第8話
日記をすべて読み終わり、今日の分の日記を書き足した。そしてまた、頭から日記を読み返し、三周目の中盤に差し掛かった頃……凛が、小さな寝息を立て始めた。
時刻は、既に三時は回っている。今日は朝から、忙しく立ち働いていたのだ。ここまで起きていられただけでも、随分と頑張っていたに違いない。
「おやすみ。凛」
そう言って、彼女の頭を抱きかかえる。
眼(まなこ)が重い。一人になると、急速に襲ってくる眠気。彼女が起きるまで、寝ないで待っていようとも思っていたが、これは少し、難しいかもしれない。
夜空を見上げる。星々が輝いている。都会ではまず見ることが出来ない、数えきれない無数の煌めき。この星をすべて数え上げることが出来たなら、眠らないでいられるだろうか?
誰ともなしに、虚しく尋ねる。答えは当然……どこからも、返ってはこなかった。
***
目を覚ました凛の視界に、真っ先に飛び込んできたのは、一冊の日記帳だった。
更には、身体の右側から、心地よい熱を感じてそちらを見やると……
「……誰?」
見知らぬ男性が、凛を抱きかかえるようにして眠っていた。
覚えがない。ただ、同じ高校の制服を着ていて、しかもネクタイの色が同じだ。凛はこの男性のことを、クラスメイトの誰かと推測する。勿論、学年が一緒の別クラスの誰かという可能性もあるにはあるが、そんなワンクッション離れた人間と仲良くなるのは、あまりにも現実離れした妄想だった。
(仲良くなる……ね)
そう。凛は、既に理解している。恐らく彼は、凛と親しかった誰か。
正直、同じクラスだろうが何だろうが、今の自分が誰かと仲良くなること自体が、現実離れした妄想に違いなかったが……目の前の光景は、その妄想の信憑性を確保している。
「一体……どんな心変わりがあったのかしら」
凛は、小さくそう愚痴る。目の前の日記帳も、その証左。誰かと仲良くしようなんて、一体昨日までの自分は何を考えていたのか……
溜息を吐きながら、凛はそれでも、目の前の日記帳に手を伸ばす。果たして以前の自分が、どんな経緯で気紛れに襲われたのか……少しだけ、興味があった。
『先週、転校生が来たの――』
BGMは、鳥の囀り。次第に高く上がっていく太陽の光に照らされながら、凛はゆっくりと、ページをめくり始めた。
***
気づくと、明るくなっていた。
ちゅんちゅんと鳥の囀りが聞こえ、しかし人の声は聞こえない。
「……あれ? なんで?」
状況が呑み込めず、目をこする。でもそれも、一瞬だ。
「凛は?」
昨夜のことを思い出すのに、時間はかからなかった。結局あの後、眠気に耐えられず寝てしまったらしい。既に凛は目を覚ました後らしく、見渡す限り、どこにもその姿は見えなかった。
「凛!」
何とも言えない嫌な予感が膨らんで、つい大きな声を上げる。だが、どこからも返事は聞こえない。それほど広くない屋上だ。どこかにいれば、今の声が聞こえない筈はないのだが……
(もしかして、出て行ったのか?)
校舎内へと繋がるドアに目を向ける。今は固く閉じられているが、だからと言って、凛が開けていないとは限らない。焦る心が、早く屋上の外へ探しに行けと俺を急かす。
(分かってる!)
