第2話
予期せぬ出来事でライフ残高をごっそりと削られた俺は、結局高校の初登校日まで、家でじっと大人しくしていた。もちろん、引越し後の荷解きやら自炊用の食材の確保などやることは色々あった訳で、部屋の隅で一人蹲っていた訳では無い。それでも、色々なことへのやる気がスーッと綺麗に失せてしまって、積極的に外に出て行こうとは思えなかった。
だけどそのお陰で、万全な状態で今日を迎えることが出来た訳だから、それはそれで良しとするべきなのかもしれない。疲れた状態で転校初日を迎えては、初っ端から躓くことになりかねない。それは何よりも、避けなければいけない事態だった。
両親と死別して以降、孤児院から早く出て独り立ちするために捧げた努力の数々は、今日から始まる日々のために為されてきたのだから。
(どうか、楽しいクラスでありますように……)
だからこそ、担任に連れられて教室の前に立った時の、俺の祈るような心境は、他の転校生のそれと比較しても決して劣るものではなかったと断言できる。果たしてこの切実な祈りを聞かずして、一体神は他にどんな祈りなら聞いてくれるというのだろか?
なんて……そんな大仰な表現を使うほど、俺の心は、一枚ドアを隔てた向こう側への期待と不安で一杯になっていた。
(大丈夫。心ある神様なら、きっと叶えてくれるに違いない)
緊張で固くなる自分自身の心にそう強く言い聞かせると、教室のドアを開け放った担任教師の後に続いて、そのクラスに足を踏み入れた。
ぱっと見は、なんの変哲もない普通のクラスだった。この時間から早弁をしているような奴もいないし、机の上を紙製の飛行機が飛び交っているようなこともない。良くも悪くも……いや、間違いなく良い意味で、尖った主張が見えないクラス。それが、俺の新しい二年七組というクラスだった。
(ふぅ……良かった)
心の中で安堵の息を吐いた俺は、緊張で固くなっていた首を巡らして、改めて教室の隅々までを視界に収めていく。その動きは……窓際のとある一角が目に入るまで、続いた。
(……うそだろ?)
視線の先にいるのは、一人の女子生徒。開いた窓からそよぐ風に髪を靡かせながら、教室の出来事などには欠片も興味無さそうに、頬杖をついてじっと外の風景を見つめている。
言うまでもなく、その生徒は先日バイクに乗せたあの女の子だった。
(こんな偶然……あり得るか?)
確かに、彼女がここの制服を着ていることには気付いていた。だがそれにしても、この高校には全部で二十一クラスあるのだ。まさか同じクラスになるなんて、誰が思うだろうか?
だが、いくら疑ってみても目の前の事実は変わらない。そして逃れられないもう一つの事実は、俺は今、現在進行形で教壇に立ち、そしていつまで経っても始まらない自己紹介に、怪訝な表情を浮かべるクラスメイトの数が、着実に増えつつあるということだった。
(落ち着け。まずは目の前のことに集中しろ)
こんなことで、転校初日を失敗に終わらせる訳にはいかない。無理やり視線を窓際の彼女から引き剥がすと、咳払いを一回。何事もなかったかのように、自己紹介を始めた。
まずは名前。『瀬名光琴(せなみこと)』。字が少し特殊であるため、黒板に書いてみせる。その後は、元いた場所や趣味やらの話を少々。事前に考えていた通り、過去の事故や両親の死、それに纏わる苦労話はすべてカットして、当たり障りのない話に終始する。
出来は……上々だった。動揺を見事に抑え込んだ俺は、吃ったり台詞を飛ばすこともなく自己紹介を終え、再び安堵の息を漏らす。
だが……すかさずその吐息を、担任教師の言葉が掻き消した。
「あそこの窓際の席。誰も座ってないでしょ? あそこが瀬名君の席ね」
「……」
今度こそ、絶句する。だってそうだろう? 街に着いて初めて出会い、更には軽くトラウマを植え付けていった女性と同じクラスになるどころか、席が隣同士になる。こんな偶然が、現実にあり得るだろうか? あまりにベタ過ぎて、今時小説にもならない。
(でもこれはもしかして……期待しても良いってことなのかな?)
楽しい学園生活を神様に祈った直後に起こった、この奇跡的な出会い。ベタだからこそ、それは単なる偶然などではなく、紛れもなく運命の悪戯なのかもしれない。
(そうだ。そう思うことにしよう)
内心で大きく頷くと、真っ直ぐに自分の席に向かう。吹っ切れてしまえばもう大丈夫。むしろこの運命的な再会は、きっと輝かしい青春の日々を運んでくれるに違いない。
(まったく……神様も中々粋なことをしてくれる)
すっかり心が軽くなった俺は、意気揚々、新しい席に腰を下ろした。
『この間は、助けてくれてありがとう』
もしくは、
『偶然ね。まさか、同じクラスになるなんて』
こんな会話で始まるラブストーリーは、きっと物語としては百番煎じくらいなのだろう。しかしそんなこと、現実に生きている身からすればまったく気にならない。むしろ王道である分、分かりやすくて良いまである。だから…………待った。
具体的に言うと、一日の授業がすべて終わるくらいまで待った。その間、クラスのほとんどの人には話しかけられた。みんな良い人たちだった。しかし如何せん。肝心の彼女からは、一言も話しかけられることは無かった。いやそれどころか、一瞥もされなかった。
(おいおい……ちょっと待ってくれよ)
しかも俺を困惑させたのは、それだけではない。なんと彼女は遂に一度も、クラスの誰とも目を合わせなかったのだ。そしてクラス中のみんなも、まるで彼女が居ないかのように振る舞う。誰も彼女に話しかけず、彼女を見ようともしなかった。
(もしかして……)
その様子を見て、あの日の駐車場での出来事を思い出す。あの時は、感情を見せない彼女のことを普通の人間とは思えなくて、まるでアンドロイドみたいだなんて考えたりしたが……
(アンドロイドっていうより、むしろ……幽霊?)
