第9話

「ここにいたんだね」

 瀬川の声が聞こえて、俺は俯いたまま、視線だけを上へ向けた。

「隼人が光琴君に連絡しても全然応答がないってボヤいてたから、まさかと思って来てみたんだけど……これは来てみて、正解だったかな?」

「……良く場所が分かったな」

 と言っても、もしかすると大分探してくれたのかもしれない。瀬川が入ってきた幕の隙間に見える外の様子から、そんなことを考える。外は、もう真っ暗だった。

「虫の知らせって奴だよ。もしかしたら、鷹兄が教えてくれたのかも」

「鷹兄……鷹志は、あれからどうなった?」

「亡くなったよ」

 ごくごく自然な調子で、瀬川が言う。思わず、顔を上げてしまった。

「今日のお昼過ぎにね。心配しなくても、穏やかな死に際だったよ。昨日ここで眠ってからそのまま。本当に、眠るように……それで、明日がお通夜になったから、それを伝えようと思って隼人が。りんりんには、私が電話したの。でも、二人とも出なかったから」

 言いながら、瀬川は隣の席に腰を下ろす。

「それで? りんりんと、喧嘩でもした?」

「……」

 黙って首を振る。鷹志を亡くして悲しみの只中にいるだろう瀬川に、このどうしようもない真実を打ち明けるなんてことは、とてもじゃないが、出来なかった。

「そっか……」

 すると瀬川は、そんな俺を見つめて困ったような顔をすると、天井を見ながら、足をブラブラさせて言う。

「私は、あんまり二人の事情について詳しく知らないからさ。正直、光琴君が何に悩んでるかもよく分からないんだよね」

普段と変わらないその声は、やはり先ほどまでと同じように、悲嘆に暮れた女の子のものではなくて……

「でもねー―」

 その調子のまま、瀬川は更に、言葉を続けた。

「ただ一つだけ言えるのは、この一ヶ月間のりんりんは、この四年間で私が見てきたりんりんとは、まるで別人だったってことだよ」

 瀬川が俺を見た。その目はキラキラと輝いている。

「りんりんの真っ暗な世界に色がついた。光が差した。それは他の誰でもない、光琴君だから出来たこと。そうでしょう?」

 その光に当てられて、気付くと俺は、口を滑らしていた。

「でも、その光を……色を奪ったのが、そもそも俺たちなんだ」

 言葉にすると、一気に感情が膨れ上がる。そう――それが、俺たちの罪なのだ。

 彼女から大切な人を奪っておきながら。彼女の光を閉ざしておきながら。そして……

彼女に熾烈な運命を課した張本人が、一体どんな顔をして、彼女と一緒に幸福になりたいなんて世迷言を口にできるだろうか? 幸せになる方法を一緒に探そうなんて、厚顔無恥なことを言えるだろうか?

(つまり……)