そんな自分の心の声を黙らせつつ、俺の足が向かったのは別の場所だ。
プラネタリウムのドームの影。屋上では唯一見通しが利かない、完全なる死角。屋上から出るよりも先に、まずはそこだけは見ておくべきだと、先程の声とは別の直感が囁いていた。
「……凛」
そして、その直感が正解。柵の上に寝かせて置いた両腕に、片方の頬を乗せるようにした凛が、ぼんやりと校庭を見つめていた。それでも、先程の俺の声と、近づいてくる足音は聞こえていたのだろう。彼女に近づく前に、その視線は校庭からゆっくりと俺の方にスライドし――
「瀬名……光琴君?」
感情の無い声で、そう呟いた。
「……」
その一言で、凛の状態を理解する。凛が何一つ俺のことを覚えていない現実を、否応なく突き付けられる。
「あぁ、そうだよ。日記は……呼んだんだな?」
でも、それが分かったからこそ、努めて明るい声を出す。出来る限り、今まで通りの俺であろうと、記憶の中の自分を辿る。
俺は、彼女の左手が掴んでいる日記帳に視線を向けながら、そう尋ねた。
「えぇ。読んだわ」
凛の答えは、早い。
「あまり……というか、まったく意味が分からない状況だったから。隣に知らない男子がいて、目の前には日記があって、おまけにここは、学校の屋上で……」
凛が首を傾げる。
「天文部なんかに、私、入ったのね」
「そうだよ。瀬川の強引な勧誘でね」
頷く。彼女が、しっかりと日記を読んでくれていることに、少しだけ安堵しながら。この調子なら、きっとすぐ、昨日までの俺たちを取り戻せる。
「瀬川さん……覚えているわ。いつも私を気にかけてくれていた、優しい人。他にも日下君や、そのお兄さんのことも。うすぼんやりだけど、日下君の家に行ったことも覚えているわ……不思議ね。あなたの記憶はなくても、彼らのことは思い出せるんだから」
「…………え?」
恐らく凛は、その一言に大した感情は込めていない。ただ事実を、淡々と口にしただけ。けれど……その内容は、俺の心を一瞬にして凍り付かせた。
「俺の記憶だけ……ない?」
俺はずっと、『幸福を記憶できない』という凛の病状を、そのまま文字通りに受け取っていた。だから幸福を感じる以前の記憶――例えば、山中で出会った時や、部活に勧誘した時の記憶は消えないで残ってくれるのではないか……そんなことを、漠然と期待していたのだ。でも……
(違う……のか?)
そう、違う。違ったのだ。凛の病気は、もっと〝悪質〟だったのだ。何故なら、彼女が忘れているのは、文字通りの幸福な記憶ではなく、『俺の記憶』なのだから。つまり――
(そういう……ことか……)
ようやく理解した。恐らく、昨日彼女の中で、〝過去が変わった〟のだ。
そういうこと自体は、別段珍しいことではない。今が幸福なら、辛かった過去も輝いて見える。今の幸福の糧として肯定できる。そんなことは、いくらでもあることだ。だから……
俺を好きになってくれたことで、俺と一緒にいることを幸福だと認識してくれたおかげで、彼女の中で、俺に関わるすべての過去が変化したのだ。キラキラと輝く、幸福な記憶へと姿を変えた。だから凛は、瀬川のことも、隼人のことも、鷹志のことすら覚えているのに、俺の痕跡だけを綺麗さっぱり忘れたのだ。まるで写真を切り抜くように。俺が写っているところだけを、懇切丁寧に形取って。
――ズキッ。
あぁ……思っていたよりも、これは辛い。愛する人が、他の人のことは覚えていて、自分のことだけを忘れている。それがこんなにも、辛く、悲しく、そして恐ろしいことだったとは。
一瞬、気が遠くなるような心地に襲われる。この場から、一目散に逃げだしたくなる。未来に対して、足がすくむ。でも……
(馬鹿! 俺が……こんなんでどうする!)