実は、彼女の姿を見ることが出来るのは俺だけで、他の人には見えていないんじゃないか? しかも、彼女の死には恐ろしい怪談話が付き纏っていて、それを恐れてみんな、あの席に近寄らないようにしているんじゃ……
彼女が不良に絡まれていたことなってすっかり忘れて、そんな馬鹿なことを本気で検討の俎上に上げ始めた、丁度その時。
「凛(りん)さん。これ、先生が渡しておいてくれって。進路選択のプリント」
「……ありがとう」
〝幽霊〟が窓からチラリと目を逸らして、話しかけてきた女子生徒を一瞬見やると、なんとそこに言葉まで添えた上で、差し出されたプリントを受け取ったのだ。
どうやら、最近の幽霊は人と会話ができる上に、更には物質に触ることも出来るらしい。
(…………)
いや、分かっている。ちょっとした現実逃避だ。当たり前のことだが、案の定、すべてはただの妄想だったらしい。
「はぁ……」
なんだか酷く虚しくなって、小さく溜息をついた。誰にも知られないくらいの秘した嘆息。
しかし、その溜息に反応する人がいた。
「転校生君……光琴君だっけ? いきなり溜息?」
彼女にプリントを渡していた女の子だった。咄嗟に表情を作り、当たり障りない答えを返す。
「さっきの数学の授業が難しくてさ。それで溜息。流石、この学校は授業が進んでるね」
あながち、嘘ではない。普通よりも授業の進度は大分早いし、下手をすると青チャートに載っているような例題が出されるほど、内容も難しかった。つい先日復習をしていなかったら、危なかったかもしれない。
「う〜そ」
だがその女の子は、唐突に悪戯っぽい笑顔を浮かべてそう言うと、耳に顔を寄せてきた。
「凛さん――東雲凛(しののめりん)さんのこと、気になってたんでしょ?」
俺一人だけに聞こえるようにそう囁く。耳元で感じる彼女の吐息に、思わず息を呑んだ。
「……何でそう思ったの?」
やや間を置きつつも、内心の動揺を隠して聞き返す。幸い、彼女はそんな俺の様子には気付かなかったようだ。恐らく、隣の席の女子生徒――東雲さんに聞かれないようにするためだろう。変わらず耳元で話し続ける。
「見てれば分かるよ。光琴君、少しソワソワしてたから。それに凛さんって美人だから。初めて見た男子は大体同じ反応するの。溜息まで吐くのは、もう何日か経ってからが多いけど」
「え? みんな溜息を吐くの?」
「うん。凛さん、誰ともお話しないから。それに、絶対に笑わないし。お笑い芸人目指してるって有名な先輩が、一度笑わせに来たことがあるんだけど、結局ニコリともしなくて。肩を落として溜息吐きながら帰っちゃった。でもその先輩、その年のN‐1グランプリでベストアマチュア賞を獲ったんだよ」
「へぇ……それは東雲さん、かなりの強者だね」
それで笑わないなら、もう彼女を笑わすのはほぼ不可能だろう。
「じゃあ東雲さんって、友達とか一人もいないのかな? この学校にはいなくても、例えばほら、同中の人とか」
「残念なことにね。ちなみに、このクラスで東雲さんと同じ中学なのは私だけ」
「あ、そうなんだ。じゃあ……え〜と」
「美雪だよ。瀬川美雪(せがわみゆき)」
「瀬川さんね、宜しく。じゃあ瀬川さんは、中学時代から東雲さんを知ってるんだ。その時から、ずっと話さないの?」
「そ。話さないよ。事務的な会話くらいはしてくれるけど。だからみんな、最終的には倦厭しちゃって。嫌われてるわけではないんだけどね」
その言葉を聞いていると、瀬川さんの困り顔が見えるようだった。どうやら本気で、東雲さんのことを心配しているらしい。次の言葉にも、それが表れている。
「そういう訳だから、光琴君も気にかけてあげてね。相手にはされないかもだけど……でもやっぱり、孤立してるのは寂しいと思うから。卒業まで、みんなで楽しく過ごしたいしね」
どうやら、瀬川さんが言いたかったのは今の言葉だったらしい。それを言えて満足したのか、俺からサッと顔を離すと、可愛らしいウインクをその場に残して、自分の席へと戻って行った。
「良かったな、〝いいんちょ〟と話出来て」
すると間髪入れず、今度は背中越しに男子に話しかけられる。ちなみにこの男子のことは、既に知っている。日下隼人(くさかはやと)。朝のクラスルーム後、真っ先に話しかけてくれた人の一人で、現状では一番仲が良い友達だと言っていいと思う。
「話をしたって程でもないけどな。それより、いいんちょって何?」
予想はついたが、一応聞いてみる。答えは案の定、そのまんまだった。
「クラス委員長だから、いいんちょ。『委員長の鑑』とか言われて、学内では結構有名だよ」
「へぇ、なるほどね」
確かに、『卒業までみんなで楽しく』とか、随分委員長然としたことを言っていた。どうやら、言動通りの人らしい。
「あと、ちなみにな」
不意に隼人が耳打ちする。更にはちょいちょいと手招きして、俺を教室の後方へと誘った。
「? なんだよ?」
首を傾げながらついて行く。すると、席から随分離れた所で、ようやく隼人が止まり――
「おまえの隣の席の子――東雲凛さんが、いいんちょの対極にいるような子だよ」
と、そう言った。
「対極? 誰とも話さないし、笑わないとは聞いたけど」
「そう。所謂、陽キャの人気者代表がいいんちょで、陰キャのそれが東雲さんってこと」
「人気なの? 誰とも話さないのに?」
「めちゃくちゃ美人だからな。うちのクラスにはもう流石にいないけど、中にはダメ元で手を出す奴が一定数いるんだよ。んで、そういう奴らは軒並み、屍を地面に晒すことになる。それでついた二つ名が『酷薄の破壊者』」
「あぁ……」
