイヤー名である。ねくたーは紫色の長い髪とスポーツミックスの服装が特徴的な女性アバター、湯葉は羊の角が頭についた長身の男性アバターだ。二人とも現実世界のイメージとは少し異なる系統なので最初にアバターを通して話した時は慣れるまで少し時間を要した。でも二人は自分のアバターが大層気に入ってるようで、やはりなりたい姿になれる仮想世界は良いものだとつくづく感じる。

詩香が最初に選んだアバターは四足歩行の鹿のアバターだった。可愛いデフォルメがされているとか荘厳な装飾がついているとかではなく、奈良公園にいるような本当にただの鹿の3Dモデル。それ以上でも以下でもない。名前は平仮名で『しーか』にした。安直すぎるネーミングといかにもなアバターに、理希は会う度に笑いを堪えきれず顔を背けて肩を震わせている。


「ちょっと。毎回笑うのなんなの。かわいいでしょ。鹿」


「鹿が、鹿がっ、喋ってる……! そのモデルにもちゃんとリップシンクついてるんだ、くふっ」


「殴るよ」


湯葉に向かって拳をぶつけようとしたが、VR版ではなくアプリ版なのでアバターの腕が動くことはなかった。まあそもそもVRモードだったとしても四足歩行なので腕というよりは前足になってしまうのだが。


「それでしぃしぃ今日はどうしたの? 一緒にダンスやりたくなった? レッスン見学とか?」


ねくたーの言葉に今日本来のログイン目的を思い出す。鏡張りになっているスタジオの中心には見慣れた青色の少女がいて、参加者に準備運動をするように促している。まだダンスレッスンが始まるまで少し時間がありそうだ。


「ううん、私はダンスはやらないよ。そもそも踊れないし、今は音楽制作の方に専念したいから。というかこの鹿のアバターでダンスやったら狂気だよ」


詩香のこの言葉がトドメとなり、湯葉は笑いの渦の中に完全に呑み込まれてしまった。しばらく戻っては来られないと思ったのでねくたーに要件を伝える。


「クラファンサイト出来たんだ。レッスン終わったらみんなに見てもらおうと思って」


紫色の髪が揺れたと思ったら次の瞬間には目の前から消えていた。視界の右側の端っこの方でちらりと結われた紫が見え隠れしているので、おそらく抱きしめられているのだと思う。スマホの画面上でその様子を見ている詩香にはもちろん抱きしめられている感覚などない。


「……しぃしぃがいなかったら、ねくは最後のライブの日が近付いてくるのがたぶん怖いままだったと思うんだ。でも今はすっごく楽しみ。だってその先があるかもしれないって希望が持てたから。だから、ほんとうにありがとう」


「まだサイトページ作っただけだよ。大袈裟。でも……、そう言ってくれてありがと」


抱きしめられた感覚はないのに、ねくたーの優しい声色が詩香の心を暖かく灯した。その熱で発生した上昇気流に乗って心がふわふわと舞い上がりそうな気さえする。こんな自分でも少しでも誰かの役に立てているのだと思うとやはり嬉しい。


「じゃあレッスン頑張って! あとでディスコードでみんなに改めて話すから、レッスン終わったら教えてね」


「うん! おっけ!」


気恥しさで少しだけ早口になってしまった詩香の言葉に元気よく頷いたねくたーは、こちらに手を振りながらレッスンスタジオの中央へと走っていった。駆ける紫色の背中をぼんやりと目で追った後、スタジオの隅まで移動してからログアウトした。




音楽制作の作業を進めていたらあっという間にレッスンの終わりの時間になっていた。集中しすぎていたせいか、ディスコードで電話がかかってきた音に驚いてしまい危うくマウスを落としそうになる。着信相手は青斗になっていた。緑色の応答ボタンを押して電話に出る。


『詩香! こっちは終わったよ!』


「はーい! みんなももういるかな?」


そう言いながらグループ通話に続々と残りのメンバーも入ってくるのをパソコンで確認する。


「あれ、しおんは?」


『しおんはやることあるからって今日はレッスンにも来てなかったぜ。話はあとで俺からしておくから大丈夫』


確かに先程軽くログインした時にも姿を見かけなかった。用事があるのなら仕方ないので理希の言葉に甘えることにする。


「よろしくね。じゃあさっそくこれ見てほしい。今共有するから……。どう? 画面見えてる?」


画面共有モードにして自分のパソコン画面の映像を共有する。今自分のモニターにはクラウドファンディング用のサイトページが映し出されている。ちゃんと共有できていればみんなのパソコンやスマホでも見えているはずだ。


『見えてる見えてる! すごい、ほんとにこれしぃしぃが作ったの?』


桃葉から回答が返ってきたのでとりあえず共有には成功しているようだ。あまり使ったことのない機能だったのでちゃんと出来ているようで安心した。他の二人からも感嘆の声が聞こえてくる。


『本当にすごい。クラファンでよく見る画面だ……』


『詩香ちゃん、何でこんなの出来るんだ……』


「たまたま自分の得意分野だっただけだよ。仕事でウェブデザインやってるから……、って今はそれはいいの! リターンのとこ見てくれる?」


仕事の話をし始めたら脱線しそうな予感がしたので話をクラウドファンディングに戻す。リターンページの部分までスクロールし画面上に表示した。


『これ、リターンは次のライブの優先権?』


「そう。やっぱりtoeLのライブはファンの中でもチケットの争奪戦になりやすいから、支援金額に応じて優先的に振り分けたいと思ってる。後は、メンバーの練習や日常の裏話が聞ける動画のQRコードを特典で付けたりとか出来たらなって」


『なるほどな。チケットだけじゃなくて、その他の特典もつけられるってのは確かに理にかなってる。さすが詩香ちゃん、抜かりないねぇ』


『あ、じゃあじゃあ、VRCやってる支援者にはオリジナルTシャツの3Dモデルもつけるってのはどう? メンバーの手書きサイン付き! 的な!』


『いいじゃんそれ! 僕はそうだな、せっかくXRでのイベントだから、現実世界で見に来てくれる人にも何かお返し出来たらいいな。リアルTシャツも作る?』


『それだとリアルTシャツ欲しい人はVRCの方に来なくなるんじゃないか? ステッカーとか配布しやすいものをリアルもバーチャルも作るとかは?』


『なるべく現実版と仮想版で差は付けたくないかな? でもさっき桃葉が言ったTシャツの3Dモデルはアリだと思う。現実版の人でも、VRCをやり始めたら使えるように同じモデルデータをダウンロード出来るようにしよう。あとはアーカイブで見直せるように動画を作ったり……』


『いいねいいね!』


人を思いやるメンバーが集まっているおかげで、支援者に寄り添った形の色々なアイデアが次から次へと飛び出す。その後もしばらくリターンのネタがみんなの口から溢れ出し会話が弾んだ。自分には思いつかないような発想が他の人から手渡され、さらにそれを誰かがより良いものにブラッシュアップする。このメンバーで力を合わせて作り上げるプロジェクトは間違いなく完成度の高いものになるだろうと詩香は強く感じた。


「青斗にはもう一つ、お願いがあるんだ」


『ん? なになに』


今回のプロジェクトで一番大事な事項を青斗に告げる。これがうまくいかなければそもそもこのクラウドファンディングの話自体が成り立たなくなってしまう。


「活動者ページのところに、今回どうしてこのプロジェクトが立ち上がったのか、ということを書かなきゃいけない。えっと……、だから青斗には病気のことを公表してもらわないといけなくて、今まではメンバーにしか言ってなかったかもしれないけど、これからは全体に向けて発し……」


『当たり前だよ。今更隠そうなんて思わない。僕はこのメンバーで活動が続けられるなら、待ってくれている人達が喜んでくれるなら何だってするつもりだよ』


即答した青斗の声には凛とした重みがあって、詩香が不安に思っていたことはすぐに解消した。そして、その声に反応する他の二人の声もなんだか楽しそうだった。


『アオも強くなったなぁ。おじさん感慨深いわ。ちょっと前までぴーぴー泣いてたのになぁ』


『ねー、ほんとに。あの仔猫ちゃんの立派な成長ぶりに逆にあたしが泣きそう』


『ちょっと! 昔のことは言わなくていいから! 詩香も気にしないでね?』


「う、うん……」


昔のことを詮索するのは野暮だしもちろんそんな事はしない。でもきっとこの人達には昔にも乗り越えなきゃいけない何かしらの壁があって、その時もそれぞれの手をがっちりと掴んで落ちないように力を合わせながら登ってきたのだろう。結束力のルーツが垣間見えたような気がして詩香は自然と頬が緩んだ。


