クトゥルフ短編集02 港町の宮司
NOFKI&NOFU
第1話 龍宮神社の宮司
潮の匂いは、子供の頃から変わらない。だが、港町そのものは変わり果ててしまった。1980年代に栄えたこの港も、今や過疎化と不漁に蝕まれ、ひっそりとした空虚の中に沈んでいる。
――俺の名前は健一。
東京で働きながらも、年に数度は生まれ育った港へ戻ってくる。理由は一つ、父が宮司を務める「龍宮神社」の手伝いのためだ。
神社は海神を祀り、漁に出る者には船魂守を授けてきた。だが参拝客も漁師も減り、今では往時の面影はほとんどない。
「……今年もありがとうな。健一が手伝ってくれると、本当に助かるよ」
社務所で古びた帳面を閉じながら、父はかすかに笑った。
その手は、祝詞を奏上する時に震えていた。背中もやけに小さく見える。
――父さん……俺がもっとしっかりしなきゃ。
「気にするなよ、親父。これも俺の務めだ」
そう返すと、父は「はは、務めか」と呟き、どこか遠い目をした。
その夜。
久しぶりに港を歩いた。潮風が刺すように冷たい。停泊している船は数隻。だが、その中にひときわ異様な船影があった。
――瑞祥丸。
子供の頃から変わらずそこにある廃船だ。錆びついた鉄板も朽ちた木材も、そのまま時間に閉じ込められたように、ずっと港に浮かび続けている。
廃船のはずなのに、なぜ沈まない? なぜ消えない?
「あれは……」
思わず呟いた時。背後から声が落ちてきた。
「瑞祥丸か? あの船はな……誰も乗ってないのに、たまに沖へ出ていくんだ」
振り返ると、漁師仲間の慎吾が立っていた。幼なじみだ。
「――慎吾! 久しぶりだな」
「ああ、元気そうじゃねえか。東京でバリバリやってんだろ?」
「まあな。けど……お前、あんな不吉な船の近くにいて大丈夫かよ」
冗談めかして言ったつもりだった。だが慎吾は真顔でタバコに火をつけ、しばらく黙って煙を吐いた。
「不吉……そうかもな。だがな健一、あの船を『守り船』だと信じてる漁師もいるんだ」
「守り船?」
「ああ。去年、うちの船が壊れて廃業寸前だったんだ。けど……瑞祥丸が沖に出た翌日は、必ず大漁なんだよ」
慎吾の声は淡々としていたが、その瞳はどこか虚ろだった。
まるで、別のものに見透かされているような……人ではない何かに。
俺は背筋が冷えるのを感じた。
――あの船が、守っている? いや、それは本当に「守り」なのか?
その夜、布団に潜り込んでも、潮騒の中にかすかに聞こえる声が耳から離れなかった。
低く、深く、海底から囁くような――人の声ではない響き。
やがて瞼が重くなる直前、俺ははっきりと見た。
――闇の海を漂う瑞祥丸の甲板に、得体の知れぬ影が、ゆっくりと立ち上がるのを。
次の朝、俺は父から思いもよらぬ言葉を聞くことになる。
「健一……『瑞祥丸の御祀り』を、そろそろ継いでほしい」
次回 第2話「海の化け物」
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