恐らく、『酷薄』と『告白』をかけているのだろう。果たして彼女がそんな二つ名を付けられるほど冷酷な人間かどうかは分からないが……少なくとも、ニコリともしないその能面に加えて、告白してきた男子の心を『破壊』するほどの一言を放つのであれば、そんな二つ名を付けられてもおかしくはない気はする。
「分かったか? だからお前も、安易に彼女に手を出そうとするな。友達がGWを迎える前に学校から消える姿は、もう見たくないからな」
「!? おい。それって……」
そんな前例が!? と、そう問いただそうとしたが、隼人が俺の両肩を掴み、首を振った。
「これ以上深入りするな。酷薄の破壊者なんて物騒な名前、十や二十の骸が横たわった程度で付くわけがないだろう?」
芝居がかった口調でそう言った隼人は「じゃ! 俺は確かに言ったからな」と不穏な言葉を残して、自分の席に戻っていった。最後に、バシっと俺の背中を叩くのも忘れずに。
改めてもう一度、東雲さんの後ろ姿を見る。相変わらず、窓の外に視線を這わせ、誰かと話そうという気配はまったくない。
(変な期待は……捨てることにしよう)
心密かに、自身にそう言い聞かせる。奇跡のような出会いでも、それが運命的な出会いになるとは限らない。そんな当たり前のことを、強く胸に刻みながら。
それからは、あっという間の一週間だった。新天地での高校生活は、思い描いていた姿そのもので……級友とダベリ、放課後に寄り道し、みんなでカラオケに行く。まだ部活には入っていなかったが、それでも十分に青春っぽいことをやれていた気がする。不満に思うことは何もなく、明日を楽しみに思って就寝する毎日。だから気づくと……もうこの日になっていた。
週末の日曜日。
昨日初めて自宅に招いた友人が食べ散らかして行ったお菓子の残骸を片付けると、押し入れの中に閉まっていたバックパックを手に取り、マンションを出る。まだ時間は朝の六時。隣人に出会うこともない。
道中の景色をゆっくりと楽しみながら、鳥の囀りに耳を傾けながら、そして次第に大きくなる早朝の喧騒を肌で感じながら、目的地へと向かう。目的地とは、今は閉鎖されたキャンプ場。
八年前、この街に引っ越すことが決まった俺たち家族が、新生活の前にこの街の良さを体感しようと思い至って、訪れようとした場所だ。だが結局、その道中で事故を起こし、そのキャンプ場へは辿り着けないまま、両親は亡き人となってしまった。
だからそこは、謂わば家族の心残り。その象徴のような場所が、今目指しているキャンプ場なのだ。そして俺はある時から、是が非にも、そこに行きたいと思うようになった。
俺を縛り付けている過去のしがらみと訣別し、未来に向かって歩き出すには、それが必要な儀式のような気がしたから……
「さて……この道で良いのかな?」
雑草が生い茂る登山道を登りながら、念のため地図を確認する。この山の一番の名物だったキャンプ場が、その頃に世界で大流行した感染症の余波を受けて閉鎖して以降、この山を登る人は激減したらしい。その結果、山道の整備も疎かになり、時間と共に登山道が草に覆われ、その代わりとでも言うように、獣道が至る所にでき始めた。登山経験がない俺には、その差を見分けるのは難しい。間違った道に入ってしまわないように、よく用心して進む必要がある。
「…………」
なんて……そんな用心をしていたのが、今から八時間前。
驚くべきことに、まだ、山肌を登り続けていた。
勿論、そんなにかかる距離ではない。本来であれば、徒歩でも三時間もあれば踏破できる程度。だが、未だに目的地に着かない。どころか着く気配すらない。どう考えてもおかしい。
とはいえ……心当たりはある。それは、徐々に山道の荒れ具合が目に付くようになり、道を遮るように生い茂る枝を掻き分ける頻度が多くなってきた頃だ。
目の前に、倒木があった。その倒木は見事に道を塞ぐように横たわり、まるで侵入者を拒む門番のようだった。だが、超えられないことはない。少し頑張って跨げば、問題なく超えられる。だから一瞬だけ迷ったものの、そのままその倒木を乗り越えて先に進んでしまった。
だってそうだろう? その道が正しい山道であると思っていたし、何よりこんな所で引き返してしまったら、一体自分は何をしにこの街に越してきたのか分からないではないか。
この道を超えて、今はもう閉鎖されたキャンプ場に辿り着く。それがこのトワイス・ボーンを求める旅路の終着点であり、それを欠かしたら、すべては文字通り無意味になるのだ。そんなこと、許容できる訳がない。でも……
それから何時間も経った今となっては……もはや後悔の方が大きい。せめて、案内役の人でも頼むべきだったのだ。低い山だと油断して、素人が軽々に手を出すべきでは無かった。
そしてそんな後悔は、夕立に降られるに至って決定的になる。当然、雨対策などしてこなかった俺はあっという間にずぶ濡れになり、更には服が乾く暇もなく陽が落ちていく。
山の天気が変わりやすいというのは本当だ。気づいた時には豪雨によって視界を奪われて、その豪雨が去った時には、太陽の光もほとんど差し込まなくなっている。
俺は一瞬にして、濡れ鼠のまま、薄暗闇の中を彷徨う羽目になった。
しかも今の季節は四月だ。冬の寒さは過ぎ去り、コートはとっくに脱いでいる。しかし、夜はまだ肌寒い。それも、山の中となれば尚更だ。平気で氷点下近くまで気温が下がる。
そんな中、装備はずぶ濡れのTシャツ一枚だけ。
(普通に……死ぬかもな。これは……)
昨日までは完全に他人事だった『遭難』のふた文字が脳裏に浮かぶ。確か、民間の捜索隊が出動したら、その実費はすべて遭難者負担だ。ヘリコプターでも出動した日には大変なことになる。たとえ生きて帰れても、新生活のために蓄えたなけなしの貯金が溶けて消えてしまうことは、想像に難くない。
(ダメだ……それだけは!)