「それじゃ、今日の報告はこんなとこ! 色々詰めて来週にはページ公開したいって思ってる!」


『色々形になってきて実感湧いてきた! やる気もめちゃ湧いてきた!』


桃葉に釣られるように残りのメンバーからも決意の言葉が聞こえてきた。やはり実際にフィードバックを得られると手応えを感じることができる。詩香も絶対にこのプロジェクトを成功させてみせるという思いが一層高まった。


「あ、それと最後にちょっとだけ……」


ここからはもう一つのタスクの話だ。依頼のあった音楽についてひとまずたたき台としての枠組みが出来た。尺は3分で、『星』のメロディを採用したテンポ90のバラードナンバー。もちろん本格的な肉付けはこれからなのだが、曲の構成は決まったのでダンスの振りなど先に考えられる部分をメンバーにお願いしたいと思ったのだ。作成した音楽について話し、WAVデータを共有する。


『おー! バラードなんだ! 確かにtoeLでバラードやるの新鮮だしいいかもね!』


共有された曲を聴きながら青斗が答えた。正直狙ってバラードにした訳ではなくて、早いテンポの曲が作れなかっただけだ。『星』のメロディに引っ張られ、ほぼそのままそのメロディを採用した。ワンフレーズしかないメロディの続きを作るのが難しく、思い通りのメロディがなかなか浮かばなかったのだが、最近ようやく「まだマシ」と呼べるレベルのものが出来た。没案の数は両手には収まらなくなってしまったので途中から数えていない。


『あたしも好きだな、しぃしぃの世界。ゆったり気持ちよく踊れそう』


『俺ちょっと振り付け浮かんできたからさっそく作り始めるわ』


とりあえずは概ね好評のようで一安心する。でも自分の中では全然納得はいっていない。どうやっても原田さんが作った曲のようなキラキラ感は出せないし、リズムやコードが単調になってしまっていて、上手くは言えないのだが単純につまらないと感じてしまう。まだ曲の根幹部分だけで色々付け足していないとはいえ、この程度のものをtoeLの音楽として世に出す訳にはいかない。


「なんとか形にはなったんだけどさ、まだ全然ダメなんだよね。私の引き出しが少なすぎるというか、ゼロというか。なかなかこれは! っていうものが思いつかないの」


凝り固まった脳から吐き出される音の集合体とパターンはどんどん似たようなものだけになっていく。だからメンバーには聞きたいことがあった。例えばどのようなリズムなら踊りやすいのか。どのような曲の展開なら振りが映えるのか。toeLらしさを全面に押し出すためにはどうしたらいいのか。

みんなはどんな音を聴きたいのか。


『詩香、来週時間ある?』


詩香の質問への答えは来週の予定の確認だった。青斗には多分予感があったのだろう。toeLの音を作っていた原田さんの音楽を自分が聴けば、何かが変わるかもしれないということに。それが制作途中である音楽に対しての新たな発見なのか、詩香自身の過去に紐づく事象なのかは分からない。ただただ革命とも呼べる創新が起こる可能性を信じ、きっとこの言葉を繰り出したのだ。


『よるのちゃんの家に行こう』




♢♢♢




目的の駅で降車してスマホを取り出し、事前に桃葉から送られてきた住所を確認する。マップアプリを開いて経路を調べるとここから凡そ徒歩で10分くらいの位置にその家はあるようだった。右手でスマホを持ったまま、休日の東京メトロ車内の人混みに揉まれ軽い硬直状態になってしまった身体を伸ばしてから歩き始める。

青斗から原田さんの家という単語が出てきた時に、もしかしたら昔訪れたことがあるかもしれないと何故か思った。でも送られてきた住所も、東京メトロからの景色も、今歩いているこの道にも全く見覚えがなく単なる自分の思い過ごしだったようで詩香は肩を落とした。ただ、厄介なことにそれすらも自分が忘れているだけということも充分考えられる。曖昧な自分の記憶は大した判断材料にはならない。実際にその場所で五感をフル稼働させてこそ見えてくる事実もあるはずだ。

