第2話 海の化け物
翌朝、甲高い悲鳴で叩き起こされた。
「健一! 大変だ! 瑞祥丸が……瑞祥丸が動いている!」
父の声だ。飛び起きて窓を開けると、港に沈んでいたはずの廃船が、朝日を浴びながら沖へ向かっていた。
――誰も乗っていない。そう見えた。
だが目を凝らすと、甲板に奇怪なものが揺らめいていた。人影のようでいて、人の形をしていない。半透明の水膜が陽光を反射し、虹色に滲んでは、また溶けていく。生臭さに混じる甘ったるい腐敗臭が風に乗って鼻を突き、耳には布を擦るようなザラついた音、さらに海底から響く低い唸りが重なってきた。
「……あれは……なんだ」
声にならぬ声が漏れる。背中に冷たい汗が伝った。
横で父が呻いた。顔色は死人のように蒼白だ。
「……漁師たちの船魂を喰らった……海の化け物だ」
その言葉に、集まった町の者たちがざわめいた。
年老いた漁師は目を閉じて祈り、若い衆の一人は声を裏返しながら叫んだ。
「ば、馬鹿な……ただの廃船じゃないのか!」
「いや、動いてるだろうが!」
「誰も乗ってねえのに……」
恐怖と不信が入り混じり、港は不気味なざわめきに包まれた。
「船魂……」
俺は呟いた。意味を問おうとしたが、父が先に答える。
「やつらは魂を喰らって、力を増すんだ……この町の漁師は、何人も海に呑まれた。だが……その行方は決して浮かび上がらなかった」
脳裏に、漁から戻らなかった者たちの顔が次々と浮かぶ。笑っていたはずの顔が、恐怖に歪んで沈んでいく――。胸が締めつけられた。
その夜。
沖合に、ありえないほど巨大な渦潮が現れた。月光を反射する海が裂け、轟音とともに瑞祥丸が渦の中心へ吸い込まれていく。
「やめろ……!」
叫んだところで止まるはずもない。
そして、渦の底から――現れた。
それはタコのような頭部を持つ、巨体の異形。ぬめりと蠢く触腕が海を裂き、夜空へと伸び上がる。
神々しくもおぞましい姿に、町の誰もが声を失った。
――海の神。いや、災厄そのもの。
俺の背筋を氷の刃がなぞる。
この町は、喰われる。確実に。
次回 第3話「忌まわしい儀式の終焉」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます