第3話

 翌日の朝は早かった。

 日が出る前に揺り起こされると、寝ぼけ眼をこすりながら、東雲さんと一緒に下山する。

 寝た時間は俺と違いがない筈なのに、東雲さんは随分しっかりしていて欠伸の一つもなく、男顔負けのスピードでズンズン歩く。だから俺は、寝起きで固くなり、更に昨日の疲れで筋肉痛になった身体を引きずりながら、ただ東雲さんの後を追った。

 登るのにあれだけ苦労したこの山も、道さえ間違わなければ決して難しい山ではない。

 何事もなく下山した俺たちはそこで別れて、それぞれの家に帰宅した。

 家に着いたのは七時過ぎ。シャワーを浴びて着替えて身支度を整えれば、もう登校ギリギリの時間だ。本音を言えば今日くらい休んでしまいたかったが、東雲さんはきっといつもと何ら変わらぬ様子で出てくるのだろう。それなのに俺が休んだら、まるで根性なしだと自分で認めているような気がして目覚めが悪い。だから、未だ重い身体に喝を入れてベッドから引き剥がすと、カバンを手に取る。そろそろ出ないと、本当に遅刻しかねない。


 教室に入ると、案の定彼女はいた。いつもと同じように、つまらなそうな表情で窓の外を見つめている。クラスの至る所で発生している喧騒と比較すると、その違いは目に痛いレベルだ。

「おはよ。やっぱり早いな」

 自分の机の上に鞄を雑に置きつつ、隣の席の東雲さんに話しかける。正直、返事を期待して挨拶をした訳ではない。山での一夜を経て、彼女が人を拒絶する理由を理解した。でも同時にそれは、俺が彼女と親しくしない理由にはならないことも知った。なら、俺から彼女を無視する理由はない。その結果、恐らく彼女は今まで通り俺を無視するのだろうが、それはそれだ。今後どうするかは、彼女から無視され続けて辛くなってきた時に、また考えれば良い。

「おはよう。よく来たわね。てっきり今日は来ないかと思っていたわ」

なんてことを、考えていたせいだ。来るはずのない返事が聞こえて、俺は驚きのあまりその場で凍り付いてしまった。そしてそれは、どうやら俺だけではない。

「…………」

 喧噪に満ちていた教室をいつの間にか静寂が支配している。全ての人が、示し合わせたかのように口を閉じ、一斉にこちらを見つめていた。誰もが驚愕で、その目を大きく見開いている。

「……面倒くさいことになったわね」

 そんな周りの反応に眉を顰めた東雲さんは、そう小さく零すと、席から立ち上がった。

「お手洗い、行ってくる」

 俺にだけ聞こえる声でそう一言耳打ちすると、教室の後ろ側のドアを開け放って、一度も振り返ることなく廊下へと出て行ってしまった。


     ***


 後ろ手にピシャリとドアを閉めた直後、凛は両頬を手で覆った。

(なんで私……返事したの? 返事したの?? 返事したの!?)

 こんなに動揺したのは、本当に久しぶりだった。別に、光琴と話すのはもうやめようなどと、決めていたわけではない。それでも、まさか普通の人のように挨拶を返すとは、我ながら想像していなかったのだ。

(うぅ……これも全部)

『彼は今日、来るかしら?』なんてことを、取り止めもなくずっと考えていたせいだ。

 本当に、迂闊としか言いようがない。今までの凛では、考えられない失態だ。

(でも……)

 再び、胸を掠める熱。その温もりに気付き、凛はそっと、胸の上に両手を重ねる。

 不思議なことに、昨日のような後悔は、いつまで経っても襲ってこなかった。


     ***


 ――どっ!

 凛が出て行った直後、再び喧騒が戻ってきた。

「おい光琴! 今のはなんだ!!」

 真っ先に突っ込んできたのは、サッカー部のエースで、学内でも有数の人気を誇る小口浩介(おぐちこうすけ)。過去に東雲さんに破壊された一人だ。

「どういうことだ! おい! 東雲さんが挨拶って……おかしいだろ!!」

 そのすぐ後には、転校初日に有難い忠告をくれた友人である隼人が続き、更には、

「東雲さんが挨拶してるところとか……初めて見た……」

 と、登校してきたばかりの五十嵐花絵(いがらしはなえ)が、ドアを開けたまま呆然とした表情で固まっている。他にも挙げるとキリがないが、みんな多から少なかれそんな反応で、俺はすぐさまクラス全員から詰め寄られることになった。

「はいはい! みんなそこまで!!」

 だが有難いことに、大事になる前に静止が入る。

「みんな露骨に反応し過ぎ。光琴君だって困ってるし、凛さんも出て行っちゃったじゃない」

 いつの間にか教壇に立っていた瀬川さんが、腰に手を当てて全員を睨め回していた。

「みんなが驚くのも分かるけど、凛さんがお話しするようになったのは良いことなんだから、変に騒いだりしたら駄目だよ? それでまた元に戻っちゃったら、台無しなんだから」

 流石、誰もが一目置くクラス委員長だ。その言葉で、みんな渋々ながら口を閉じる。

「じゃあみんな、そろそろホームルーム始まるから。遅れないように準備してね」

 静かになったその隙に、有無を言わさぬ口調でそう言い放った瀬川さんは、パンッと手を叩いて場を閉める。そして、そんな彼女に逆らえる人はどうやらこのクラスには一人もいなかったようで、三々五々、自分の席へと戻っていった。浩介を筆頭に、何人かが恨めしげな視線を送ってくるが、それ以上追及はしてこない。どうやら、この場は無事に治まったらしかった。

「光琴君。ちょっと良い?」

と、思ったのも束の間、みんなを解散させてくれた瀬川さんが、俺の方へと歩いてくる。

一体何を言われるのかと、自然と身体に緊張が走った。

「ふふっ、そんなに警戒しなくても良いのに」

 表情から、俺が身構えていることを察したのだろう。瀬川さんは可笑しそうにクスクス笑うと、最後の二メートルを小走りで詰め、俺の耳元に顔を寄せる。そして――

「お昼休み、屋上に来て。鍵開けておくから」と、囁いた。

「……屋上?」

 一瞬、耳元に感じる瀬川さんの吐息も忘れて、首を傾げる。

「そう、屋上。あと、凛さんを忘れずに連れて来てね」

 瀬川さんはそれだけ言うと、「じゃあ、よろしくね」と、俺にもう一度笑いかけ、意気揚々と自分の席に戻って行ってしまった。

(一体何なんだ?)

 頭上に疑問符をいくつも浮かべながら、ただその場に立ち竦む。東雲さんも指名している時点で、少なくとも告白とか、そんな浮いた話ではないとは思うが……

(ふむ……分からん)

「……どうしたの?」

 一人で首を傾げていると、いつの間にか東雲さんが戻って来ていた。自分の席に座りながら、不審者をみるような目を俺に向けている。

「いや……何でもない」

 取り敢えず、そう答える。何の脈絡もないまま、いきなり女子を屋上に誘うような蛮勇を発揮するほど、俺は愚かではない。

「あっそ」

 東雲さんも、それ以上聞いてこない。心底興味無さそうに顔を背けると、いつものように外に視線を向けてしまった。そんな東雲さんを見て、どうしようかと思案に暮れる。

 瀬川さんの誘い。その目的はよく分からないが、少なくとも断る理由はない。だが、果たしてどんな誘い方をすれば、東雲さんがそれを受けてくれるだろうか? 東雲さんが一緒に屋上に来てくれるビジョンがまったく浮かばない。

(これは、苦戦しそうだな……)

 どうやら、次の数学の授業に真面目に参加することは、不可能になったようだった。


「嫌よ。何で私がそんなところに行かないといけないの?」

 一限後の休み時間。東雲さんに話し、案の定断られた。考える素振りもなく、断られた。

 だがしかし、そこまでは想定の範囲内だ。だから俺は、一限目の数学の授業をフルに使って考えた、パワーワードを切り出す。

「ほら。星を見に行く代わりだと思って」

 この言葉は、今朝下山の途中に東雲さんから聞いた内容に基づいている。

それは下山を始めてから一時間程度が経過し、大分身体が温まってきた頃だ。ふとあることを思い出して、ずっと前を歩き続けている東雲さんに声をかけた。

「そう言えば昨日、この山に来た理由は『星と虫が嫌いだから』って言ってたけど、結局どういうこと? だったら普通、海に行くもんじゃないの?」

 軽い気持ちで聞いた質問だった。しかしそれに、東雲さんはこう答えたのだ。

「私、海は多分好きだもの。だから海に行ったら、楽しんじゃうかもしれないでしょ?」

 思わず絶句する。楽しんだら、忘れてしまう。それが怖いから海へは行けない。だから、嫌いなもので溢れている山に行く。そういうことだった。その一言で、どれだけ東雲さんが歪な世界を生きているかがよく分かる。でも、だからこそ。

その言葉は俺の脳裏に焼き付いて……その結果、思いつけたのだ。

「どういうこと?」

 怪訝そうな顔をする東雲さんに、説明する。

「屋上に俺と一緒に行って、更にそこで瀬川さんと会う。それは、山に行くのと同じく嫌なことでしょ? なら、これはもう行くしかないよね」

 好きな場所ではなく、嫌いな場所に行こうとする東雲さん専用の説得方法だ。相手のニーズに合わせた、実に冴えた方法だと言わざるを得ない。

「あなた馬鹿?」

 の筈だったのだが……ノータイムで罵倒された。

「私が家にいると親が辛い顔をするから、だから私は山に行ってるの。別に嫌いな場所に行くのが趣味って訳じゃないから」

 おっと……言われてみればそうだった。確かにあれは、そんな文脈の中で出た言葉だった。

「う……確かに。じゃあ……実は屋上が好きで、一度行ってみたいと思っていたりは……」

「だったら良いわね」

 東雲さんが、作り笑いを向ける。思いついた時は「これだ!」と思ったこの作戦。どうやら、開始一分で失敗することが確定してしまったようだ。

「はぁ……仕方ない、俺一人で行くしかないか……」

 そもそも、他人との関わりを嫌がる東雲さんを屋上に連れて行くなんて、土台無理な相談だったのだ。多少話すようになったとはいえ、単なる〝クラスメイトA〟ごときに、達成できるミッションではない。

(……でも、まぁ)

 落ち着いてよく考えてみると、この結果は決して悪いことばかりではない。なぜなら……

「瀬川さんと二人でお昼か……中々の役得だな」

 周りに聞こえないように、そう小さく呟く。東雲さんがいるからどうしてもインパクトが弱くなりがちだが、瀬川さんだって堂々たる美人なのだ。普通のクラスだったら、立派にトップを張れるくらいには。それに性格だってかなり良さそうだし。これは男子としては、かなり美味しい状況にちがいな――

「やっぱり、私も行くわ」

「…………へ?」

 一瞬東雲さんの言葉が理解できなくて、呆けたように彼女を見る。

「だから、私も行くわ」

「……なんで?」

「なんで? あなたがそうお願いしてきたんでしょ? 何か不満でもあるの?」

「え? いや、別に無いけど……」

「じゃあ良いじゃない」

 言って、東雲さんはまた外を見てしまう。

(なんなんだ? 一体……)

 あんなに嫌がっていたのに、信じられないくらいの変わりようだった。一体何が、彼女の気持ちを変えさせたのだろう。

「……静かだからよ」

「へ?」

 唐突に、顔は外に向けたまま東雲さんが話し出す。

「私もたまには外で食べたい時があるけれど、校庭はその前後の授業によっては騒々しいから。屋上だったら、そういうのに煩わされずに静かに食べられるでしょう?」

 どうやら、俺が呆けているのを見て、何に疑問を抱いているのか察したようだった。結構丁寧に説明してくれる。

「あぁ……そういう……でも、俺とか瀬川さんはいるよ?」

「仕方ないわ。瀬川さんがいないと屋上に入れないんだから、彼女を抜きには出来ないし。あなたは……まぁ……木石のようなものだしね」

「……さいですか」

 酷い言われように苦笑する。でもすぐに、「あれ?」と首を傾げた。

「瀬川さんがいないと屋上に入れないって、どういうこと?」

 そういえばさっきも瀬川さんが、屋上の鍵を開けておくとか言っていた。

「簡単なことよ。あの子、天文部の部長で屋上の鍵を持っているの。じゃないと、屋上には入れないわ。あそこ、普段鍵閉まっているから」

「あ、そうなんだ」

 知らなかった。そして、驚いた。

知らなかったのは、そんな部活の存在について。まだ部活回りを始めていない俺は、メジャーな部活以外は把握していない。そして驚いたのは、彼女がそのことを知っていた事実について。昨日抱いたイメージ通り、やはり周囲に対して根っからの無関心という訳でもないらしい。

「じゃあ、そういうことだから。またお昼にね」

 でも彼女は、そんな自分を外には出さない。今も、もう話は終わったとばかりに会話を打ち切り、窓の外へと視線を向けてしまった。その姿から、友好的な素振りは微塵も感じられない。

(でもまぁ……会話出来るだけマシか)

 事実、今も周囲からは好奇と怨嗟の視線を感じている。彼女と事務的な話をするというだけで、それはもう凄いことなのだ。どうやら思っていた以上に、あの一晩は俺たちの関係性に影響を与えていたらしい。

(人生、何が起こるか分からないな)

 過去と決別するために向かった山中で、一瞬でも運命を感じた相手と邂逅した。俺が楽天家であることを差し引いても、何か特別な意味をそこに見出すには、充分すぎる出来事だろう。


 三限目が終わると同時に、東雲さんは席を立った。どうせ目的地が同じなのだから、三人で一緒に行けば良いと思っていたのだが、やはり団体行動はお気に召さないらしい。

「東雲さん一人で行っちゃったけど……屋上、来てくれるの?」

 その様子を見て、心配そうな顔をした瀬川さんが近づいてくる。

「多分? さっきは来るみたいなこと言ってたけど」

「そっか。なら、良いんだけど」

 随分曖昧な答えだったが、それでも、瀬川さんは笑顔になった。

「私も何度か誘ったことがあるんだけど、その時は梨の礫だったから。光琴君、一体どんな魔法を使ったの? 凛さんと、いきなり仲良くなっちゃうなんて」

「それは……」

 口を開いてから言い淀む。未だ東雲さんと仲が良いとは正直思えないが、少なくとも会話をするようになったのは事実で、そのきっかけは昨日のやり取りに集約される。かと言って、その内容は勝手に人に話して良い類のものではなく、だからこそ、言葉に詰まってしまったのだ。

「良いよ、無理に聞こうって訳じゃないから」

 でも、そんな俺の躊躇いを感じ取ったのだろう。瀬川さんは軽い調子でそう言うと、悪戯っぽく微笑んでみせる。

「ただ、誰もがずっと出来なかったことを、一体どうやって成し遂げちゃったのかなって」

「成し遂げたって……」

 酷く、大仰な表現だった。でもきっと、東雲さんと机を並べた時間が長い人ほど、それは大袈裟でも何でもないのだろう。なにせ、僅か一週間程度を共に過ごした俺であっても「まぁそんな表現もあり得るかな」なんて、思ってしまうくらいなのだから。

「さて、じゃあ行きましょうか。折角作ってもらったチャンス、無駄にしないようにしないと」

 気合を入れ直すようにギュッと拳を握った瀬川さんは、軽やかな足取りで廊下へと向かう。

 俺も、そのすぐ後に続いた。


 屋上へと繋がる階段を登り切ると、そこに東雲さんはいた。

 階段の一番上の端っこにちょこんと座り、ボーと天井を見つめている。

「ごめん、待たせたな」

 軽く謝りつつ、急いで階段を昇る。

「言葉だけの謝罪なんていらないわ。誠意は形で表しなさい」

 しかし、東雲さんは思ったよりもご立腹なようで、そう言って俺を睨みつけると、腰を上げてお尻をパンパンと叩く。

「ちなみに、私がお昼に毎日飲んでいるのは、玄関の自販機だけに置かれている『どろり特濃☆カフェラテX』よ」

「お……おまえ……あんな気持ち悪いものをいつも飲んでるのか?」

 転校したその日に隼人に飲まされたあの瞬間を、決して忘れることはないだろう。喉越しが泥なカフェラテなんて、出来れば一生知りたくなかった。

「あら。あれも慣れれば悪くないのよ? 入学当初は何度もむせながら飲んでいたけれど、今ではそれを飲まないと身体がムズムズしだすくらいには、私の一部になりつつあるわ」