考えながら歩いているとやがて白色を基調とした住宅が見えてくる。目的地の建物の入口付近にいつもの三人の姿があった。綺麗めの真っ白なダッフルコートに身を包んだ桃葉がこちらに向かって手を振っている。


「遅くなってごめん。私が一番最後……ではなさそう」


振り返って今来た道を確認したり、周囲を見回してみたがまだ潮音の姿がない。遅れるとの連絡もディスコードのグループサーバにも届いていなかった。


「あー、しおんは今日も休みだよ。色々モデリング作業で忙しいって言ってた。そんな中、俺この前話で出たTシャツの3Dモデルも作れないかって追加でお願いしちゃってさ。今頃パソコンと格闘してると思うわ」


「えっ、しおんってモデリングできるんだ!」


新たな事実にまたもや驚いてしまった。オリジナルTシャツの3Dモデルは外部に委託しようと考えていたのでそれがメンバーで作成出来てしまうならその分の費用は他に回せる。願ってもいない情報だったが喜びも束の間、負担を押し付けてしまっていないか心配になる。詩香の不安そうな顔を見て理希が自らに巻き付けたマフラーを外しながら朗らかに言った。


「大丈夫だって! あいつ、モデリング作業が好きで、もともとVRCやってたのもそのためなんだよ。たまたま俺がパブリックワールドで見かけて、そこからダンスに勧誘したら見事にハマっちゃったってわけ」


「そうなんだ……。知らなかった……」


早くも今日二つ目の驚きの事実が判明してしまった。もともとダンスをやっていたわけではないのに、あんなに踊れるようになってしまうものなのか。VRダンスの文化は想像していたものよりも大きく、可能性に満ち溢れているのかもしれない。


「それにさ、人間得意不得意はあるもんで、それを補い合いながらこその人生だと俺は思うよ。詩香ちゃんがこの前作ったウェブページ、あれは俺らには作れない。アオだってイントラをずっと続けてこれからのVRダンスを担う人を育成してる。俺は俺でイベントの主催と交渉したり会場押さえたりとかの、まあ事務的なこと裏で結構やってんのよ。ねくちゃんだって……」


「あたしは……可愛い担当?」


「ほら、こういう人がグループに一人くらいいないと、なんつうか、こう……和まないだろ」


「ちょっと! なんであたしだけ無理やり絞り出したみたいになってんの! つっきーのお家に入れるのはあたしのおかげなんだから感謝してよね!」


「それ! 私ずっと気になってた! なんで入れるの? 許可とか大丈夫なの?」


どうして原田さんの家に集合なのか、どうしてその中に入れるのかずっと引っかかっていた。いくらメンバーだからといってそう簡単に入れてもらえるとは思えない。


「ふっふっふ。説明しよう! あ、寒いから中に入りながら話すね〜」


桃葉に背中を押され、理希と一緒に入口から中に入る。青斗だけが入口の前で立ち止まって、建物の上の方をずっと眺めていた。そういえば今日まだ一言も発していない。


「青斗?」


「……あ、ごめん。やっぱりここに来るとよるのちゃんのこと、色々考えちゃうんだ」


そう言って微笑む青斗の目はどこか寂しそうだった。一瞬だけ、昔に何があったのか聞いてみたい衝動に駆られたが、青斗の表情を見たらその気持ちはすぐに消えていった。


「……大丈夫?」


何が大丈夫なのか、どういう意味で聞いたのかは自分でもよく理解出来なかった。当たり障りないことしか言えない自分が歯痒い。


「大丈夫。僕にはみんながいるから。それによるのちゃんだってずっとここにいるんだ」


自らの心臓にそっと手を置いて青斗は目をつぶった。悲しげに見えた表情も次に目を開けた時には綺麗さっぱりなくなっている。


「僕達も行こう!」


この人達と固い絆で結ばれている原田さんはどんな人なのだろう。自分が本当に会ったことがあるのならどうして忘れてしまっているのだろう。だってこんないい人達と手を取り合う彼女もまた、優しい人に違いないのに。

考えても仕方がない。もしかしたら今日、何かが分かるかもしれない。早まる足を抑えつけ、青斗に並ぶ。少し先にいる桃葉と理希に向かって二人で歩き出した。



廊下を抜け玄関のドアを開ける。移動しながら桃葉がどうして原田さんの家に入れるようになったのか説明した。途中何ヶ所か桃葉の強引さが垣間見える瞬間があったが概ねまとめるとこうである。