そんな未来に思いを巡らし、慌ててそれを否定する。トワイス・ボーンどころじゃない。俺の人生がそこで終わる。
居ても立っても居られなくなり、とにかく上を目指して駆け上がる。下に戻る選択肢もあったが、ここまで登ってきた分、まだ上に行く方が良い気がした。元キャンプ場に着きさえすれば、放置された施設で一晩を越すくらいは出来るはずだ。
そして、更に一時間後。
陽が完全に落ち、一寸先も見えなくなって尚、まだどこにも辿り着くことが出来なかった。
もうその頃になると心底疲れ果て、歩くことも困難になっていた。落ち切った気温は俺の身体から容赦なく体温を奪い続け、ガタガタと震えが止まらない。本当に、もう限界だった。
(あ〜あ)
その場に膝をつき、空を仰ぎ見る。酷い人生だった。両親を失い、一人になって、それでも必死に生きてきて、ようやく未来に向かおうとした矢先にこれだ。
それとも、これは何かの罰なのか? あの事故では俺の両親だけでなく、相手方も大勢死傷している。そんな大事故を起こした人間の息子が、一人幸せになるなんて、許されないとでも言うのだろうか? あるいは、ここを目指して死んだ両親が死後この山に行き着いて、遅ればせながらやっと到着した一人息子を、迎えようとしているのかもしれない。
(いや……馬鹿なことを考えるな)
折れそうになる心を叱咤し、無理やり足に力を込める。ここで諦めたら終わりだ。最後まで粘ってやる。絶対に……絶対に……一歩も動けなくなるその時まで――
俺は立ち上がった。頭を上げて、視線を上に。折れていた膝をもう一度立てる。
「……あれ?」
だからこそ、気づけた。立ち上がった視界の先に、小さな火が揺らいでいるのを。
小さな光。揺らめいて弱々しい。それでも今の俺にとっては、紛れもない光明だった。
最後の力を振り絞る。折れそうになる両足に喝をいれ、一歩一歩を踏み締める。
遠い……遠い……
疲れ果て、凍えるこの身にはあまりにも遠い。それでも……一歩進めばその分近づく。どれだけ遠くとも、一歩進めば確実に近づく。なら俺に出来るのは、ただ足を動かすことだけ……
どれくらい、歩いただろうか? もうそんなことも分からない。時間感覚も、距離感覚も、ついでに平衡感覚すらも失って……それでも、登り切った。
登り切って、遂に倒れる。光を目前にして、ほとんど光に辿り着いて、そこで力尽きる。
もう立ち上がれない。完璧に、全ての力を使い果たしてしまっていた。
ここまでだ。冗談抜きに、誇張なく、なんの嘘偽りもなく。もう、一歩も動けない――
「ねぇ……大丈夫?」
その時だった。
倒れ伏した身体の上から、誰かの声が降ってくる。
それは女性の声。どこかで聞いたことのあるような、それでいて初めて聞くような……ただ一つ言えるのは、その声がとても澄んでいて、まるで天使のような声だったということ。
だから、もう一度だけ力を振り絞って、ゴロンと仰向けに寝返りを打つ。最後に天使の顔を拝みたいという欲求は、それくらいの頑張りなら引き出してくれた。
仰向けになった視界に映ったのは、満天の星空だった。鬱蒼と生い茂った木々に隠れてほとんど見えなかった星空が、今は視界一杯に広がっている。信じられないほど綺麗な光景だった。
そしてそんな天上の景色の中に、ひょこっと人の顔が現れる。言うまでもなく、天使の声の主。困惑を色濃く湛えたその表情で、彼女は更に言葉を紡ぐ。
「……まさか……瀬名君?」
自分の名前が出てきて、ようやく気がついた。その天使の顔には、見覚えがあった。声も、よく思い出してみれば聞いた記憶はあった。そうだ。彼女は――
「東雲……さん?」
そう。クラスの誰とも話さない絶世の美少女。多くの男子を失意の大海に沈めてきた酷薄の破壊者。この一週間で、声を聞いたのは数えるほどだ。そんな彼女が、俺を見下ろしていた。困惑の色は既に引っ込み、その顔には心配そうな影が過ぎる。そして――
「つかまって」
東雲さんはその場で膝をつき、片手を差し出した。
正直、この一週間で抱いた東雲さんの印象とは大分違っている。独りを愛し、他人には無関心。更に言えば冷淡。二つ名の影響もあってか、そんな印象を持っていたのだ。
でも……心配そうに手を差し伸べる姿には、そのような印象は当てはまらない。
俺はやや困惑しながら、それでも状況に流されるように、彼女の手を掴んだ。
直後、引き上げられる身体。その身体を支えるように、素早く俺の腕を自分の肩にかける東雲さん。更に脇に手を回し、崩れ落ちそうになる俺を支えてくれる。
「少しだけ歩くから」
そして一言そう言うと、ゆっくりと二人三脚で歩き出した。どこに向かっているのかは分かってる。ほんの数メートルほど先にある焚き火。俺をここまで導いてくれた灯台だ。
たっぷり時間をかけて焚き火のそばに行き着くと、東雲さんの手を借りて横たわった。
(暖かい……)
その一言に尽きた。勢い良く燃える炎が、すっかり奪われていた熱を再び与えてくれる。
やっと暖を取ることが出来て人心地ついていると、隣で東雲さんがリュックを漁り始めた。やがて中から、赤色のジャージとTシャツ、更には厚目のジャンパーが出てくる。
「下着は女物しかないから駄目だけど。寝巻きで持ってきた服があるから。着替えて」
どうやら、俺に貸すためにわざわざ取り出してくれたみたいだ。けれど――