「禁断症状起こしてるじゃん……てか、お前ってやっぱりMだろ」

 どう考えても、好き好んで嫌いなものに寄って行ってるようにしか見えない。

「今のこのご時世で、女性に対して『お前』呼ばわりするに留まらず、その上更にM認定。あなた、死にたいの?」

 冗談の色が一滴たりとも混じっていない顔で、東雲さんが首を傾げる。下手に睨まれるより、こっちの方がよっぽど怖い。

「……申し訳ありませんでした。明日は、ご希望の飲料水を貢がせて頂きます」

「宜しい」

 厳かに頷く東雲さん。力無く項垂れる。

(あの飲み物……パックなのに無駄に百六十円もするんだよな……)

「驚いた……凛さんって、そんなキャラなんだね」

 その時、背後から声が上がった。振り返るまでもなく、一緒に来た瀬川さんだ。

「あぁ、ごめん瀬川さん。勝手に二人で盛り上がっちゃって」

「別に盛り上がってはいないわ」

 すかさず東雲さんが口を挟み、それを見て瀬川さんは益々目を丸くしている。

「勝手なイメージだけど、私、凛さんって病弱なお嬢様みたいな感じに思ってた。休日にはお日様に当たりながらピアノを弾いてる――みたいな」

「それは本当に勝手なイメージね。ピアノを直射日光に曝すなんて、正気の沙汰じゃないわ」

(そっち!?)と内心で驚愕するが、面倒臭そうなので顔には出さない。

「それよりも、早く屋上を開放してくれない? 私、あまり食べるのは早くないから、こんなところで時間を潰したくないの」

「あ! ごめんなさい。今開けるね」

 そう言って、慌ただしく屋上に繋がるドアに駆け寄る瀬川さん。

 ようやく、俺たちは屋上に足を踏み入れた。


 屋上に入るなり東雲さんはキョロキョロと辺りを見回すと、給水塔の影になっている場所までトコトコと歩いて行き、サッサと一人で腰を下ろした。件の飲み物をトートバッグから取り出すと、ちゅーちゅーと飲み始める。集団行動する気は、マジでサラサラ無いらしい。

 俺は瀬川さんと苦笑を交換しつつ、東雲さんの隣へ移動する。

「……ねぇ、なんで私をわざわざ挟んだの?」

 カフェラテXから口を離した東雲さんが、実に嫌そうな顔で俺を見る。

「いや……成り行き? 一応今回の主役は東雲さんだし」

「主役は一話冒頭で死んだわ。頑張って私の無念を晴らしてね」

 取りつく島もない。東雲さんはそれだけ言うと、影の一番端っこまで移動してしまった。

「分かってたけど……やっぱり一筋縄じゃいかないね、凛さんは」

 先程まで東雲さんが座っていた場所に移動してきた瀬川さんが、俺に耳打ちする。

「まぁ、仕方ないよ。一緒に来てくれたのだって奇跡みたいなもんだし」

 元々、外で一人静かにご飯を食べたいと言ってついてきたのだ。今の行動にも頷ける。

「それもそうだね。じゃあここからは、私が頑張らなくちゃね」

そんな言葉を一言。東雲さんと同じようにバッグを手に取り立ち上がる。そしてまるで忍者のように、サササッと東雲さんの隣に移動すると、有無を言わさずそのまま横に座った。

「……」

 対し東雲さんは、その様子を横目で睨みつつも、特に苦情を言ったりはせず、自分の食事を黙々と続けている。

「いただきます」

 瀬川さんも鞄から小さなお弁当を取り出すと、可愛らしく手を合わせて食事を始めた。

(……結局、何がしたかったんだろうな?)