なんとか踏みとどまって、首を振った。
(凛はすべてを理解した上で、俺と一緒にいる道を選んでくれたんだ)
あの日山中で、彼女は『そんなお気楽なことは言ってられなくなる』と言った。その真意も、今なら分かる。でもだからこそ、そんな未来予測に従ってはいけない。
折れそうになっていた足に力を込めて、俯きそうになっていた顔を上げて、もう一度、しっかりと凛を見据える。
「そっか。じゃあ今から、それ以外の記憶も埋めよう。日記はもう読んだと思うけど、二人で読めば、それが新しい思い出になる筈だから。二人を繋ぐ、糸になってくれる筈だから」
一歩を踏み出す。凛に向かって、手を伸ばす。でも、凛は――
そんな俺から目を逸らすと、呟くように、その言葉を口にした。
「私、あなたのこと、忘れていないわよ?」
「……え?」
手を伸ばした姿勢のまま、その場に凍り付く。
「……忘れて、ない?」
「えぇ。あなたとのことは覚えていないけれど、あなたのことは忘れていない」
まるで、謎かけのようなことを口にした凛は、胸の上に両手を重ねる。
「だって、こんなにも胸が苦しいんだもの。まるで、誰かが私の心臓を握り潰そうとしているみたいで……吐き気がするくらい、気持ち悪い」
凛が、柵から身体を離した。吹きすさぶ風に綺麗な長髪を靡かせながら、今度は身体全体で、俺に向き直る。
「星空を――」
気づくと、凛は日記を開いていた。開かれたページは、まるで水を吸ったみたいにしわくちゃで……きっと、それが栞になっていたのだろう。迷うことなく目的のページを開いた凛は、そこに書かれた言葉を読み上げていた。
「星空を、自分のものにしても意味がない。それを誰かと一緒に見上げる方がずっと大切で、幸福な時間になる……か。私は、随分とセンチメンタルなことを言うのね」
凛は日記を閉じた。そして、微笑む。
「それで? この〝私〟って……一体誰?」
「……」
言われたことの意味を理解するのに、数秒を要した。
「文化祭最終日の今日は――」
その数秒の間に、凛はまた別のページを開いていた。
「驚くことが沢山あったけれど、その一番はやっぱり、光琴と付き合うことになったことかしら。信じられる? 昨日まで『瀬名君』だったのに、いきなり『光琴』よ?」
それは、最終ページ――昨夜、新たに書き足したページだった。
凛は、ゆっくりとそのページを読み上げ、顔を上げると――
「それで? この〝光琴と付き合うことになった女〟って……一体誰?」
再び、そう問いかける。俺は未だ、言葉を失ったままだ。
そんな俺をじっと眺めた凛は、確かめるように言葉を綴る。
「私って、以前日記を〝仮面〟って呼んだんでしょ? それってね、その通りだと思うの。だって、ここに書かれた出来事はすべて、私以外の誰かが体験したことにしか思えないんだもの。でも……あなたは言ったのよね? 二人で共有すれば、それは〝糸〟になるって。だからこそ、私たちを結ぶ糸を繋ぎ直すことは、必ず出来るって」
風が、俺たちの間を流れる。
「えぇ、そうね。確かにそれも、その通りなんだと思う。思い出を共有することで、私たちを繋ぐ縁を取り戻すことは、きっと可能なのだと思う」
風――質量を持たない筈のその流体が、今はまるで鉄のカーテンのようだ。
その圧倒的な存在感を前にして……俺は、彼女の涙を拭えない。
「でもね、苦しいの」
はらりと落ちる、一滴。それは、既に涙でくしゃくしゃになったページに落ちて、一目散に地面を目指す。まるで、これ以上染みこんでくることを、日記が拒絶しているかのように。
「私ね、この日記を読むと、胸が苦しくなるの。私とは思えない誰かと、あなたが楽しく笑い合っている姿を知ると、胸が張り裂けそうになるくらい苦しいの」
そして、彼女は笑う。涙を流しながら、吐き捨てる。
「ねぇ……可笑しくない?」
その笑みの名前は〝嗤笑〟。彼女は泣きながら、自分のことを嘲り笑う。
「なんで私は……どうして私は……」
まるで鋭利な刃のように、彼女の言葉は彼女自身を切りつける。彼女の思いは、自分自身を闇へと堕とす。
「自分に……嫉妬しているの?」
その表情には、色濃い失望が宿っていた。
「あなた……私に言ってくれたわよね? 二人の幸福な思い出を一緒に振り返る……それはとても幸せなことだって」
日記を片手に、凛は涙で滲んだ瞳を拭う。
「でもね……それは違ったみたいだわ。幸せな時間を過ごして、でもそれを忘れて、挙句にその幸福に嫉妬する。そんな終わりのない苦しみが、これから毎日、毎日……日記を読む度に繰り返される。私にはそんなこと、耐えられない」
涙を拭った凛が、あの日の山中と同じように、ニッコリと微笑んでみせた。
「だから思うの。私、あなたとは出会わなければ良かったって。そしてそれは、今からでも遅くないんだって」
そう言った凛は、片手に持った日記帳を両手に持ち替えて、真っ二つに引き裂いた。
ビリビリビリ!