「いやいや! 良いよ、そこまでしてくれなくても。ここにいれば直ぐに乾くだろうし」
反射的に、断っていた。女の子の服を借りるという行為に、何とも言えない罪悪感を覚えたからだ。しかし、東雲さんは首を振った。
「駄目よ。服が濡れていると体温を奪われ続ける。気付いていないんでしょうけれど、瀬名君、凄く冷たくなっているわよ。だから、早く着替えなさい」
「でも……」
尚、遠慮しようとする。そんな俺に飛んできたのは、今度は言葉ではなかった。
ポフッ
気の抜けた音と共に、視界が真っ暗になる。同時に、香水とも洗濯剤とも違う何とも言えない良い香りが鼻腔を満たす。
「早く着替えて。後ろ、向いてるから」
思わず起こした腹の上に、東雲さんのジャージが落ちる。そしてその向こうでは、反対側を向いて体操座りをしている東雲さんの姿。
流石にここまでして貰ったら、着ない訳にはいかない。出来るだけ顔が布地に触れないように気をつけながら、Tシャツに袖を通した。
一時間も経つと、大分身体も暖まり、随分体力も回復してきた。だから今は、東雲さんと並んで座り、ボーと焚き火を見つめている。
会話はない。最初こそ東雲さんは色々と気にかけてくれていたが、俺の世話にひと段落つくと、もうそれ以上口を開くことはなく、この定位置に収まってしまっている。
俺はというと、そんな東雲さんを横目でチラチラ見ながら、ずっと考えている。
(何故、彼女は独りなのだろうか?)
彼女が独りなのは、それを好んだ結果なのだと思っていた。しかしそういう人間は、基本的には他者への関心が薄く、かつ冷たい。もちろん、中には例外もいるだろうが、彼女の場合、並の〝独り〟ではないのだ。『基本一人でいるのが好き』とかいうレベルではなく、誰も寄せ付けないほどの強烈なオーラを周囲に放ち、実際に一週間、ほとんど誰とも話さず過ごす。まるで、他人に向ける時間はすべて無駄だと言わんばかりに。
でも、さっきの彼女の対応を見る限り、その考えが間違いであったことが分かる。突然ずぶ濡れで現れた俺を心から心配し、手を差し伸べ、更には着替えまで貸してくれた。他人のことがどうでも良ければ、とてもここまでのことはしてくれないだろう。
(もしかして、照れ屋なだけだったりして)
そんなことも考えてみる。実はみんなと楽しくやりたいけど、恥ずかしくてみんなの輪に入れない……
一瞬、ありそうかなと思ったけれど、男子である俺に躊躇なく服を貸してくれた姿を思い出し、やっぱり違うなと思い直す。
「はぁ……」
夜空を見上げて溜息をつく。考えても埒があかない。その答えを見つけるのは、この星空の中から生命が存在している星を探すようなものだ。
「星が好きなの?」
だから半ばやけくそになって、頭に浮かんだ言葉を口に出した。どうせ聞くなら、もっと聞きたいことは山ほどあったが、口から出てきた言葉がそれなのだから、仕方ない。
「別に。好きじゃないわ」
答えは、すぐに返ってきた。しかし、その内容は結構意外。何もない山に夜まで居座り、満天の星空の下で焚き火を囲む。それで星が好きでないなら、一体何がしたいんだという感じだ。
「じゃあ何でこんな所に?」
相変わらず、思ったことが口から飛び出す。普段の俺なら、もう少しオブラートに包んだ言い方をするだろう。でも、東雲さんは気にした様子もない。簡潔に一言で答えを返した。
「星が嫌いだから」
「……は?」
今度は、きっといつの俺でも同じ返しをしたに違いない。
「ついでに、虫も嫌いだから」
そして、更に不可解なことを言い募る。だがその直後、東雲さんは僅かに俯くと、聞こえるか聞こえないかくらいのギリギリの声で、こう続けた。
「でも……家にはいたくないから」
「家に……いたくない?」
東雲さんは頷く。
「私が家にいると、おとうさんとおかあさんが不幸になるから。あんな良い人たちなのに、私のせいで辛い目に遭って欲しくない」
まるで謎かけのような言葉だった。恐らく、色々な事情が交錯しているのだろう。今の言葉だけで分かることはほとんどない。ただ、一つだけ……俺に両親がいないからこそ、沢山の孤児の中で育ったからこそ、分かることがある。
「東雲さんは今……里親の所に?」
生みの親と一緒に暮らしている人は、自分の両親のことを『あんな良い人たち』なんて他人行儀な呼び方はしない。
「そう……よく分かったわね」
案の定、想像通りだったらしい。東雲さんが少し驚いた顔をしてこちらを見る。
だから、すぐに種明かしをした。
「俺にも両親がいないからね。子供の頃に事故で死んじゃって……それからはずっと孤児院暮らし。今年になって、ようやくそこを出て一人暮らしを始めたんだ」
言ってから気付く。そう言えば、自分の身の上話をこっちではしないつもりだった。東雲さんが自分と近い境遇だったから、つい口が軽くなったみたいだ。
そしてどうやら、それは東雲さんも同じらしかった。教室での様子からは考えられないほど、色々なことを話してくれる。
「……私もそうよ。交通事故に巻き込まれて両親が亡くなって……でも私の場合は親戚の叔父さん夫婦が引き取ってくれたの。今の私のお義父さんとお義母さん。それからずっと、そこで暮らしている。二人は本当の子供みたいに、私のことを大事にしてくれた」