凛は俺に『もっと相応しい相手がいる』と言った。でも、それは違う。逆だったのだ。

 彼女から名前と、幸福と、過去と未来を奪った俺は、世界中の誰よりも――


〝彼女にとって、相応しくない〟


「本当に……そう思うか?」

 だが、声がした。粗野で、粗雑な口調。でも、その声は絹のように柔らかい。

 まるで天空から降ってきたようなその声に……俺は、我が目を疑う。

「……瀬川?」

 そう。その声の主は、瀬川だった。

 考えてみれば当たり前だ。この場には、俺と瀬川しかいないのだから。

 でも……どうしてだろう? 俺には一瞬、そこに鷹志が見えたのだ。

 死ぬ間際まで凛のことを気に掛けていた、あのお節介の笑い顔が。

「何があったかなんて分からない。二人の過去を俺は知らない。でも、もし東雲の光を奪ったのが、おまえなら――」

 そして、瀬川が言う。いつもと同じ、彼女の声で。でもいつもよりずっと力強い、その声で。

「その光よりもっと強い光で、東雲を照らせ。闇が消えてなくなるくらい、強く強く、東雲を照らせ」

 いつもの、ほんわかとした空気はそこにはない。彼女らしい優しさは、もう見えない。

 けれど……その声は、今まで聞いたどんな声よりも、優しく俺を包み込んで――

「今それが出来るのは、世界中で、きっと光琴君しかいないって思うから」

 瀬川の顔に笑顔が浮かんだ。更には、それがまるで合図だったかのように、彼女の口調が、雰囲気が、いつも通りに戻っていく。悪戯っぽく微笑んだ瀬川が、

「それに、それが男の甲斐性ってやつなんじゃないかな?」

 と、可愛らしくウインクをしてみせた。目を白黒させて、そんな瀬川を見つめる。

「ビックリした……まるで、鷹志が乗り移ったみたいだったよ」

 瀬川は、ニコッと人懐っこい笑みを浮かべた。

「実は、ちょっと鷹兄の真似をしてみました。私じゃ、なんて声を掛けて良いか分からなかったからさ。鷹兄なら、きっと助けてくれる思ったしね」

「今……鷹志は忙しいんだろ?」

 なにせ明日のお通夜と、明後日の告別式。その両方の主役を張っているのだ。

「自分のことよりも他人を優先する。それが、鷹兄だから」

 だが、瀬川は当然のようにそう答えて……真面目な顔で、首を傾げる。

「光琴君はどっち? りんりんを傷つけたくないの? それとも、自分が傷つきたくないの?」

 口調は優しいが、厳しい問いかけだった。

「……分からない」

 凛を傷つけたくない気持ちは勿論ある。ただ、自分が傷つきたくないという気持ちを完全に否定できるのか……俺には、そんな自信は無かった。

「じゃあさ――」

 でも、それで終わらない。まるで、俺の答えを予想していたかのように。

「光琴君は、りんりんを傷つけたくないの? それとも、幸せにしたいの?」

 もう一つの問いを、俺に向かって突き付けた。そして――

「もし傷つけたくないのなら、多分このまま二人は離れた方が良いんだと思う。でも、もし幸せにしたいのなら――」

 繰り返す。鷹志を真似して紡いだ言葉を、改めて。

「りんりんのこと、照らさなきゃ。今までの不幸が帳消しになるくらい、強く強く、照らさなきゃ。それをするのに、光琴君以上に相応しい人、私は他にいないと思うよ?」

「…………」

 言葉を失う。

『彼女に俺は相応しくない』――そんな思いを、それは真っ向から否定する言葉だったから。

「どうして……そう思うんだ?」

 だから聞いていた。聞かないではいられなかった。俺は凛と……一緒にいて良いのだろうか?