以前から原田さんとリアルでも交流があり家にも行ったことがあった桃葉は、彼女が亡くなったあとも寂しさから何度もこの場所に足を運んでいたそうだ。もちろん家の中に入れる訳もなく、ただ建物の外観だけを眺めてから帰宅していたのだがある日偶然入口の前で原田さんの祖父と会ったらしい。親友との思い出の場所ということと、同じダンスグループのメンバーだということを告げると彼は喜んで話を聞いてくれた。原田さんの遺品を整理するために来たが、足腰が弱くこの家に頻繁に来るのも難しいという彼に、桃葉は代わりに片付けをするから家に自由に入らせてほしいと頼んだそうだ。いかに自分が原田さんのことを愛していたかを熱弁すると彼は泣きながら鍵を渡してくれて、そのまま連絡先も交換したとのことだ。


「で、今あたしは出入り自由ってわけ!」


リビングへのドアを開けた桃葉に続いて中に入る。説明された理由には半ば強引な部分もあった気がするが、桃葉が原田さんのことを想っていたその気持ちが、原田さんの祖父にきちんと伝わったのだろう。今は桃葉と一緒に他のメンバーも出入りしているがそこはちゃんと承諾を得ているそうなので安心した。

リビングには荷物が入った段ボールが部屋の隅にまとめて置かれていて、引越し前の寂しさのような雰囲気が漂っている。唯一部屋に残っていたのは小さなテーブルの上に置かれたモニターとその横に鎮座する黒いデスクトップPC、VRに接続するためのゴーグルとコントローラーのみだった。


「あたし達でほとんど片付けたんだけど、このパソコンとヘッドセットだけはまだ片付けられてないんだ。しばらくずっと置いてるの。つっきーのおじいちゃんが家賃肩代わりしてくれてるし、電気も水道もまだ通ってるよ」


パソコンの電源を入れながら桃葉が言った。勝手に起動するのはまずいんじゃないかと思ったが、それも許可を得ているから大丈夫だよ、と横から青斗が口を挟む。


「詩香には見て欲しいものがあるんだ。よるのちゃんの音楽編集プロジェクト。まだここに全部残ってる」


立ち上げられたお馴染みのプロジェクト画面には一曲分の波形データが映し出された。イヤホンを挿して曲を再生する。まるで夜空に向かって飛び出すように、煌くピアノの旋律が両耳を駆けていく。


「この曲……。はじめてtoeLのステージを見た時に聴いた曲だ……。原田さんの音、だ……」


心臓を揺らしながら血液を送る低音。随所に散りばめられたピアノのパッセージ。泣きながらでも希望を抱いて前に進めるようなシンセサイザーのメロディ。


「そう。『ブルームーンダンス』っていう、よるのちゃんが僕たちに作ってくれた曲だよ。他にも、僕たちも知らなかったよるのちゃんが過去に作ってきた曲がたくさん入ってる」


音楽用と題されたファイルには様々なプロジェクトや書き出された音源のデータがあった。四人用に編集されたバンドサウンド、和楽器を用いた自由を謳う楽曲、夜の海の音が優しいピアノバラード、冬の聖夜をイメージした秒針が響く悲しげなナンバー。どれもすぐに彼女が作った曲だと分かる。


「どうしてこんなに原田さんの曲は輝いているんだろう。私じゃやっぱりこの音を超えられない」


音作りのレベルの差はもちろんある。でもそれだけじゃない。圧倒的に違うものがきっとある。彼女にはあって、自分に足りないものがあるのだとしたら。その答えが喉の奥まで出てきているような気がするのに分からない。音楽を作ったり演奏する上で彼女が大切にしていたものが何なのかが分かれば、自分にもあの煌めく音が奏でられるかもしれない。そんな話を自分はいつかどこかで彼女から聴いた気がするのに。


「しぃしぃ。これ見て」


桃葉に指さされたファイルを開くと、その下の階層に二つのデータが表示された。一つは写真データだ。


「しぃしぃが知ってたメロディの楽譜だよ。でもこの書きかけの一枚しかなくて、あとの手がかりは何もないの。もう一つの方は多分編集プロジェクト。開こうとしたけど、パスコードロックがかかってて開けなかったんだ」


