第10話
「光琴、起きたの?」
「……うん」
寝惚け眼を擦りながら、聞こえてきたお母さんの声に返事をする。なんだか頭がボーとしていて、うまく状況が思い出せない。
確か……お父さんの転勤で新しい街に引っ越すことになって……そうだ。その引越しの前に、みんなでその街にあるキャンプ場に行こうという話になったんだった。
ようやく頭がはっきりしてきた僕は、大きく一回背伸びをしてから、席を立って運転席の方へ移動する。
僕は、前の窓から見える景色が好きだ。知らない世界が視界一杯に広がって、それがどんどん変わっていく。いくら見ていても、全然飽きない。
「光琴、危ないわよ。戻りなさい」
でも、いつものように後ろから、お母さんに注意された。いつもなら、ここは素直に従って席に戻って、どこかに停めてもらってから助手席に移動するんだけど……
今は違った。窓越しに見える景色から目が離せなくて、返事をすることも忘れていたのだ。
場所は、真っ直ぐな一本道だった。両側には沢山の家が立ち並び、新しい家が多いから、多分最近できた住宅地なんだろう。
そして、その道の行き着く先。左と右に道を分ける丁字路の奥に、その家があった。
特別、立派な家じゃない。ただ、道に面した壁に大きな窓が付いているせいか、すごく開放的で、見ているだけで心がワクワクするような、そんな不思議な雰囲気の家だった。
でも、僕が目を離せなくなったのは、そんな家の造りにじゃない。その窓の向こうに見える、団欒の風景に、だった。
多分、誕生日パーティーをしているんだと思う。一人の女の子を家族と友達が囲んで、その女の子の誕生日を盛大に祝っているのだ。そんな幸せなそうな世界の中で、満面の笑みを浮かべた女の子が、友達に軽くウインクしてから、バースデイケーキに顔を近づけた。
顔に力を入れたのか、眉毛が少しだけ寄せられて、しかめ面みたいな顔になる。
(あ……火を吹き消すんだな)
僕はそう思った。と同時に、少しだけ残念に思う。女の子の笑顔があまりに可愛らしくて、もっと見ていたいと、そう思ったから。
「……なんでだ?」
でも、そんな呑気な思いは、突然聞こえてきたお父さんの唖然とした声でかき消される。僕はその声に釣られるように、運転席に座るお父さんを見た。
「……ブレーキが……かからない」
お父さんの声が虚しく響いて、何が起こったかを理解できない僕は、お父さんと、ぐんぐん近づいてくるその家とを、ただ見比べることしか出来ない。
「光琴!!」
不意に、僕の身体に誰かが覆いかぶさった。
いや、きっとお母さんだろう。その温もりと柔らかさを間違えることは決してないし、ましてや忘れることなど有り得ない。それは……この夢が醒めた後でも――
そう。この夢はもうすぐ終わる。母親の腕の中で、それをはっきりと自覚する。
思えばこの時にはもう、俺の道は定められていたのかもしれない。奇跡的な邂逅に向けて、俺たちの道は敷かれ始めたのかもしれない。
幼い俺を魅了した彼女の笑顔を思い出して、そんなことを考える。だから――
(彼女の笑顔をもう一度見るために、俺は現実に戻る)
直後、凄まじい轟音と共に、車が家に衝突した。
凄まじい轟音が響き渡って、俺は目を覚ました。
目を開くと、その先にあるのは星空。大きな北極星が真っ先に目につく。いつの間にか、星が目視できる程度には雲が薄くなっているようだった。
首を振りながら上体を起こす。なんとなく、身体が痺れているような感じがする。手足の感覚が鈍くなり、上手く動かせない。
(それにしても、さっきの音はなんだ?)