 瀬川さんの謎行動に首を傾げつつ、俺も自分の食事に手を伸ばした。


 その後、黙々と食事は続いた。東雲さんはもちろんのこと、瀬川さんも口を開かず、俺もこの空気を自分で壊す勇気はないため、無心になって食事を続ける。

結局この空気が壊れたのは、東雲さんが最後のサンドイッチを平らげ、ご丁寧にもハンカチで口元を拭った直後だった。

「それで凛さん。どうだった?」

 東雲さんが食べ終わったのを見届けた瀬川さんが、グイッと身体を彼女に近づけ、キラキラした目で問いかける。

「え? どうだったって……」

 東雲さんが眉根を寄せる。それはそうだ。俺も一体何の話か、さっぱりわからない。

「ここ。良いところでしょ?」

 すると、瀬川さんが言葉を補足する。

「夏場はちょっと暑いけど、風は気持ちいいし、空は綺麗だし、人も来ないし、静かだし」

「え……えぇ……そうね」

 東雲さんが、心なしか瀬川さんから少し距離をとって、曖昧に頷く。

「じゃあこんな場所が、もし使い放題になるとしたら、どう?」

 更にグイッと瀬川さんが迫り、東雲さんが仰反る。

「まぁ……悪くはないわね」

「ホントに!? 良かった!! じゃあ光琴君は?」

 今度は俺の方にキラキラした目を向けてくる。

「え? 俺も? うん……まぁでも、良い所だと思うよ。毎回ここでお昼食べたいくらい」

 あの空気さえないのであれば……と心の中だけで付言する。が、瀬川さんはこの答えに満足したようで、にこやかに頷くと、鞄から二枚のプリントを取り出した。

「じゃあこれ書いて」

「?」

 差し出されたプリントを受け取る。反対側でも、東雲さんが怪訝そうにしながらも、それを受け取っていた。だから俺も取り敢えず視線を落として、そこに書かれている文章に目を通す。と言っても、書かれている文章は非常に少ない。さらっと一瞬見ただけで、このプリントの目的はすぐに分かった。

「……入部届?」

「そ! 部活のところには、天文部って書いてね」

「??」

 いまいち状況が掴めず、同じくプリントに目を落としている東雲さんを見る。

 東雲さんは相変わらずの無表情で、そのプリントに軽く目を走らせていたが、やがて――

 ビリッ

「破いた!?」

 瀬川さんが叫ぶ。

「はい。これ、お返しするわ」

 そう言って、東雲さんは二つに分かれた入部届を、ご丁寧にも瀬川さんに手渡す。

「何で破いたの!?」

「むしろ何で入ると思ったの?」

 冷淡な目を瀬川さんに向ける。

「この屋上は確かに悪くないけれど、それと天文部への入部はまったく別の話じゃない」

 まったくもって正論だった。

「それに私、部活とか委員会には入る気はないの。瀬川さんも知っているでしょう?」

「でも……光琴君も一緒だよ?」

 おい、止めろ。

「なんで私がこの男と一緒だと入ると思ったのか、その理由を是非教えてほしいわね。勘違いしてると困るから一応言っておくけれど、私、彼のこと何とも思っていないから。むしろお節介な分、若干嫌いなくらい」

 ……ほら、言わんこっちゃない。やっぱり俺がディスられる結果になったじゃないか。しかも『嫌い』の前に『若干』が付いているせいで、絶妙にリアルな感じがして嫌だ。

「えぇ? ホントに? そんなこと言って――」

「それはあなたもよ、瀬川さん。あまり私に構わないでくれるかしら?」

 瀬川さんの言葉を遮って、東雲さんが厳しい言葉を添える。

「そんな……でも、折角同じクラスなのに……」

「それはあなたの価値観でしょう? 私の中では、クラスなんてものに価値はないの」

 そう言って、もう話は終わりとばかりに顔を背ける東雲さん。ひどく素っ気ない態度だが、それが『他人を傷つけたくない』という彼女なりの優しさであることを、俺は知っている。