現れた『星』の楽譜は、あの日カフェで桃葉に見せてもらったものと同じものだった。拡大して見たが、やはりこの楽譜の記憶は一切ない。それなのにどうして楽譜のメロディを歌えるのかはやはり謎のままだ。


「その編集プロジェクトと写真だけ他のファイルより更新日時が古いんだ。よるのちゃんは前にVRバンドをやってた時に曲を初めて作ったって言ってた。でも、僕はその編集プロジェクトこそがよるのちゃんが本当に最初に作った曲だと思ってる。パスワードもよるのちゃんの誕生日とか、よるのちゃんのお母さんの誕生日とか、色々入れてみたけどどれも不正解だった」


三人の目が一度にこちらを捉えた。この中でファイルの更新日時より前に原田さんに出会っているのは自分しかいない。でももちろん見当などつかない。推測されやすい誕生日で開かないのなら打つ手はない。

だから自分の誕生日なんかで開くはずはないのだ。


試しに自分の誕生日を入れた。0126と打ち込まれた画面には『パスワードが違います』という文字が浮かんだ。自分でもこんなんで開くとは思っていなかったので驚きはしない。むしろこれで開いてしまった時の方がよほど恐ろしい。原田さんがパスワード文字列として選ぶくらいに大事なことなのに自分が忘れてしまっているのだから。


「詩香でもダメか〜。じゃあこれは本当に分からないね。意外とプロジェクト内には何も音がないとかもあるのかなあ」


「開いてみたら何もないとかはあるかもしれんね? データ的には重くなさそうだしな」


青斗と理希が言う通り確かにデータ自体は他のプロジェクトファイルと違って重くない。でも同じソフトウェアを使っているから分かる。このデータ量なら間違いなく何かしらの音の波形データが入っている。考えられるのは最初のワンコーラス部分だけとか、プロジェクトを開いて最初に打ち込んだメロディやリズムのみの単一パート。


「とりあえずここに入ってるプロジェクトとか曲とかコピーして詩香が持ってていいよ。曲作りのときに参考になると思うんだ。パスがかかったやつもパスワードさえわかれば詩香の画面でも開けると思うから」


「うん、ありが……」


さっきの青斗の話には、喉の奥に魚の小骨が刺さったみたいに腑に落ちない部分があった。原田さんの中で初めて作った曲としてあのロックがかかった編集プロジェクトがカウントされていないのはどうしてなのか。データの容量的にあのプロジェクトの曲は完成されていない可能性が高い。彼女が曲を完成させたことをもって「曲を作った」と表現するならば、なぜ一番最初のプロジェクトであるはずの曲が完成していないのか。作る途中で没にしたという考えも脳裏をよぎった。しかしそれなら自分のように数あるうちの没案として埋もれていくのが筋だ。なぜパスワードまでつけて保存している必要がある?


完成させたくてもできなかった理由があるのだとしたら。完成させようと思えば出来たのに、。この曲に対して、自己だけではどうしようもできない、他人が介在する理由が絡むのだとしたら。


そんな、約束を、どこかで。



「しぃしぃ……?」


「約束……」


よろけながら立ち上がる。約束。自分は何を言っているのだろうか。彼女の顔も声も水彩絵の具で塗りつぶされているように靄がかかって思い出せないのに、その口から紡がれた言葉だけが心の奥から顔を覗かせる。


" 音楽は、一緒にやるとたのしいんだよ! "


そうだ。はっきりとそう言われた。そのとき自分はたしかに差し出された彼女の手を握り返したはずだ。それは同意を示す合図。彼女の提案に乗ったという証拠。それなら自分は彼女と一緒に音楽をやっていたのではないのか。自分の人生の中に音楽が携わっているなんて考えたこともなかった。

いや、違う。考えないようにしていただけだ。お得意の見て見ぬふりで思考すること自体を自分の中から排斥していたのだろう。でも散らばったパズルのピースは一つはまってしまえば連鎖して次から次へと空白を埋めていく。だって自分は楽譜が読める。彼女が過去に作った曲のメロディを知っている。一緒に音楽をやろうと言った彼女の手を取った。