「世界中に、光琴君しかいないからだよ」

自信がない俺とは対照的に、瀬川の答えは早く、そして確信に満ちていた。

「りんりんの世界から光が消えた理由を知っていて。でもりんりんの世界に光を灯せる人。そんな人は、世界中探したって、光琴君だけなんだから」

 何も事情を知らないと言いながら、疑いもなくそう言い切る。その強い確信波動は、あらゆる障壁を乗り越え、俺の心に伝播して……

「……灯せるかな?」

「灯せるなら、灯したい? もしそれで、自分が傷つくとしても」

 前を向くと、瀬川の力強い瞳があった。その視線に射抜かれて、揺れていた俺の心が、ゆっくりと落ち着きを取り戻していく。自分の願いを、ただ静かに自覚する。

「あぁ」

だから、たった一言。けれど、強い意志をそこに込めて。瀬川に言葉を返した。

そして、立ち上がる。

「瀬川、ありがとう。お陰で、大事なことを思い出せた」

「気にしないで。二人は私の、大切なお友達だから」

 瀬川が笑う。その笑顔が、もう一度、鷹志の笑顔と重なった。

「はい、これ。悪用しちゃ駄目だよ?」

 すると、その笑顔の向こうから、一枚のメモが差し出された。そこには几帳面な字で、一つの住所が記載されている。

「りんりんの家。まずはそこに行ってみなよ。この時間なら、帰ってるかもしれないからさ」

「……あぁ。助かる」

 あまりに用意周到な手際に少しだけ驚きながら、メモを受け取る。

「じゃあ、行ってくる」

「うん。いってらっしゃい」

 俺は、ドームの外に出た。


 一度家に帰り、バイクでメモにある住所へと向かう。

 凛の家は、見た目はごく平凡な一軒家だった。花壇を作る程度の庭はあっても、走り回るほどの広さはない。太陽光パネルは付いていても、三階はない。そんな感じの洋式の家。

 幸い灯りは点いていて、少なくとも、中に人はいるようだった。

 俺は玄関の前に立って、一度深呼吸する。もしかすると、凛が出てくるかもしれない。そう思うと、どうしたって緊張した。インターホンを押す手が、少しだけ震える。でも……当然、ここまで来て引く気はない。俺はインターホンに手を伸ばした。

 ――ガチャッ

 しかし、伸ばした手がインターホンに届くよりも前に、予期していない音が闇夜に響いて、俺の身体はそこで止まる。

 目の前には、ドアノブを持ったまま驚いた顔で俺を見る、初老の男性の姿があった。

「あの……もしかして、凛さんのお義父さんですか?」

 咄嗟にそう尋ねる。するとその初老の男性は「えぇ、そうです」と戸惑いがちに頷いた。

 俺は、改めて深呼吸をして覚悟を決めると、父親に頭を下げる。

「こんばんは。私は凛さんの友人の瀬名光琴と申します。凛さんと、どうしても話したいことがあって来たのですが……」

「あの子の……友達ですか?」

 それを聞いた父親の顔に、驚きの色が浮かぶ。まさか凛に、自宅を訪ねて来るような友人がいるとは、思っていなかったのだろう。

「はい。同じクラスで、同じ部活で……それより、凛さんはご在宅でしょうか?」

 そう尋ねる。すると……父親の目が泳いだ。

「あぁ……凛ですか……あの子は……」

 歯切れ悪く言い淀み、『どう返事をしたものか』と、迷っているような仕草をする。

 脳裏を、嫌な予想が過った。

「もしかして……まだ帰っていないのですか?」

 弱り切った顔の父親が、躊躇いがちに頷いた。

「実は……帰ってはいるようなのですが、またどこかに出掛けたみたいで。リビングの机の上に不思議な手紙が置いてあったものですから……私も不安になって、今から探しに行くところだったんです」

