第11話 宿命の罅(ひび)

父に電話をかけるまでの指先は、驚くほど落ち着いていた。

着信音が二度、三度。呼吸を整える。

四度目で途切れ、受話器の向こうに低い声が落ちた。


「……もしもし」


知らない声。

だが、知っている。

鏡に映したはずのない自分の輪郭が、声だけで立ち上がる。


「どちらさまですか」


自分でも驚くほど平坦な声が出た。

相手は短く笑った。


風間颯斗。

名を口に出す前に、血の気が引いていた。

手から熱が抜け、携帯が掌で滑りかける。


「父に代われ」


返事はない。

静寂の底で、衣擦れの微かな音が混じる。

誰かが床を引きずる硬い音が一度だけ響いて通話が切れた。


息が戻ると同時に、背後で椅子がきしんだ。

湊が立ち上がる音だ。


「行くぞ。今すぐだ」


ためらいは一つもなかった。

静岡の署で待機していた刑事に伝えると、受話器の向こうで緊張が跳ねる。


「こちらからも都内に連絡を回します。現場に向かうまで、絶対に単独で入らないでください」


了解の返事を切り、二人は駐車場へ駆けた。

午後の陽は低く、国道を抜けるまでの信号がやけに長い。

湊は前をまっすぐ見据え、ハンドルを固く握りしめていた。

車内に流れるのはエンジンの唸りだけ。

奏は何度も父の番号を押しかけては、やめた。


高速に乗る直前、警察から再び電話が入る。


「都内の署と連携しました。ご実家周辺を確保しながら向かっています。到着まで待機を」


「待てません」


吐き出すように言って、通話を切る。

湊は短く頷き、アクセルを踏み増した。


やがて都心のビル群が見え、夕闇が窓の外で濃くなる。

実家のある通り角には既にパトカーが数台。

赤色灯が壁面を不規則に染め、制服警官が手を上げた。


「音羽さん! 到着されましたか。中は我々が先行します」


玄関の鍵は壊されていない。

チャイムに反応はない。

合鍵を受け取った刑事が慎重に回し、扉をわずかに押す。

冷たい空気が廊下から流れ出た。

生活の匂いに混じって、鉄の生臭さが鼻を刺す。


「後方確認よし、右クリア」


小声での報告が続き、靴音が廊下の奥へ吸い込まれる。

居間の扉が開く軋み。

その瞬間、誰かが短く息を吸う音がした。


「……発見」


呼ばれる前に、奏の足は動いていた。

止める手が肩にかかったが、躱して中へ滑り込む。


父は仰向けに倒れていた。

白いシャツが胸元から赤く濡れている。

目は半ば開き、天井のどこかを見たままだ。


喉が鳴った。

声が出ない。

床に散ったガラス片に、灯りが細かく砕けて瞬く。


父の胸の上に、紙が一枚置かれていた。

雑に引きちぎられた白。

指先が勝手に伸びる。

赤い文字が、乾きかけの艶を帯びて滲んでいた。


――舞台のあなたは本当のあなたですか


 見覚えのある問い。

ポストカードの裏にあった、あの一行。

裏返した記憶の手触りまで蘇る。


背筋が冷える。

あの夜からずっと、見られていた。

舞台の袖も、楽屋の隅も、マンションの窓も。

視線は届いていた。


脚が震えた。

紙を握る指に、血の粘りが移った。

湊が傍らに来て、そっと肩を支える。

声は出ない。

口だけが「父さん」と動く。


刑事が静かに告げる。


「現場封鎖。近隣防犯カメラの回収班を回せ。階段側、非常口、屋上も頼む」


玄関のチェーンはそのまま。

窓は一か所、外側からこじ開けられた痕跡。

キッチンの床に微細な砂。

ベランダの手すりにうっすらと白い擦過。

手袋、足袋、準備された足取り。

ここが舞台なら、幕はもう降りている。


「さっきの通話、発信記録は?」


奏の問いに、担当が首を振る。


「プリペイド、位置情報は都内の公衆Wi-Fiを経由。足がつきにくい」


「近所の目撃は」


「異常なし。エレベーターで帽子を目深に被った男あり。ただ映像は不鮮明。体格は……あなた方と似る」


似ているのは当然だ。

影を追うほど、輪郭は曖昧になる。

同じ顔が三つ。

この街のどこにでも溶け込める。


検視官が到着し、淡々と時刻の推定が告げられる。

ついさきほど。

電話から発見までの短さを思えば、颯斗はこの部屋で通話し、紙を置き、扉を閉め、何の躊躇もなく消えたのだ。


刑事が周囲に指示を飛ばす合間、湊が低く問うた。


「奏、さっきの声は――」


「颯斗だ。間違いない。あの声の輪郭、俺たちと同じだった」


湊は歯を食いしばった。

拳に白い骨の線が浮く。


「捕まえる。必ず」


奏は紙を見下ろし、ゆっくりと頷いた。

赤い字が乾き、光を弾く。

初めて受け取った時、ただの不気味な悪戯だと思った。


今は違う。

宣戦布告だ。

舞台の外へ引きずり出すという、残酷な約束だ。


捜索は夜を跨いだ。

屋上の扉には微かな擦り傷。

隣のビルへ渡った形跡はない。

非常階段の踊り場に、わずかに付着した透明の繊維。

風が吹けば見失うほどの細さ。

科捜研へ回す封筒が次々に閉じられていく。


やがて刑事が戻り、簡潔にまとめた。


「確固たる痕跡は薄い。だが、犯行の手口の一致、あなた方への接触、謎めいた文面。風間颯斗を主犯として捜査を絞る」


湊が一歩踏み出す。


「俺も動く。あいつは、俺たちの顔を使う。次は、もっと狙いを定めてくる」


刑事は短く逡巡し、頷いた。


「勝手は許さない。だが、あなた方の情報が要になる。警護もつける。無茶はするな」


頷いたが、心のどこかで既に答えは出ていた。

守られるだけでは届かない。

舞台はもう、彼の手の内にある。

ならば、こちらが脚本を書き換える番だ。


夜風がベランダから入り、カーテンが小さく揺れた。

父の部屋の空気が、ゆっくりと冷えていく。

紙の赤は黒へ近づき、匂いだけが強く残った。


奏は手袋越しに紙をもう一度見つめ、胸の奥で言葉を結んだ。


「颯斗を、終わらせる」


湊も同じ方向を見たまま、低く重ねた。


「兄弟で、だ」


二人の声は小さかったが、部屋の隅々にまで届いた気がした。


舞台は整った。

幕は、こちらから上げる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る