一緒にピアノを奏でた。

約束を、した。


「私、原田さんの隣でピアノを弾いてた……? いや、間違いなく弾いてた! 私は過去にピアノを……」


立ち尽くしたまま首を少し左前方へ向ける。リビングと繋がった四畳半の部屋のドアはうっすら開いていて、視界の先に電子ピアノが見えた。壁に向かって配置された電子ピアノの蓋部分はよく手入れされており埃一つ被っていない。桃葉が定期的にメンテナンスし続けてくれているのだとすぐに分かった。


「パソコンも元々あっちの部屋にあったの。お部屋掃除するときに移動しちゃったけど。でもピアノはそのまま同じ場所に置いてあるんだ。まだあたしはあのピアノを弾くつっきーの後ろ姿をよく覚えてる」


吸い込まれるようにピアノへと足が勝手に動いた。自分が本当にピアノが弾けるのかどうか。分からないなら試せばいいだけだ。それを証明できる絶好の機会が目の前にある。真実を明るみにする方法はこの場で弾いてみる以外ない。

心臓がずっとどくどくと脈を乱し続ける。指先の神経が過敏になり触れる空気すらその指を焦がす。足が震えて前にうまく進めない。ずっと忘れていた過去との対峙に身体のあちこちから悲鳴が上がる。緊張や不安といった感情が膨れ上がって視界がどんどん黒く染まっていく。


ピアノの蓋をゆっくりと持ち上げた。白と黒の鍵盤が当たり前にそこにはあった。


どうしてこんなに身体が危険信号を出しているのかが分かった。


ピアノに触るという行為そのものに潜在的恐怖を感じるからだ。


だから無意識のうちにピアノを遠ざけ記憶の片隅へと追いやった。


間違ってピアノに触れてしまい過去を思い出さないように。


忘れたくなかったのに忘れなければ自らを保てなくなるほどの過去から自分を守るために。


白と黒の鍵盤が、ぼろぼろの歯で不気味に笑うおぞましい何かに見えた。


「い、いや……、こないで」


気が付けばメンバーの姿はどこにも見当たらなくて、真っ黒な空間に自分と不気味な何かがあるだけだった。虫歯で穴が空いたような歯をカチカチと鳴らしながらそれは近づいてくる。ゆっくりゆっくりとこちらに向かって直進し、少しずつ距離が狭まっていく。逃げ出そうにも真っ黒な壁と目に見えない道に邪魔されて動くことができない。やがて足が渦に飲み込まれる。底なし沼に絡め取られた身体がどんどん沈んでいく。決してこの場所から逃さないと嘲笑しているように見える。

全てが不快で何もかもに恐怖を感じた。身体を撫でる感触も纏わりつく黒い空気も歯を鳴らす音も、そのどれもが的確に精神を抉り取ってくる。


「こないでえええぇええええ!」


叫んだ声はブラックホールのような空間に飲み込まれた。声も何も届かない空間と同化して蠢く歯との間がまた一歩縮まる。目をつぶって下を向く。まだ沈んでいない両手を耳に当てて音を遮断する。見ないように、聞かないようにしてきた過去が無理やり掘り起こされる。頭に直接流し込まれる過去に対抗するように叫んだ。


「来るなって言ったのはそっちでしょ! なんで今更出てくるの! 来ないで! 近付かないで! 私を置いて勝手にいなくなったくせに! 私から全てを奪ったくせに!」


溢れる言葉が黒い血液となってどろどろと身体を這いながら地面の黒と混ざる。


「何が音楽が楽しいだよ! 結局なにも! なーーーんにも楽しくなかったじゃん! 嘘つき嘘つき嘘つき! 本当にピアノが楽しいなら! 本当に音楽が楽しいなら!」


黒い記憶にぐちゃぐちゃに塗りつぶされていき、やがて声すら出せなくなった。呼吸も何も出来ないまま意識が黒色に溶けていくのを黙って待っていることしかできなかった。身体の全てが沈みこんで見えた底なし沼の先には何もなかった。黒色の無の空間。そこに浮かんでいたのは自分と、その黒色までも塗りつぶしてしまうくらいの漆黒の黒髪を持った小さな女の子。


その女の子を知っている。だって自分があんなに邪険にして、勝てないことにイライラして、どうしようもなく憧れた女の子だ。

その顔を忘れるわけがない。

あの頃は彼女は私の全てで、一緒に過ごしている時間は宝物だったんだ。



だから、聞かせて欲しい。


本当に音楽が楽しいなら、

なんであなたは最後にあんな顔をしていたの。


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