「手紙……ですか? それはどんな内容の?」

 尋ねる。しかし、父親は首を振った。

「いえ……身内の問題ですから」

 それだけ言うと、父親は強張った顔を背け、俺の脇をすり抜けた。でも、そのまま行かせるわけにはいかない。素早くその腕を掴み、父親の動きを止めた。

「何を……私は急いでいるんだ」

 僅かな怒りを滲ませた表情で、父親が俺の行動を咎める。しかしその言葉を無視して、父親に再度お願いした。

「凛さんの手紙を見せて下さい。彼女の居場所のヒントになるかもしれない」

「だからそれは身内の問題だと……そもそも部外者の君に見せて良いようなものじゃ――」

「部外者じゃありません。俺は彼女の過去も、病気のことも知っていますから」

「……なに?」

 その言葉で、父親の動きが止まった。

「あの子は、話したのか? 記憶障害のことを。過去の事件のことを」

「はい。それに俺は、その事件の関係者でもあります。だからこそ、俺は彼女に今会わなければいけないんです」

「……一体、どういうことだね?」

 動きを止めた父親が、困惑した様子でそう尋ねる。俺の言葉をどう受け取るべきなのか分からないのだろう。だから俺は、更に言葉を重ねて説明しようと口を開く。

でも……言葉が出てくるより前に、もう一つ別の声が、俺たちの間に割って入った。

「お父さん。まずは家に入って貰いましょう。この方とは、きちんとお話した方が良い。そう思うんです」

 それは、家の中からこちらの様子を窺っていた母親の言葉だった。そして父親にとって、そんな母親の行動は意外だったのだろう。呆気に取られた表情で目を見張ったが、

「……母さんが、そう言うなら……」

 と、戸惑いながらも、家の中へと招き入れてくれた。


「そういうことだったの……」

 俺の話を聞いて、母親は怒るでもなく、ただ静かにそう呟いた。

「申し訳ありませんでした」

 だから、自分からそう二人に頭を下げた。この八年間、この夫婦がどれだけ苦しんだのか。それを、凛に聞いていたから。

 しかし母親は、そんな俺の肩にそっと手を置くと、優しく微笑んだ。

「よしてください。あの事件は、あなたのせいじゃないってことは良く知っています。あなたが、そんなに責任を感じることじゃありませんよ」

「ですが……」

「それにあの子だって。本当はそんなこと、分かっている筈なんです。でも……簡単には気持ちの整理がつかないんでしょう。あの事件は、凛にとってはとても辛い経験で、今も尚、その影響を引き摺っている。それは、事実なんですから……」

「……はい」

 胸の痛みを覚えながら頷く。すると今度は、ずっと黙って話を聞いていた父親が口を開いた。

「でもそれでも君は……凛に会いに行くつもりなのかい?」

 それは穏やかな口調だった。しかし、まるで何かを推し量るように、俺の顔をじっと見つめるその表情には、その口調が語る以上に、様々な思いが隠されている気がしてならない。

 もしかすると「あの子を不幸にした張本人が、どんな面をして会いに行くのか」と、責める気持ちが膨れ上がっているのかもしれない。あるいは、「若気の至りで 性急な行動をするべきじゃない」と、諌める気持ちが優っているのかもしれない。

 いずれにせよ、その奥に隠されている思いは、俺を肯定するものでないことは明白で。

 でもだからこそ、決して目を逸らさずに、真正面から父親の目を見返した。

 何故なら、もう引く気なんてなかったから。何を思われても、何を言われても、二度と逃げたりしない。心の内から湧き上がるこの声から、目を逸らしたりしない。だって、それが俺の紛れもない、そして、どうしようもない本心だから。そう、俺は――

「はい。彼女を幸せにしたいから」

 ただ、そう願っているだけなのだ。


 その言葉の直後、俺を見つめる父親の表情に変化が現れた。潜んでいた様々な感情の色は次々と鳴りを潜め、たった一つの感情だけがそこに残る。それは意外なことに、怒気でも、軽蔑でも、憎悪でもなく。あるいは喜色でも、尊重でも、厚情でもなく……そこに残ったのは、何かへの後悔を示唆した、寂寥の表情だった。

「純粋で……向こう見ずだな。それが……若さということなのかもしれないが」

 寂しげな表情のまま目を細めて、どこか遠くを見つめた父親が、誰ともなしにそう呟く。

「思えば、私たちがそれを失っていたのが、一番の問題だったのかもしれないな」

 そして、俺へと視線を向けた父親は、こう続けた。

「幸せがあの子を不幸にする。それを知った私たちは、あの子を幸福にすることを諦めた。たとえ笑えなくなっても、ただ泣きじゃくる人生よりは、そちらの方が余程良いと思えたからだ。だが今から振り返ると、その選択は間違っていたのかもしれない」

 父親は、隣の母親を見る。

「何があってもあの子を幸せにしよう。そう思い続けていたら、少しは今の未来を変えることが出来ていただろうか?」

 父親の問いかけに、母親は静かに首を振った。

「分かりません。それに私たちは、もう八年間もそうやって過ごしてきてしまいました。今更、その時間は元に戻りません」

「……そうだな。本当に、その通りだ」

 父親が、少しだけ苦しそうな表情で頷く。

「でも……」

 しかしそんな父親に、母親が優しく微笑みかけた。

「何も出来ない訳じゃありませんよ」

「……あぁ」

 すると今度は、父親もそう答えて笑みを返す。そして――

「あの子の幸福を祈るくらいは」「あの子の幸せを願うくらいは」

 声を合わせて、顔を見合わせて、二人は共に、頷き合う。

「「私たちにも、出来る筈だから」」 


 東雲家を辞した俺は、凛が残した手紙を片手に握りしめて空を仰ぎ見た。その手紙には、ここまで育ててくれた両親に対する感謝と謝罪が綴られていた。そして文末には、こんな文章も。