派手な音を上げながら大きく二つに裂けた日記帳から、紙片が何枚も舞い落ちる。
凛は、屋上に落ちたその残骸の上に、最も大きな残骸の塊を落とした。
「だから……これで、全部お終い。楽しい青春ごっこも、幸せな恋人ごっこも、普通の人ごっこも、すべて終わり」
そして、微笑む。
「あなたは、早く次の恋を見つけてね。こんな女に構ってないで、ちゃんと未来のある女性と付き合ってね。それが、一瞬でもあなたを好きになった女からの、最後のお願い」
そう言った凛は、もう一度、今度は寂しそうに微笑んで、確かな歩調で歩き出した。一秒足らずで、俺の目の前に。その一瞬後には、俺の横に。きっとその半瞬後には、俺の後ろに……
視界から凛が消え、それは永遠に戻らない。半瞬先の未来に、もう凛はいない。
その未来を知った時、俺の世界から――すべての色が、抜け落ちた。
「凛!!」
そんな抜け殻のような世界の中で、けれどその声が空間を裂く。骨伝導で耳に伝わってきたその声は、とても聞き慣れたもので……俺は、その叫びが自分の声だと知った。
気づくと、無人のコンクリートの代わりに、凛の後ろ姿が視界の中央にあって……俺は、いつの間にか振り返っていたことを知った。それくらい、それは衝動的な行為だった。
それでもその声には、強張った身体を弛緩させるくらいの効果はあった。力無く肩を落とした凛の後ろ姿には、自分のすべきことを思い出させてくれるくらいの力はあった。
だから、呼びかけても止まらないその背中に駆け寄ると、驚いて振り返った凛の身体を、後ろから力一杯抱きしめた。
「知ってるか? フォークダンスの時、初めて凛を抱きしめた」
凛の身体を胸に抱き、そう囁きかける。
「負けず嫌いのおまえが強がって、キスをしてきて……真っ赤になった顔をこうやって抱きしめたんだ」
「…………書いてあったことと違う」
「え?」
俺に抱きかかえられたまま、けれど、視線は俺から逸らすように前を向いて、凛は言う。
「日記には、恥ずかしがった瀬名君がそれを誤魔化すために、抱きしめてきたって……そう書いてあった」
思わず、笑ってしまった。
「あの時、『なんかこそこそしてるな』とは思ってたけど。そんなこと書き加えてたのか」
「……私じゃないわよ」
不機嫌そうに、凛が答える。俺は笑って、凛の頭を撫でた。
「そうだな。じゃあ、今俺の腕の中にいるのは、誰だ?」
「……え?」
凛が顔を上げた。そんな凛の耳元で囁く。
「それは、今のおまえだ。紛れもなく、今ここにいる東雲凛。俺は今まで、こうして後ろから凛を抱き締めたことなんてない」
「そう……なの?」
凛が不安げな声で尋ねる。俺は「あぁ」と頷き、今度は未来の話をする。
「明日の凛は、今度は俺と放課後デートにでも行くかもしれない。知ってるか? 今上映してる中に、結構注目の映画って多いんだぞ?」
「……知らない。あんまり映画って見ないから」
「じゃあ決まりだ。まずは凛の好きなジャンルを見つけないとな」
「でも……どうせそんなの……明日になったら、私はその約束自体を覚えていないの。このやり取りすべてが、私でない過去の私がしたものになって――」
諦めたように、彼女は未来から目を背ける。だから俺は、一つの提案をした。
「なら、今日の凛が明日の凛に、それを託すのなんかどう?」
「……へ?」
再び、凛が意表をつかれた声を上げ、今度こそ、振り返って俺を見た。
だから、彼女の両肩を掴んでこちらを向かせ、正面からその目を見つめる。
「今日の凛では出来ないこと。それを次の日の凛に日記で託すんだ。それを読んだ次の日の凛は、過去の凛には出来なかったことをして……今度もまた、出来なかったことを、次の日の凛に託す。そうやって、〝やりたいこと〟のバトンをずっと繋いでいけば良い。そうすれば、もう過去の凛は赤の他人じゃないし、彼女に嫉妬することもないだろう? 彼女がやりたくて出来なかったことを、今日の凛は出来るんだから」