どうも、東雲さんの言葉には良く分からない表現が多い。今もそうだ。まだ親戚の家で世話になっているのだから、本来なら『私のことを大事にしてくれている』と、過去形でなく現在進行形で表現する方が正しい。にもかかわらず、そうしない。きっとそこに、東雲さんの発言の中に含まれる、数々の疑問に対する答えがあるように感じた。
でも……果たしてそれを聞いても良いのだろうか? それは間違いなく、彼女のプライベートに触れる事柄だろう。会ったばかりのクラスメイトでしかない俺が、そこまで踏み込んで良いのだろうか?
そう思い、躊躇う。躊躇いがちに、チラリと横の東雲さんを見やる。そして……
言葉を失った。こんな哀しそうな顔を見たのは、生まれて初めてだったから。
泣いている訳ではない。顔を歪めている訳でもない。はたから見たら、無表情に分類される程度かもしれない。それでも確かに……彼女は泣いていた。心の底で哭いていた。一体、どれだけの哀しさを抱え込んだらそんな表情が出来るのか。俺には想像すら出来ない。ただ……
一つだけ分かったことがある。
彼女は何かを独りで抱え込んでいる。誰にも頼らず、もしくは頼れず、あるいは頼っても仕方がないと見切りをつけて。だからこそ、彼女はこうまでも完璧に〝孤高〟なのだ。幸福の花園から一線を画し、不毛な砂漠の只中で超然と涙する。それがきっと彼女の在り方なのだろう。
(でも……)
しかし、俺は同時に思ってしまう。
(そんなのは……あまりにも、悲しすぎる)
一人でいる苦しみ。それを俺は誰よりも、よく知っているから……
「俺の父親は……人を殺したんだ」
だから俺は、それを告げることにした。その突然の独白に、ビクッと東雲さんの肩が震える。
「もちろん、故意じゃなくて過失ではあるんだけど。それでも、人を殺したことに変わりはない。しかもその事故で父親自身も死んじゃったから、唯一生き残った俺は色々と苦労することになったよ。親戚はみんな逃げちゃったし。世間からは、〝殺人犯の息子〟って揶揄されて……しばらくの間は随分塞ぎ込んで、世界の不幸を全部背負ってるような気になって。でもそれでも……時間が解決してくれた。辛い過去は次第に薄れていって、取り組むべき現在が道になって、望む未来がその先を照らしてくれた。だから今の俺がある。東雲さんは……違うのかな?」
何かが彼女の現在に影を落とし、未来に蓋をしている。そう直感していた。そしてそれが過去の事故に端を発したものであるなら、同じ経験をしてきた俺が役に立てることもあるかもしれない。彼女が〝孤高〟以外の選択肢を見つけるきっかけになれるかもしれない。
そう――思ったのだ。でも……
「解離性健忘症って知ってる?」
俺は、思い知ることになった。東雲さんは――もうそんな簡単な地点には、いないのだと。
「過去の心的外傷によって引き起こされる記憶障害。聞いたことくらいはあるわよね? 私はね、その中でも特に珍しい症例者なの。なぜなら、私が忘れるのは……〝幸福な記憶〟だから」
「幸福な……記憶?」
「そう。しかも、新しい情報の記憶が困難になる前向性と、過去の記憶が失われる逆行性、この両者の性質を帯びている。だからね」
東雲さんの顔が、笑顔の〝形〟になった。
「私は幸福というものを知らないの。本当の両親の顔を覚えてすらいないの。あの事件――小学生の頃に両親を奪った事件を境として、それ以前の幸福は綺麗に流れて消えてしまって、それ以降私に訪れた幸福は、何一つ私の中には留まらない」
一瞬にして、東雲さんが無表情に戻る。
「だから私にとって、楽しい現在なんて不要なの。幸福な未来なんて苦痛でしかないの。だって、すべて忘れてしまうんだもの。後に残るのは、ぽっかり空いた空白の時間だけ。そんなものが、私にとっての幸福の証であり、そして同時に――」
ようやく理解した。彼女が立つ地平を。彼女が生きる世界を。
「それは、死ぬまで続く不幸の烙印でしかない」
彼女の世界には……もう不毛な砂漠しか残っていないのだ。
「だからね、あなたの質問に答えるわ。私はあなたとは違う。薄れていくような過去はないし、取り組むべき現在もないし、望む未来もない。あるのは、延々と続く人生(さばく)だけ」
それだけ言うと、彼女は俺から目を逸らし、焚き火を見つめながらポツリと溢した。
「分かったら、あなたもこれ以上私に関わろうとはしないことね。砂漠は肥沃な大地を侵食する。その死んだ土を運び込み、砂漠を周囲に広げ続ける。私はそういう存在なの。私に関われば、きっとあなたは不幸になる。私を引き取ってくれたあの人たちみたいに。私はもう、優しい人が〝優しいから〟という理由で不幸になる姿は見たくないの」
そして、再び俺に顔を向ける。今にも泣き出しそうな悲しげな顔で、優しく語りかける。
「分かった?」
その優しげな声が心に浸透し、愚かな俺を責め立てる。
(あぁ……なんて、馬鹿な勘違いをしていたんだろう)
彼女は人に無関心であった訳ではない。無関心であろうと努めていただけなのだ。彼女は人に冷淡であった訳ではない。冷淡であることを己に課していただけなのだ。彼女は人に頼らないことを善しとしたのではない。人に頼ることを罪としたのだ。そんな彼女に……俺なんかとは比べ物にならないほど重いものを背負っている彼女に、掛けてあげられる言葉なんてあるのだろうか? 慰めになる言葉を、投げ掛けてあげることなんて出来るだろうか?
