第3話 忌まわしい儀式の終焉
父は俺の腕を掴み、膝から崩れ落ちた。
「……あれは、海神様じゃない……」
震える声は祈りにも似て、だが絶望そのものだった。
「この町は……もう終わりだ……」
俺は父を抱え起こし、歯を食いしばった。
「終わりにさせるもんか!」
龍宮神社の境内には、すでに住民たちが集まっていた。泣き声と怒号と祈りが渦巻く。沖を指差して叫ぶ者の目は狂気じみている。
「見ろ! 防波堤が……!」
「逃げろ! 触手が来るぞ!」
その混乱の中に、慎吾の姿があった。
「慎吾! 一体何なんだよ、あれは!」
駆け寄った俺を見て、慎吾は虚ろな目をした。
「健一……あれは……俺たちが……」
彼は頭を抱え、呻きながら地面に転がった。まるで何者かに脳をかき回されているようだった。
その瞬間、海の化け物は触手で防波堤を掴み、まるで玩具のようにへし折った。
港が崩れ、人々は蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。だが、触手は彼らを狙い撃つように伸び、次々と捕らえていく。
「健一! これを持て!」
父が差し出したのは、古びた巻物だった。
「これは……?」
「瑞祥丸に船魂を授ける時に使った祈りの言葉だ……だが、これは鎮めるものではない」
父は顔を歪めた。
「神を……呼び出すためのものだ」
俺は巻物を開いた。そこに刻まれた文言は、人の言葉とは到底思えない。
「潮ノ宮」「還ラズ」「神ヲ縛ル」
意味を結ばぬ単語が並び、理解できぬからこそ脳を侵蝕する。
「どういうことだ、親父!」
「……ご先祖は飢饉に苦しみ、魂を差し出す代わりに豊穣を約束させた。その契約の船が、瑞祥丸だ。漁があるのは贄の対価……船魂守は“獲物の印”なんだ」
胸がざわめき、胃の底が冷たくなる。
――じゃあ、俺たちはずっと化け物に魂を食わせて生きてきたってのか。
俺は神刀を祭壇から抜き取った。錆びてなお、刃には重い光が宿っている。
「親父……俺が行く。この儀式を終わらせる」
「健一……やめろ!」
制止を振り切り、俺は港へ走った。
化け物はすでに町の半ばを覆い尽くしていた。触手が唸りを上げて振り下ろされる。俺はその一本に飛び乗り、ぬめる表皮を掴んでしがみついた。
異形の巨体の頭部には、無数の眼が蠢いていた。その一つが俺を捕捉する。
「グオオオオオオ!」
咆哮と共に触手が暴れ、俺の体は宙を舞う。必死に張りつき、神刀を握り直した。
――怖い。死にたくない。だが……
怒りが恐怖をかき消す。
「てめぇなんかに、この町は渡さねえ!」
叫んで俺は神刀を突き立てた。
「ギャアアアアアアアアッ!」
化け物は悲鳴を上げ、崩れかけた海そのものが震えた。だが同時に、触手が俺の体に絡みつき、溶けるように肉へと入り込んでくる。
骨の奥が軋み、血が反転する。意識に、海の底の暗黒が流れ込んだ。
『……来るがよい、我が子よ……』
脳裏に直接、甘美な囁きが響く。抗えぬほどに優しい声で。
「俺は……お前の子じゃねえ!」
残る力を振り絞り、さらに刃を突き立てた。
海は再び渦を巻き、化け物の巨体を閉ざすように飲み込んだ。
――退いた。
だが、俺の皮膚にはまだ、異形の痕が刻まれている。
うねり、蠢き、血肉と混じって。
崩れ落ちる意識の底で、かすかに父の声を聞いた。
「健一……! お前……その腕が……」
次回 第4話「海に還る魂」
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