日記が、『過去の彼女』と俺を繋ぐ糸であるならば……それなら、『過去の彼女』と『現在の彼女』もその糸で繋いでしまえば良い。その糸を、未来へ向かう道標にしてしまえば良い。
「そんなお気楽なこと……駄目に決まって……」
すると凛は、かつてと同じようにそう呟く。当然だ。未来のことは分からない。もしかしたら、この方法でも駄目かもしれない。でも……
「それなら、また別の方法を提案するよ。何度でも、何度でも、凛が心から幸せになれる方法を探し続ける。諦めさえしなければ、絶対に辿り着ける筈だから」
前に進み続ければ、少なくとも見える景色は変化する。別の可能性が必ずやってくる。でも……立ち止まったら、そこで終わりだ。もう、不幸が消えることは決してない。
「更に……悪くなるかもしれないわ」
たとえ凛がそう言っても、俺はただ、こう答えるだけだ。
「悪くなる方法を知ったんだ。次は絶対に、良くできる」
間違っても、失敗しても、人は必ず前へと進む。それでも凛が、一人では進めないと言うのなら、その時は、俺が肩を貸すだけだ。
「だから凛、一緒に前へ進もう。俺は凛と一緒に、幸せになりたい」
それが、俺の想いのすべて。俺が掛けられる言葉のすべて。だから、もう……
あとはただ、凛の身体を抱き締めるだけ。
「口が……上手いのね」
やがて腕の中で、凛が愚痴を零すように呟いた。
「天文部に入ることになったときも、プラネタリウム製作に協力させられたときも、あなたの口車に乗せられたって書いてあったけど……なんとなく、分かった気がするわ」
そして、彼女は顔を上げる。下から俺を見上げ、僅かに首を横に傾げる。
「あなたの口車に乗って、明日の私は後悔しないかしら?」
「その時は、明日のおまえも、口車に乗せてやる」
何度でも、何度でも。凛が忘れた分まで、何度でも。
「それじゃあ私、永遠にあなたに敵わないじゃない」
負けず嫌いの凛が、頬を膨らませる。でも、そんな姿が愛おしい。
憎まれ口を叩きながらも、こうやって俺に身体を預け続ける凛が、堪らずに愛おしい。
「はぁ……仕方ないわね」
零れる溜息。高くなる背丈。俺の耳元に唇を寄せ、そっと彼女は、吐息を漏らす。
「もう一度だけ……あなたの口車に乗ってみることにするわ」
***
破れた日記を修復し、更に二人で日記を読み直し、気付くと昼近くになっていた。
光琴が、立ち上がる。
「じゃあ、ちょっと待っててくれるか? 部室から恒星球を持ってくるから」
凛が、お願いしたのだ。
「そろそろお昼を食べに行こうか」と提案した光琴に、「なら、その前に」と口にした――
『二人でもう一度、プラネタリウムを見てみたい』
けれど、恒星球は昨夜のうちに部室の中だ。だから光琴は、それを取りに部室へ向かう。
本当は、凛も光琴と一緒に行きたかったのだが……自分から『離れたくないからついていく』なんて言うのは無理だ。そんなの、恥ずかし過ぎる。
既に恥ずかしい姿を沢山見られている以上、それも今更のようにも思われるが、その辺りが凛の面倒くさいところ。ただその代わり、屋上から出て行く光琴の後ろ姿に、見つからないように小さく手を振って……ひとまずはそれで、満足した。とは言っても――
そんな自分の行動に、やっぱり少し赤面してしまうのが、東雲凛という女性なのだが。
光琴の姿が屋上から消えて、凛は二人分の荷物を放っていた一角に腰を降ろした。
本当なら、ドームの中にある椅子に座って待った方が、お尻も痛くならなくて良いのだろうが……光琴が屋上に戻ってきた時に、真っ先に彼を見つけられる場所が、ここだったから。
「日記の私は、自分のことを〝乙女〟だなんて書いていたけれど、その自己評価は間違っていなかったみたいよ」
