第10話 死の微笑

颯斗が風間家に迎え入れられたのは、生まれて間もない頃だった。

本来なら「死亡」と記録され、誰にも知られず消えるはずの命。

だが、院長の裏取引によって金と権力を持つ風間家に渡され、生を繋ぎとめられた。


屋敷に足を踏み入れたその日から、彼に待っていたのは「家族の温もり」ではなかった。


義母は社交の場では笑顔を絶やさぬ女性だった。上流階級の奥様らしく気品を纏い、外では誰からも羨まれる存在。

しかし家に戻れば豹変し、幼い颯斗には冷ややかな眼差しを突きつけた。


箸の持ち方が少しでも乱れていれば手の甲を叩かれた。食事の席で姿勢が崩れれば背中を強く押され、言葉遣いが粗ければ


「拾われた子なのだから、人一倍きちんとしなければならない」


と吐き捨てられた。


――頑張れば、愛される。

 

そう信じて背筋を伸ばし、言葉を選び、息を潜めて生きた。

だが、返ってきたのは褒め言葉ではなく溜息。

努力が積み重なるほど、母の目は氷のように冷たくなっていった。


義父・風間正人は当時、警視庁の上層部に名を連ねていた。

家に帰ることは少なかったが、帰宅すれば家中が張り詰めた空気に包まれた。

颯斗は幼いながら、その背中に庇護を求めた。

けれど差し伸べられたことは一度もなく、父の口から出るのは「規律」「品位」「名誉」といった言葉ばかりだった。


――俺は、この家に必要とされていない。


そんな思いが、少年期から心に巣を作り始めた。


十代半ば。

学校では友人に恵まれ、成績も常に上位。

容姿も整っていた。

外から見れば順風満帆に見える日々。

しかし帰宅すれば、義母の叱責が待っていた。

社交界での会話が耳に入ると


「お辞儀が浅い」


と責められ、訪問客が帰った後には


「言葉遣いが粗野だった」


と睨みつけられる。


心の奥で求めていたのは、ただ一度でいい、


「よく頑張ったね」


という言葉。

それは決して与えられることはなかった。


そして、ある日の夕刻。


居間での叱責は、いつも以上に激しかった。

わずかな失言をきっかけに、義母は声を荒らげ、指を突きつけた。

白い指先が目の前に迫るたびに、胸の奥で何かが軋む。


「あなたはどこまで恥を晒すつもりなの!」


その瞬間、背後に階段があるのを意識した。

気づけば、体は勝手に動いていた。

両手で義母の肩を突き飛ばしていたのだ。


義母の体は悲鳴とともに階段を転げ落ちた。

乾いた衝撃音、続いて静寂。


颯斗は息を呑み、駆け下りた。

そこにあったのは、床に横たわる義母の顔。

血の気を失い、眉間の皺も、冷たい眼差しも消え失せ、ただ穏やかな表情が残っていた。


――美しい。


その言葉が心の奥で響いた。


涙も怒りもない。

そこにあるのは「空白」。

だが颯斗には、それが初めて与えられた「愛」のように思えた。


手が震えた。

胸が高鳴る。

恐怖と興奮が入り混じり、頭が痺れる。

足元で倒れた義母の顔を何度も覗き込み、その度に「これだ」と確信を深めていった。


通報により警官が駆けつけ、家は慌ただしさに包まれた。

当初、現場を確認した警官は


「事故ではなく他殺の可能性がある」


と口にした。

だが、その声はすぐにかき消された。


義父・正人が動いたのだ。

警察への指示は迅速だった。

書類は書き換えられ、調書は修正され、やがて

「階段からの転落事故」として処理された。


その夜、颯斗は書斎の前で立ち尽くしていた。

扉の向こうから低い声が聞こえてくる。


「余計な騒ぎは不要だ。家の名に傷をつけるわけにはいかん」


――俺を守った?

違う。守ったのは“家”と“自分の立場”だ。


その気づきが、心に深い亀裂を刻んだ。


義父にとって、自分は「息子」ではない。

金で手に入れた道具。

不都合が表に出ないように覆い隠されてきただけ。


――愛されてなどいない。


その絶望は、やがて価値観をねじ曲げていった。


――ならば、俺が愛するものを決めればいい。

 

――人が最後に見せる表情、死顔こそが、俺にとっての愛だ。


以降、笑顔も涙も何の意味も持たなくなった。

女性がどれだけ愛を囁こうと、心は動かない。

ただ「死顔」にだけ、真実が宿ると信じるようになった。


それからも、彼は幾度となく問題を起こした。

だがその度に義父が金と権力で揉み消した。

傷つけられた声は封じられ、記録は消された。


その光景を前に、颯斗の中で確信は強まっていった。


――この男にとって、俺は息子ではない。ただの“お飾り”だ。


愛を求める心は既に壊れていた。

残ったのは「死」に魅せられた歪んだ愛情。

そしてその執着は、やがて自らと同じ顔を持つ兄弟へと向かっていく。

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