(…………)
無理だ。出来る筈がない。同じ孤児とは言え、彼女と俺ではまるで違う。彼女の壮絶なまでの体験は、生半可な優しさや同情が及ぶ範囲の埒外だ。俺には彼女を、励ましてあげることなんて出来ない。出来ない……けれど。
でも……それでも……
「……分からないな」
「はい?」
顔を上げた。優しい言葉も、同情に満ちた言葉も掛けてはあげられないけれど、それでも、これだけは言っておきたかった。
「東雲さんの事情は分かった。親しい人を作らない理由も分かった。でも、東雲さんと関われば不幸になる理屈は、全然分からない」
彼女の顔を真正面から見つめ直して、ただそれだけを言う。何故なら、彼女は勘違いをしているから。彼女と関わって不幸になるのは、あくまで不幸になる側の自己責任だ。
「――ッ! だから……」
だけど当然、東雲さんはそんな風には考えていない。綺麗な眉を苛立たしげに吊り上げて、俺を厳しく睨みつける。
「私は、幸福な記憶を何一つ積み上げられないの。どれだけ楽しくても、幸せでも、翌日には覚えていない。楽しかった記憶と共に、その楽しさを共有した人のことも全部、綺麗さっぱり忘れてしまう。それがどういうことか、分かる?」
話しながら、徐々に語調が強くなる。平坦だった彼女の声が、僅かな起伏を帯び始める。
「裏切るのよ、親しくなった人をみんな。それでも、優しい人は諦めない。何度も何度も親切にしてくれて、その度に私は、裏切るの」
彼女の瞳が、僅かに揺れているのが見えた。
「裏切りたくないから、日記を残したこともあったわ。でもね、それは所詮仮面に過ぎないのよ。自分以外の誰かの仮面を身につけて、必死にその誰かを演じても、仮面の下ではどうしたって思ってしまう。『私に親しそうに話しかけるこの人は、一体誰?』って」
揺れた瞳はそのままに、今度は自嘲げに吐き捨てる。
「だから……私には無理だったわ。そのうちに少しずつボロが出始めて、そうでなければ私の心が耐えられなくなる。それでもなんとか乗り越えて、また新しく仲良くなっても、次の瞬間には忘れてしまって……また同じことの繰り返し。その繰り返しのどこかで、私は絶対にまた裏切るの。裏切って、傷つけて、自分もその人もボロボロになって……最終的にはみんな離れて行ったわ。しかもみんな、その目に涙を浮かべて『ごめんなさい』って何度も誤って……」
萎んでいく言葉。小さくなっていく声量。もうほとんど、囁いているみたいだ。
「しかもその謝罪をね、私は無表情で受け止めるの。日記の中では親しくて、でも誰かも分からないその人のことを見つめながら。ただ一人、静かにこう思うのよ」
東雲さんの目から、一雫だけ、涙が零れた。
「あぁ……また私は、この人を裏切ったんだなぁって」
その言葉を最後に、東雲さんは押し黙った。それは、無言のうちの意思表示。『分かったなら、もう自分には近づくな』という、彼女からのメッセージ。俺はそれを過不足なく受け取って。
にも、かかわらず――やっぱり、口走っていた。
「日記は演じるためのものじゃなくて、共有するためのものだと思うけどな」
ピクリと、東雲さんが震える。当たり前だ。俺だって驚く。今の話を聞いて、「可哀そうに」とか、「仕方ないよ」とか、そんな優しい言葉を掛けてあげない人間なんて、きっと碌でもない冷血漢に違いない。我ながら、嫌になってしまう。でも……
「取り繕うために一人で日記を読むから、それが仮面になるんだよ。でも、共有するために二人で読めば、それはきっと、〝糸〟になる」
言葉は止まらない。心の中のモヤモヤを押し隠して、彼女の境遇に形だけの同情を示せるほど、俺は人間として出来ていないから。
東雲さんは、そんな俺を訝しげな顔でじっと見つめて、それから一言、呟いた。
「……糸?」
躊躇わず、頷く。
「一時的に切断された二人を、もう一度繋ぎ直す糸。だから、最初の言葉に戻るけど……東雲さんと関わったら絶対に不幸になるなんてこと、あり得ないよ。少なくとも俺は不幸にはならない。むしろ、何度も何度も思い出を共有できる分、幸福だと思う。『ごめんなさい』の代わりに『ありがとう』って……何度も何度も、感謝すると思う」
正直身勝手なんだろう。過去を失う恐怖、親しい人を忘れる恐怖。これらに対する回答に、俺の言葉は全然なっていないのだから。単に、そばにいる自分は幸福だと伝えているだけ。彼女が幸福を抱けないことへの解決には、何一つ繋がらない。
でも、それは仕方がないとも思う。俺は単なる男子高校生。少しばかり普通の高校生より人生経験は豊富だが、彼女の悩みからすれば誤差の範囲だ。彼女が数年かけて辿り着けない答えに、一朝一夕に到達出来る訳もない。