「大嫌いな私から、大嫌いなあなたへ。今日は星が見えないわね。雲が晴れれば、少しは見えたりするかしら?」

 恐らく、俺に宛てて残したものだろう。だがその意図はさっぱり分からない。

 確かに、今日は星が見えない。空一面を厚い雲が覆って、地上には月の光すら射していない。しかし、それをわざわざ手紙で俺に伝えて、一体どうしようと言うのだろうか? 

 もう一度、手紙の文面に目を走らせる。何の根拠も無かったが、この文章は、俺に対する凛の最後のメッセージであり、そして、SOSのような気がしたから。


***


「やっぱり、ここでも雲が晴れたりはしないわね」

 寝転がって夜空を見上げながら、凛は諦めたようにそう呟いた。

 ここに着いてから、もう三十分はこうして空を見上げているが、一向に雲が晴れる気配はなく、むしろ益々濃くなっている気さえする。

「……まぁ別に良いんだけど」

 凛は立ち上がる。終の場所にここを選んだ理由は、何となく「星を見ながら逝けたら素敵だな」と思ったからだが、良く考えてみると、その考え自体に光琴の影響が潜んでいるような気がして面白くない。昔の凛ならば、星を見ても素敵だなんて間違いなく思わなかっただろうし、仮に思ったとしても、そんな素敵な場所を死に場所に選ぶことは、まず無かっただろう。

「だからやっぱり……私は死ぬしかないのよね」

 改めて、再確認する。自分にはもうその道しか残されていないのだと。むしろ一度そう考えてしまうと、何で今までこの道を選ばなかったのか疑問にすら思う。恐らく、死を選択するほどの意志すら、当時の凛には無かったのだろう。

 死に方は決めていた。この廃キャンプ場に併設された広場にある唯一の桜の木。木登りしやすそうな適度な位置に枝が生えていて、かつ高さも十分にある。首を吊るには、もってこいの場所だ。それに、梶井基次郎(かじいもとじろう)の『桜の樹の下には』では、土中に埋められた死体の存在が示唆されているが、それならその枝に死体が生えていたって、良いに決まっている。死体を養分として美しく成長した桜は、その色香で次なる死体を引き寄せるのだ。

 ……なんて。屁理屈にもならない〝とんでも理論〟を頭の中で捻り出した凛は、その馬鹿さ加減にひとしきり嗤ったところで、先程ここに来た時にその辺に転がしておいたリュックを手元に引き寄せた。

 チャックを開け、中を見る。本来であれば、その中には寝袋やら防寒着やらの登山用具が入っているのだが、今日は何も持ってきていない。あるのは茶色く無骨な一本のロープだけ――


 プルルル……プルルル……


 いや、違った。スマホも持ってきていたんだった。もう使うことは無いから、適当にリュックの中に放り込んでいたのだが……今、そのスマホが喧しく音を発している。

「……おかしいわね。ここって、電波繋がったかしら?」

 凛は首を傾げる。昔――キャンプ場がまだ稼働している時に、繋がりにくい電波環境を改善するため、基地局を作ろうとしているという噂を聞いたことがあった。しかし、その後すぐにキャンプ場は閉鎖され、その計画も凍結された筈だ。それに、凛はそれ以降何度もここを利用しているが、一度だってスマホに電波が届いた記憶はない。

 不審に思いながらも、凛はスマホを手に取って、その通知画面を見る。

するとそこには――『瀬名光琴』の文字。

 ドクンと、心臓が震える。

(何故彼が? このタイミングで?)