先程の轟音。夢の中で何かあったような気もしたが、そのくせ、耳に妙な違和感を覚える。なにせ、現実に耳鳴りを起こしているくらいなのだ。流石に夢の出来事が、そんな形で現実世界に反映されたりはしないだろう。
「……え?」
そこまで考えて、ようやく気がついた。
明るい――
山中の夜。少しばかり星明かりが照らすようになったとは言え、明るく感じるほどの光量では当然ない。にもかかわらず……明るい。それも、右側だけが。
視線を右へと向ける。するとそこには、驚くべき光景が広がっていた。
炎だ。この草原に唯一立っていた一本の桜の木。それが大きな火柱を上げて燃えているのだ。その光景は、暗闇に沈んだ背景とも相まって、とても幻想的な雰囲気を作り出している。
「一体何が――」
そう口にしかけた時、雷鳴が言葉を遮った。どうやら局地的に積乱雲が発生し、空の状態がかなり不安定になっているらしい。あの桜の木にも、恐らく雷が直撃したのだろう。
「危ないな。早く凛を見つけてここを離れないと……」
言いかけて、そこで黙る。凛の名前を口にして、思い出したのだ。先程の一幕を。
凛を抱き締めて、キスをして、それで……
「凛?」
立ち上がり、周囲に目を走らせる。明るいお陰で、来た時よりもよっぽど人の姿を探しやすかった。だからだろう。すぐに見つけることが出来た。木の根元近く。燃え盛る大木のすぐ下で、うつ伏せに倒れている凛の姿を。
「凛!?」
急いで彼女に駆け寄り、その身体を抱き起こす。一見、外傷は無いようだった。ただ、その二つの瞳はしっかりと閉じられ、完全に意識を失っている。
「……凛?」
嫌な予感がして、手を彼女の口元に近づけた。この状態から見て、恐らく凛は木に落ちた雷に感電した可能性が高い。そして一般的に、雷による死因の全ては、心肺停止によるものだ。なら……もしかすると……
「……くそ!!」
恐れていた通り。凛の口元から呼気を感じることが出来なくて、急いで彼女の胸元に耳を押し当てる。だが……
聞こえない。心臓の音が聞こえない。心臓の拍動を感じない。凛の心臓が……停まっている。
「絶対に……絶対に死なせるものか」
呆然と手をこまねいている時間はない。俺は、彼女の胸の上に手を重ね、腕を垂直に伸ばす。
「ふぅ」
手の震えを止めるために大きく一度息を吐いた後、手のひらの基部にだけに力が加わるように注意して、体重を乗せた。
絶対に……凛を死なせやしない。
***
気がつくと、凛は草原に立っていた。なんとなく、桜の樹に近づいたところまでは覚えている。しかし、その直後から記憶がない。突然、轟音が鼓膜を震わせて……そして、今の状況だ。
(夢かな?)
咄嗟にそう思う。草原に一人立つ自分の目の前で、倒れた〝自分〟に光琴が心臓マッサージをしているというこの奇妙な状況は、夢でなければ説明が出来ない。
(あるいは私、死んだのかな?)
そんな風にも思う。死後の世界というものを、凛は取り立てて考えたことはなかったが、かと言って積極的に否定していた訳でもない。もしかすると、そんな世界もあるのかもしれない――くらいには思う。
「ただ、どちらにしろ……たくさん、迷惑をかけているわね……」
今がどんな状況であれ、愛する人を傷つけてから勝手に死んで、おまけに心臓マッサージまでさせているというこの光景は、『ごめんなさい』の一言で済まされるようなものではない。
でも、だからこそ……
「これも……罰なのかな」
〝酷い私〟に、〝酷い私〟を思い知らせるための罰。罪悪感に苛まれ、光琴に愛想を尽かされるのも見せられて、その結果生じる感情すらも、自分の浅ましさを再確認する触媒として消化される。螺旋階段を下っていくような、終わりのない負の連鎖。
(あぁ、本当に……本当に、碌でもないな。私っていう人間は……)
そう、改めて自分に絶望した、その刹那――
「そんなこと……言わないで」
「……え?」
思いがけない言葉が、凛の耳を掠めていった。それはひどく悲しげで、それでいて……
とても、懐かしい声。
(誰?)