顔を朱色に染めたまま、凛は独りで静かに笑う。
まさか、こんな展開になるなんて、日記を読み終えたあの時は思ってもみなかった。
眠る光琴の横で、日記のページを何度もめくった。最初は無感情で読んでいた彼女の心も、ページが進みにつれて、次第に変化していく。それは、得体のしれない感情。まるで胃液が逆流してきたかのような、苦みを伴う不快感。それを彼女が嫉妬と理解するのには、更に多くのページを要し……全てを理解したその直後、圧倒的な失望感が彼女の全身を包み込んだ。
気づくと、凛の瞳からは止めどなく涙が溢れ出て……白い用紙が、どんどん黒く染まっていく様を、ただ眺めることしか出来なかった。
(私はやっぱり……どうしようもない欠陥品だ)
改めてそう認識したあの瞬間は、今思い返しても震えが走る。もしここが学校でなくて、更に近くで彼が寝ていなければ、屋上から身投げしていてもおかしくなかっただろう。
「それなのに……」
それくらい、凛は自分という存在に深く失望していたのに……光琴に抱き締められた瞬間、あらゆる黒い感情がすべて溶けて消えてしまったのだ。
「まったく、現金なものね」
凛は呆れたように笑う。思えば、凛が再びこうしてここに座る未来は、光琴があの時何を言うかに関係なく、抱き締められた瞬間に、既に決まっていたのかもしれない。
「それにしても、良く出来ているわね」
改めて、ドームの外観を見つめる。このドーム自体は過去の天文部が製作したもののようだが、これだけの広さを持つ天蓋を星で埋めるには、相応の労力が必要だったに違いない。
「折角だから、中からも見ておこうかな」
光琴が屋上に戻ってくるまで、早くてもあと十分はかかるだろう。その間に、少し中の様子を確認しておくのも良いかもしれない。
凛は腰を上げる。ただ、丁度その時。少し強めの風が吹いて、僅かによろめいた。
そのせいなのか、なんなのか……『どさっ』という小さな音と共に、視界の隅で何かが倒れたのが見えた。凛はすぐに、倒れた何か――光琴のリュックを元に戻そうとする。
「もう……男の子って、何でこうなのかしら?」
けれど凛は、腰に手を当てて眉を顰める。
チャックが全開のリュック。お陰で、倒れた拍子に中のものが飛び出してしまっていた。
「これって……日記帳よね?」
その中から一冊のノートを手に取る。凛のものよりいくらか装丁が簡素だが、ぺらぺらとページを見る限り、それは明らかに、光琴が書いた日記帳だった。
「なんだ。あなたも書いていたの」
書き始めは、山中で二人が出会ったあの日。どうやら光琴も、凛と同じように日記を書くようにしていたらしい。
「しかもきっと、私のためよね」
日記を一緒に共有するために。よりたくさんのことを、二人で共有するために……
「でも……これって、昨日の私は見たのかしら?」
凛の日記には、そんな記載は無かった。そして、凛の日記が乱雑に屋上に置かれていた事実からして、どうも昨日は、これはリュックから取り出されなかったような気がする。
「あいつ……日和ったわね」
そういうことなのだろう。書いたは良いが、恥ずかしくて本人に読まれたくない。
きっと凛の日記を読んで、『事実はちゃんと網羅されてるから、別に自分の日記は必要ないな』なんて考えて、出さなかったに違いない。
「でも、残念でした。恨むなら、チャックを閉め忘れた、自分の横着を恨みなさい」
〝邪悪〟な笑顔を浮かべた凛が、「よっこらせ」とその場に腰を降ろし、本格的にページを辿り始めようとする。でも、その矢先――
「あら?」
どうやら、何かが日記帳に挟まっていたみたいだ。ページを開いた拍子に、紙のようなものがヒラヒラと地面に舞い落ちた。
「これは……新聞?」
なにやら、それは昔の新聞の切り抜きのようだった。裏返して見てみると、そこには赤字で『親父の事件』と書かれている。