 こういう風にして、今の東雲さんが出来上がったのだ。冷たさではなく、優しさ同士がぶつかり合って、その結果、孤高の女の子が誕生した。

 それは、誰も知らない一つの真実。俺でなくとも……お節介くらいはしたくなる。

「……瀬川さん。この屋上って、休日の夜も開放してくれるのかな?」

「え?」

 突然の質問に、瀬川さんが驚いた顔で俺を見た。でも、すぐに何かを感じ取ったのだろう。力強く、頷く。

「任せて。私、教師に信用あるから。泊まり込みだってOKさせてみせる」

「だってさ、東雲さん」

 今度は、彼女を見る。

「……何が言いたいのよ?」

 東雲さんが、警戒しながら俺を見返した。

「これで、もう山まで行く必要はないだろ? 朝起きたらもう学校なんだ。随分、登校も楽になるんじゃないか?」

 一度経験して分かったが、いくら低山とは言え、あの山を登るのはキツい。慣れているとはいえ、女の子である東雲さんが、平気な筈がない。

 案の定、東雲さんの表情に思案の色が混じった。しかし、まだ納得するほどではない。

「なんだか……思い通りに動かされるみたいで、釈然としないわ」

 流石の面倒臭さだった。この気位の高さは、過酷な人生経験の結果というよりは、彼女自身のパーソナリティに由来している部分が大きい気がする。というか、同じ記憶障害を発症しても、彼女でなかったらここまで拗らせなかったのではないか、とすら思ってしまう。

(まぁだからこそ、柄にもなく、お節介になるのかもしれないな)

 優しいのに素直になれない。単なるツンデレの原材料が、記憶障害が触媒になってとんでもない化学反応を引き起こした。思わず、何とかしてあげたくなる。だから……

「本当は、学校で〝友達〟と一緒に過ごすと、楽しくなっちゃいそうで怖いんでしょ?」

 普通に、挑発することにした。気難しい彼女を動かすには、この方法がきっと、正解だ。

「は?」

分かりやすく、彼女のこめかみに青筋が立つ。

「そんな分かりやすい挑発……あなた、私を馬鹿にしているでしょ?」

「まさか、滅相もない。ただ単に、東雲さんはそうなんじゃないかなと思っただけだよ。案外、寂しがり屋な気がするし」

 俺の言葉に合わせて、東雲さんの目がスーッと細くなっていく。一瞬、その迫力に気圧さそうになったが、なんとか踏みとどまって、その目を正面から見返した。

「……えぇ、良いわ。その挑発、乗ってやろうじゃない。その代わり、もし私が楽しまなかったらその時は……覚悟、出来ているわね?」

 にらみ合いの末、先に動いたのは東雲さんだった。俺が右手に持っていた入部届をサッと奪い取ると、ポケットから取り出したペンを片手に、さらさらと必要事項を記入していく。

「はい。じゃあこれで勝負開始ね。もし私が楽しまなかったら、あなた一生、私の下僕だから」

「下僕!?」

 だが、最後の一言は流石に予想外だった。驚いた俺に口を挟む余地すら与えず、瀬川さんに入部届を押しつけると、悠々と屋上から出て行ってしまった。

「なんだか凄いことになったね……最後のやつ、大丈夫?」

 その後ろ姿を見送って、瀬川さんが気遣わしげに尋ねてくる。もう、苦笑するしかない。

「でも……流石に冗談だよね? 一生〝下僕〟なんて」

「……さぁ? どうなんだろ……」

 俺も冗談だと思いたいが、東雲さんの目つきはどうも本気だったように思えてならない。それに彼女なら……真面目に要求しかねない気もする。

「まぁ……勝てば良いんだよ。うん、勝てば良い」

 自分に言い聞かせるように繰り返す。瀬川さんが「ハハハッ」と乾いた笑い声をあげた。

「きっと大丈夫だよ。凛さん、部活に入ってくれたし」

 言いながら、ようやく実感が湧いてきたのだろう。次第に、瀬川さんの顔が綻んでいく。

「ありがとう。ちょっと夢みたい。凛さんが入ってくれるなんて」

 余程、嬉しかったに違いない。目尻には、僅かに涙まで滲ませている。流石に大袈裟なその反応に、思わず尋ねてしまった。

「夢みたいって……そんなに嬉しいの?」

「うん。色々と諦めてたから。なんか、運命感じちゃって」

 答えてから、瀬川さんは涙を拭ってニコッと笑った。どうにも目的語がはっきりしない答えだったが、改めてそれを問い直す前に、瀬川さんは立ち上がる。

「じゃあ、そろそろ私たちも行こうか」

 言われて時計を見ると、そろそろ次の予鈴が鳴りそうな時間になっていた。

「ホントだ。急ごう」

 俺も慌てて、昼食が入っていたコンビニ袋やら何やらを纏めると、瀬川さんに続いて立ち上がる。この時間だと……教室まで、少しだけ走る必要があるかもしれない。

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