(結局、自己満足だな)
そういうことなんだろう。誰かを不幸にすることしか出来ないと、勝手に自己規定している彼女への当てつけのようなもの。所詮は、意味を持たない独り言。
(らしく……なかったな)
少しだけ、自己嫌悪。誤魔化すように、ぐるりとその場で横になる。初めは自分を助けてくれた東雲さんを元気づけたいと思っていたのに、いつの間にか目的が変わっていた気がする。今まで一人で生きてきたくせに、らしくもなく人を励まそうとするからこんなことになるのだ。
「……馬鹿じゃないの」
そんな俺の後悔を後押しするように、頭上からはその一言。
「そんな上手くいく訳ないじゃない。きっとその時になったら、そんなお気楽なこと言っていられなくなるわ」
(そうなの……かなぁ)
反省モードで、考えてみる。確かに、彼女の過ごしてきた年月を想起してみると、肯定的な想像を否定する材料に満ちているのは間違いない。彼女のことを考えたら、「そうだね」と、最初から同情を示しておくべきだったのは言うまでもない。
「でも、俺もお気楽な人間だからな……」
彼女の隣の席になった時、それを神様からのプレゼントだと思ったくらいの楽天家だ。よく考えたところで、やっぱり東雲さんに泣きながら『ごめんなさい』を言う未来は想像できない。
「はぁ……本当に、馬鹿な人ね」
そんな俺を見かねたのだろう。小さい溜息が一つ聞こえて、次いで、隣からザザッと音がした。それは、人が横になる音。きっと、東雲さんも俺と同じように横になったのだろう。
「……やっぱり、私は星が嫌いよ」
しばらく経って、聞こえるその声。ぶっきらぼうながら、さっきまでの険は取れている。
ほんのちょっぴり安心して、問い返した。
「どうして?」
「だって、届かないもの」
答えは、間髪入れずに返ってくる。隣で、東雲さんが夜空に手を伸ばしたのが分かった。
「すぐそこに見えるのに、手を伸ばしたら届きそうなのに、決して届かない。欲しいと思って手を伸ばしたら、その光は自分の手で遮られるの。まるで、私にとっての幸福みたい」
今度は手を下ろす。静寂が辺りを満たす。彼女の息遣いだけが小さく聞こえる。そして――
「でも……こうして誰かと眺めるだけっていうのも、それはそれで悪くないかもしれないわね」
それが、今日彼女が発した、最後の一言だった。
「あぁ……悪くないな」
だから俺も、最後に一言だけ、そう返した。
***
凛は、隣で寝息を立てるクラスメイトを、静かに眺めていた。つい数時間前まで、生涯関わり合いを持たない他人以外の何者でもなかった彼。自分を守り、そして他人を守るために敷いた緩衝地帯の、外側に位置する人間に過ぎなかった彼。それなのに……
凛は自分の優柔さを悔いた。凛が唯一落ち着けるこの場所に現れたせいなのか、それとも自分と同じ孤児だったからなのかは分からないが、彼が緩衝地帯の内側に入り込むことを許してしまった。結果、久しく打ち明けていなかった心の内を、吐露する羽目になってしまったのだ。
(でも……)
悔いながらも、凛の心は妙に温かい。彼が口にした『ありがとう』という言葉がその理由であることを、悔しくも彼女は理解していた。
(だって……仕方ないじゃない。そんなこと、初めて言われたのだから)
かつて何度、「ごめんなさい」と謝罪を口にされただろうか。「可哀そうに」と、同情を示されただろうか。凛が記憶を失くしたことを知った人は、そんな凛の境遇を知った人は、皆一様に可哀そうな目を向ける。優しければ優しいほど、申し訳なさそうに顔を歪ませる。
それが凛には、堪らなく悲しかった。自分の欠陥性を突き付けられているような気がして、自分が愛を奪うばかりの存在だと、教えられているような気がして。
(でも……)
光琴が口にした言葉は、『ありがとう』だった。
分かっている。それは、机上の〝空言〟だ。さっき言った通り、いざその境遇に立てば『そんなお気楽なことは言ってられなくなる』に違いない。
(でも……)
それでも、初めてだったのだ。記憶を失った凛に対して、『ありがとう』という言葉をかける――そんな未来を見せてくれた人間は、紛れもなく彼しかいなかったのだ。
そして何より、その未来は凛にとって……
(……寝よう)
凛は、寝返りを打った。彼の顔をこれ以上見続けていると、無意味な妄想がどんどん大きくなっていってしまう気がして、少し怖かった。
だから凛は、彼に背中を向けて目を瞑る。彼女自身も気付かない程度に、僅かにその頬を緩ませて。傍らにひっそりと咲いたハルジオンが見守る中、微睡みの中へと落ちていった。
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