咄嗟に振り返った凛は、見知らぬ二人の男女が寄り添って、自分を見つめていることに気が付いた。だから凛は、彼らに向かって呼びかけようとして――
それなのに、言葉が出てこなかった。開いた口をただパクパクさせて、しかも言葉の代わりに涙が込み上げてきて、視界が歪む。それでようやく、理解した。
(あぁ……知っている。私は、この人たちを知っている)
懐かしくて、温かくて、嬉しくて……でもとても、悲しくて。
涙と共に、色々な感情が胸の奥底から立ち昇り、凛の体を包み込む。
そうだ……彼らは……
「お父さんと……お母さん?」
口にした途端、涙が溢れた。
(あぁそうだ……この人たちが、私の本当のお父さんとお母さん。私を愛してくれた、私が大好きだった人たち)
思い出すと、もう涙が止まらなかった。今の状況が理解できずとも、湧き上がるこの感情は間違いなく本物で、無視することなんて出来るわけがない。だから凛は、全身を震わせながらまるで子供のように泣きじゃくり……そんな彼女に、悲しげに目を伏せた母親がそっと近づく。
「ごめんなさい。辛い思いを、させてしまって……」
凛の髪を撫でながら、母親も声を震わせる。しかし凛は、嗚咽を漏らすばかりで言葉を返すことも出来ずに、ただ首を振るばかりだ。
(ごめんなさい……ごめんなさい……)
だがその心の内では、凛は何度も二人に謝っていた。
(お父さんとお母さん。二人のことを忘れてしまってごめんなさい)
失った幸福を見つめるのが苦しかった。だから凛は、楽になる道を選んだ。感情から目を背ける道を選んだ。その結果、過去の記憶を――両親との思い出を捨てた。
(二人を殺した人の息子を、好きになってごめんなさい)
知らなかった――なんて言うのはただの言い訳だ。事実は一つ。仇の息子を好きになり、その事実を知って尚、彼を憎むことも、嫌いになることすら出来なかった。
(ごめんなさい。そんな薄情な娘で……ごめんなさい)
嗚咽は止まない。涙が止まることはない。両親を前にして、凛が抱いていた罪悪感がそれを許すことはない。でも――
泣きじゃくる凛の体を母親は強く強く抱き締めて……耳元でそっと、囁いた。
「凛。私たちの可愛い我が子」
母親の指が凛の髪をすく。
「まだ小さいあなたを、一人遺してしまってごめんなさい。一緒に過ごす時間を、たくさん作ってあげられなくて、ごめんなさい。それでも――ここまで生きてくれてありがとう。辛くても、ここまで歩き続けてくれてありがとう」
母親の背中を凛がギュッと掴む。そんな凛を見つめる母親の視線はどこまでも優しく、そしてどこまでも、愛深い。
「あなたが幸福を感じられなくなったと知った時、とても心配だった。あなたがいつか、不幸に押し潰されてしまうんじゃないかって――それでも……あなたはそれから八年も生きてくれて……そして今度は、諦めていた幸福を自分で見つけ出してくれた」
肩を震わせながら、凛が顔を上げた。悔恨に滲むその顔を、母親は穏やかに見つめ返す。
「それは、あなたにとっては罪なことなのかもしれない。苦しいことなのかもしれない。でもね。私たちは、あなたの幸福だけを祈っているの。だから――」
母親がニッコリと微笑んだ。
「どうか、明日も幸せを感じてください。その次の明日も、楽しく笑っていてください。流す涙よりも、浮かべる笑顔の方が多い。そんな輝く未来を生きてください。それが、私たち二人の、たった一つの願いです」
そして母親は、横に立つ父親を見る。父親も彼女を見て、優しく頷きかける。そんな父親に微笑みを返した母親は、父親の意思も受け取って、凛の額にそっとキスをした。
「私たちは、世界中の誰よりもあなたの幸福を祈り、そして、あなたのことを愛しています」
言葉が風に乗って流れる。その祈りは空間を満たし、凛の全身を優しく包み込む。上昇気流に乗って天まで届く。
いつのまにか……凛の震えは止まっていた。
「……ありがとう。お父さん、お母さん」
やがて、凛は涙を拭った。そして未だぎこちなく、けれど確かに笑みを浮かべる。
もう既に、彼女の前には誰もいない。彼女を抱き締める温もりはない。彼女の両親は、もうどこにもいない。けれど……
忘れがたい温もりの余韻だけは、確かに胸の中で息づいている。
「私……生きていても良いのかな? 幸せになっても良いのかな?」
その温もりに促されるように、凛は誰もいない空間に向かってそう尋ねた。
答えは、すぐに返ってくる。
『凛……生きてくれ。もう二度と、一人にしないから。一生、笑顔にしてみせるから。忘れても忘れても、何度でも幸福にしてみせるから。忘れられないくらいの愛を、与えてみせるから』
振り返る。そこには、今も変わらず、人工マッサージを続ける光琴がいる。彼の想いが空中を漂い、凛の問いかけに確かに応える。だから、だから、だからこそ……
凛の顔に笑顔が浮かび、笑顔と共に、決意した。
「……分かりました。私はあなたと、幸せになります。幸せに……なりたいです」
それが、自覚できた最後の想い。その言葉を発した直後、身体の感覚がスーッと薄れて消えていって……
「―――――――??」
気が付くと、病室のベッドの中にいた。
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