第9話 忘れられた影

再び静岡に戻った奏は、警察署の一室に通された。

窓の外には山の稜線が重なり合い、遠い都会の光景とはまるで別世界のように感じられた。

机の向こうに座る捜査官が、分厚いファイルを開く。


「来てくれて助かる。共有したい情報がある」


「怪しい金の動きが見つかった。二十数年前、ある病院の帳簿に大金が入金されている。時期はちょうど――君たちが生まれた頃だ」


 捜査官はページをめくり、一枚の戸籍謄本のコピーを示す。


「そして金の流れを追ったら、北海道の“風間”という人物に辿り着いた」


奏は息を呑んだ。


「風間……?」



「風間颯斗(かざま はやと)。産まれた病院、生年月日……どれも君と湊君と一致する。消されていたはずの三人目だ」


紙に印字された名前を見つめ、奏の指先が震えた。


――やはり、生きているのか。

 

疑念は確信へと変わり、背筋に冷たいものが走った。


そこには――「風間颯斗」という名前が刻まれていた。


「……風間、颯斗」


 口に出した瞬間、背筋を冷たいものが走る。

読み慣れないその名が、しかしどこか皮膚の下で脈打つように馴染んでいく。


「出生病院、生年月日、全て符合します。出生地は東京なのに住所は北海道。違法な養子縁組で戸籍を偽装され、風間家の養子として登録されたのでしょう」


 捜査官の言葉が重く響く。

奏はカルテの赤い抹消線を思い出した。消された第三の存在。

だが、確かに生き、別の名前を与えられ、生き延びていたのだ。



その頃、村の空気も変わりつつあった。

村人たちの働きかけにより、事件の夜、湊と共にいたという女性が名乗り出た。

観光で村を訪れていたその女性は、震える声で証言した。


「間違いありません。あの夜、私は水城さんと街のホテルにいました」


この証言で、湊のアリバイが成立する。

警察は彼を釈放し、湊はようやく留置場の外の空気を吸うことができた。



二人は村外れの古びた神社で顔を合わせた。

 

夕暮れの光が差し込み、鳥居の影が長く伸びている。

湊は疲れきった表情をしていたが、目には複雑な色が宿っていた。


奏は駆け寄り、言葉を探した末に口を開く。


「……ずっと、信じてた」


湊は目を細め、かすかに笑った。


「信じられるような人間じゃねえよ。母さんを早くに亡くしてから……女にばかり拠り所を求めてきた。弱えんだ、俺は」


自嘲混じりの声に、奏は胸が締め付けられた。


「俺も同じだ。父に愛情を感じられなかった。だからファンの声援にすがってきた。舞台の上に立つ時だけ、誰かに愛されてる気がした」


二人の間に、長い沈黙が流れる。

風が木々を揺らし、葉擦れの音が耳に触れた。


ようやく兄弟が正面から互いを見つめ合った瞬間だった。


「お前は……強いな」


「違う。俺たち、同じだよ」

 

その言葉に湊は視線を逸らし、遠くを見つめた。



警察の捜査は急速に進展していった。

 

颯斗の過去を洗い直す中で、5年前に義母が自宅で死亡した件に行き着いた。


「当時、駆けつけた警官の一人が“殺人の可能性が高い”と証言しています。だが、上からの指示で事故死として処理された」


奏は眉をひそめる。


「どうしてそんなことが……」


「風間颯斗の義父、風間正人(かざま まさと)。かつて警視庁で上層部にいた人物です。権力も資金もあった。書類の偽造も、事案の揉み消しも造作もなかったのでしょう」


捜査官の言葉に、奏は胸の奥がざわつくのを感じた。

義父の歪んだ庇護。

守られることで、逆に歪んでしまった心。



さらに調べが進むと、颯斗の周囲で不自然なほど多くの女性の失踪事件が浮かび上がってきた。

いずれも若い女性が突然姿を消し、遺体も証拠も見つからないまま迷宮入りしていた。


「数だけで言えば、連続殺人鬼に匹敵します。しかし決定的な証拠は一切ない。被害届さえ出されなかったケースもある」


奏は思わず息を呑む。


「……全て、闇に葬られたのか」


「ええ。風間正人の影響力と財力があれば、不可能ではありません」


警察の捜査会議の空気は、重苦しくも確信に近づいていた。

颯斗はただの影ではなかった。

幼少期から歪められ、守られることで増幅された闇が、今なお静かに人々を蝕んでいたのだ。



奏は宿に戻り、机に頬杖をついた。

湊が保釈された安堵はある。

だが、同じ顔を持ちながらも闇に飲まれた第三の存在。


風間颯斗。


赤い線で消されたカルテの文字が、またしても脳裏に浮かぶ。


「……お前はなぜ、生き延びてしまった」


答えは闇の中にあった。

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