 ふと脳裏に、数時間前の出来事が蘇る。

 家を出る直前、両親へ宛てて書いた手紙の最後に、どうしてか彼宛ての文章を書き添えていた。書いた後それを読み返し、自分でも首をひねったことを覚えている。

「一体何が言いたいのかしら? 私」

 その時はそんな風に思って、でも別に害はないだろうと、そのまま放置したのだが……

 どうしてかあの文章が、こうして彼を自分に繋げたかのような、そんな変な錯覚を覚えた。

(本当に……訳が分からない……)

 そう思いながらも、凛の指はいつの間にか、通話ボタンをタップしている。直後、聞き慣れた声が凛の鼓膜を揺らした。

『凛か!?』

 スマホから聞こえてきた第一声はそれだった。切羽詰まっていて、息も乱れていて……光琴がどれだけ必死なのか、それだけで痛いほど伝わってくる。

でも、だからこそ……〝拒絶〟……しなければいけない。

「人のスマホにかけてきておいて、それはないでしょう? 他に誰が電話に出るって言うのよ」

『それは……そうだけど……それより、凛は大丈夫なのか?』

「何が?」

 出来る限り、冷たく、薄情で、非人情的に。

「たとえどんな状態でも、あなたには関係ないでしょう?」

 明確な拒絶の意思を、そこに込めようとした。いや、込めたつもりだった。それなのに……

『関係ない訳ないだろう? 俺はおまえの彼氏なんだから』

 凛は、思わず自分の耳を疑った。

「あなた……まだそんなことを言っているの? 私が言った言葉、もう忘れちゃった?」

 殺人犯の息子さん――そう言った時の光琴の顔を忘れることは決してない。

そしてその顔を見て、罪悪感に押し潰されそうになった、自分への怒りも。

 だから凛は、自分に言い聞かせるように言葉を重ねる。

「私があなたを許すことは決して無いわ。だから、そんなふざけたことを言うのは止めなさい」

 この歪な関係を終わらせるために、許されざる帰結を断ち切るために、凛はそう言い切った。二人の過去を知った今、それ以外の選択肢はあり得ない。そして当然、光琴もそう考えているはず……そう思っていた。

(そう……思っていたのに……)

 次の瞬間聞こえてきた光琴の答えに、凛の頭は完全にフリーズした。

『俺はそれでも、凛のことを愛している』

「……は?」

 呆気に取られるとはこのことだ。

(彼は本当に今の状況を理解しているの?)

 一体何をどう考えれば、あの事実を知って尚、凛に愛を囁けるのだろうか? 凛に近づこうと思えるのだろうか?

(理解できない)

 と、凛は思う。理解したくないと、理性が叫ぶ。だが同時に感情は膨れ上がる。膨れ上がった感情はたちまち理性を圧迫し、その制御から逃れようとする。

だから凛は、再び嘆息するのだ。

(あぁ……だからやっぱり……私は、死ぬしかないのよね)

――と。


     ***


『……は?』

 俺が、この場にはまったく似つかわしくない愛の告白をすると、案の定、心底呆れたといった様子の凛の声が、電話口から聞こえてきた。しかし、そういうリアクションが返ってくるのは分かっていたから、今更怯みはしない。

「八年前。凛の家に何をしたかは勿論分かってる。許されることではないことも。それを恨みに思う凛の気持ちも。ただそれでも……それを知っても、俺の気持ちは変わらないんだ」

 不謹慎なのかもしれない。厚顔無恥と馬鹿にされるのかもしれない。でも俺は……自分の気持ちに、嘘はつけないから。

「俺は凛を愛している。だから、凛には笑顔でいて欲しい。今まで知らなかった分の、ありとあらゆる幸福を経験して欲しい。誰よりも……幸せになって欲しい」

 だから凛――と俺は続ける。何度だって、いつまでだって、俺はこの言葉を言い続ける。

「俺と、もう一度、星を見てくれないか?」

『――ッ!?』

 電話口の向こうで、凛が息を呑むのが聞こえた。そして、通話が切れたかと思うほどの静寂。その静寂の奥で、凛が何を考えているのか、それは分からない。だから俺は、右耳にじっと意識を傾けながら、ただ歩を進める。