「……ということは、光琴のご両親が亡くなったっていう?」
確か、光琴と山で会った日の記述に、そんなものがあった筈だ。光琴の父親が殺人犯になってしまったという事件。
凛は裏返していた新聞を元に戻し、そこに書かれている記事を読んだ。
『閑静な住宅街に悲鳴。民家にキャンピングカー突っ込む』
そんな見出しで、始まる文章だった。
***
恒星球を抱えて屋上に戻った時、凛の姿は辺りに見えなかった。
ただ、今度は迷うことはない。寝起きの時とは違って今回はどこにいるか、容易に見当は付く。一直線にプラネタリウムのドームへと近づいて、その幕を押し開けた。
「凛、お待たせ」
案の定、凛はそこにいた。偶然なのか必然なのか、昨夜、俺たちが座っていた時と同じ席に腰かけた凛が、ぼうっと天を見上げていた。だが……
凛は、反応しない。入ってきた俺に気付いていないかのように、視線を天井に固定したまま、微動だにしない。
「……凛?」
その姿に、奇妙な違和感を抱く。根拠を持たない胸騒ぎが、地下水のように底を流れる。
「ねぇ」
ついに、凛が反応した。それでも、一度湧き上がった胸騒ぎはなくならない。
凛がゆっくりと、俺を見た。
「あなたのお父さんが起こした事故って……これ?」
気付くと、凛の手が俺に向かって差し出されていた。その指の間には、一枚の紙片。
「これは……」
その紙には、見覚えがあった。
親父の事故の切り抜き――スクラップノートに糊付けして貼っていたものの一つだった。
「どうして……これを?」
胸騒ぎが、急速に実体を帯び始める。不明瞭な予感に過ぎなかったモヤモヤが、意味を持った濃霧へと変化していく。
「……」
凛は答えない。その代わり、吸い込まれてしまいそうなほどに深い、底の見えない眼差しで、俺をじっと見つめ続ける。
「あぁ……そうだよ」
その瞳に押し出されるように、いつの間にか、言葉が口から零れ出ていた。
「そこに出てくる、キャンピングカーを運転していたのが……親父だ」
「そう」
凛の答えは早かった。まるで、俺がそう答えるのが分かっていて。その上で敢えて聞いたかのような、そんな返答。
「面白いこと、教えて上げましょうか?」
そして、その言葉。俺は、油の切れたロボットのように、ぎこちなく頷く。
「この記事に、巻き込まれた一人娘の女の子って、出てくるでしょう?」
凛が、薄く微笑んだ。その笑顔は、今まで見たどんな表情よりも冷たくて……俺は、目を逸らすことも出来ない。
「その子。丁度、あなたと同い年なのよ。名前はね、如月凛(きさらぎりん)っていうの」
「……如月……凛」
反射するように、その名前を口にする。でも、口の中はカラカラに乾燥していて、満足に発音できていたかは疑わしい。それでも――
凛は、しっかりと反応した。
「なに? 瀬名光琴君?」
直後、頭が真っ白になった。
「その日は、私の八歳の誕生日でね。友達を呼んで、家で誕生日会を開いていたの。それで、友達に急かされて、ケーキの蝋燭を消そうとして息を吸い込んだ……丁度その時だったわ」
(あぁ……聞きたくない)
凛の声を聴きながら、死んだように働かない頭で、ただ、それだけを思う。
「あなたたちが突っ込んできて――」
それでも、凛の声は止まらない。淡々と、なんの起伏もなく、言葉を空気に乗せ続ける。
(頼むから……止めてくれ)
だから俺は、ただ、それだけを願う。
だって、それを凛に言われてしまったら。その言葉を、凛に言われてしまったなら。
俺はきっと。いや、間違いなく――
「お父さんと、お母さんを……轢き殺したの」
立ち上がれなくなって……しまうから。だから……
「さようなら。私の親を殺した〝殺人犯の息子さん〟」
瞬間――
プツリと、糸が切れる音がした。
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