 十秒……二十秒……三十秒……

 時間は刻々と過ぎていき、やがて一分ほどの時が流れただろうか。遂にポツリと、凛の呟きが聞こえてきた。

『私も……愛しているわよ』

 思わず、歩みを止めた。

 嬉しかったからではない。安心したからではない。紛れもなく愛の告白である筈の、その言葉に含まれた悲嘆の影があまりに濃くて、眩暈に近い感覚を覚えてしまったからだ。

 更に、凛が愛を囁く。

『私も、あなたを愛している。何度も憎もうとした。恨もうとした。でも、この感情はもうどうしようもないくらいに大きくて……私は、あなたのことを嫌うことが出来ない。でもね……だからこそ……私は……』

 囁かれる愛の言葉は、一層深く、闇へと沈む。

『私は、私を許すことが出来ないの。親の仇を憎むことも出来ない自分自身を許せないの。あの人たちの未来を奪った人の息子と、一緒にいたいと願う、そんな自分の浅ましい心が心底許せないの』

 だから――と、凛は言う。嗚咽混じりの声が耳朶を打つ。

 彼女の意思が、たった一つの最終結論を、言葉にして紡ぎ出す。


『あなたを愛したまま、私は死にます』


 それが、彼女が導き出した答え。小刻みに震える小さな肩が、その帰結。

 愛想う罪、故に死を選ぶ――

 その選択を支えたすべての苦悩が、絶望が、後悔が、彼女の小さな身体を縛り付け、そして俺から言葉を奪う。

(ああ……俺は一体、彼女にどんな言葉をかけることが出来る?)

 彼女を縛り付けているのが、俺に対する恨みであれば、まだかける言葉があった。しかし、彼女を捕らえているのはそうではない。死者への罪悪感。そして、死者を無視してでも幸福を得ようとする、自己の浅ましさに対する失望。それが、今の彼女を縛り付けている鎖の正体であり、更に厄介なことに、その鎖を解き放つ鍵は俺の手元ではなく、死者の足元に落ちているのだ。なら、俺に出来ることは……ただ一つ。

 彼女がその鍵を求めて死者の世界に足を踏み入れないように、抱き締めて、抱き止めてあげることだけ。

「凛」

 だから俺は、そう声をかける。耳に押し当てていたスマホを下ろし、目の前で震える小さな背中に向けて、彼女の名前を呼びかける。そして、驚いて振り返る彼女の身体を、精一杯抱きしめる。それが俺に出来る、たった一つの事だと信じて。


     ***


 何が起こったのか、凛には理解出来なかった。

 電話口にいるはずの光琴が……街中で電話をしていたはずの光琴が……

 何故か自分を抱き締めている。それは、凛が予想もしていなかった状況。想定もしていなかった事態。だからこそ、彼女の理性は混乱し、その本来の働きを止める。

 と言っても、束の間に過ぎない。ただ、その束の間の時間であっても、彼女の心の奥底に眠る本来の感情を噴き出させるには、充分過ぎるほどの時間だった。

(温かいなぁ)

 凛は、まずそう感じた。

(離れたくないなぁ)

 凛は、次にそう思った。

(幸せに……なりたいなぁ)

 凛は、最後にそう願った。

 そう願いながら、しかし決して祈ることはせず、ポケットの中に手を入れた。

「光琴」

 そして、凛は囁く。その囁きを聞いて、光琴は優しく身体を離す。その離れた身体に、凛は自分から僅かに身を寄せると、ゆっくりと踵を上げる。

 二人の背丈がピッタリと重なった。同時に、二人の唇も。

(ありがとう)

 唇を合わせながら、凛は今度こそ祈る。最後くらいは、本心からの感情に従って。

(彼の人生が、幸福に満たされますように)

 少しだけ余計に時間をかけてそう祈った凛は、唇をそっと離す。そして――

「ごめんなさい」

 直後、闇夜に響き渡るスパーク音。青白い閃光が一瞬だけ迸り、しかしすぐに光琴の影に隠れて見えなくなる。


 数秒後。静かになった闇夜の中で、影が一つ、桜の樹に向かって動き始めた。

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