第8話 消えた名
東京に戻った奏は、事務所の一室に閉じこもるようにして座っていた。
外ではマネージャーの山崎がスタッフに指示を飛ばしているが、その声さえ遠くに感じる。
舞台挨拶やドラマ撮影で忙しくしてきた日々が、いまや何の意味も持たないように思えた。
「……やっぱり行くのか」
山崎が低く問いかけた。
机の上には分厚い資料と携帯電話が置かれている。
「行く。俺には、確かめなきゃならないことがある」
奏は目を逸らさずに言った。
湊が勾留され、村中が疑いと恐怖に包まれている今。
兄の無実を証明する道を見つけられるのは、自分しかいない。
「昔、この病院で働いていた看護師に心当たりがある。信頼できる人づてだ。だが軽はずみな動きは危険だ、週刊誌の餌になる」
山崎は携帯を差し出し、眉をひそめた。
「覚悟はできてる」
奏は資料を受け取り、強く握りしめた。
数日後。
閉鎖された旧病院の近くにある喫茶店。
古びた扉を押すと、柔らかなベルの音が鳴った。中は人影がまばらで、陽射しがカーテン越しに斜めに差し込んでいた。
「音羽さんですね」
呼びかけに振り返ると、白髪の混じる女性が立っていた。
名を佐伯と名乗り、看護師をしていたという。
しわだらけの手を差し出すと、奏は深く頭を下げた。
二人は隅の席に腰を下ろした。
湯気の立つコーヒーを前に、佐伯はしばらく沈黙したのち、重い口を開いた。
「院長は……評判の悪い人でした。二年前に自殺しましたが、それ以前から奇妙な噂が絶えませんでした」
「奇妙な噂?」
「違法な養子縁組です。子どもを“死産”や“死亡”と偽って親から引き離し、金を受け取って別の夫婦に渡していた。戸籍には正式に“実子”として登録されるから、誰にも気付かれない。そう囁かれていました」
奏の心臓が跳ねた。
母が、父が、自分たちに決して語らなかったこと。
佐伯は声を潜め、手を膝に置いた。
「病院が閉鎖された時、私は院長の机を整理するよう言われました。その時、怪しいカルテを何枚か見つけたんです。処分するよう命じられましたが……どうしても捨てられなくて」
そう言って、鞄から古びた封筒を取り出した。茶色く変色した紙を震える手で差し出す。
封を開けた瞬間、奏は息を呑んだ。
そこには母の名と出生日がはっきり記されていた。
――第1子 男児 体重二七五〇グラム 産声あり
――第2子 男児 体重二六〇〇グラム 産声あり
――第3子 男児 出生時呼吸停止 蘇生処置実施 心拍一時回復 再び呼吸停止 死亡確認
字面が滲む。
まるで紙そのものが血を吸って重くなったようだった。
「三人……いた?」
呟く声は震えていた。
カルテには確かに「三胎妊娠」と記されていた。だが別紙には赤い線で「双胎」と書き換えられ、三人目の欄は無理やり抹消されていた。
佐伯の顔が険しくなる。
「私は見たんです。あの子は……確かに一度息を吹き返した。なのに院長が抱き上げて奥に連れていったきり、誰にも見せなかった。記録は“死亡”。でも私は……違うと思っています」
奏の背筋に冷たい汗が流れた。
――第三の存在。
湊だけでなく、自分と同じ顔を持つ者がもう一人。
もしその者が、今もどこかで生きているとしたら――。
それから東京のマンションに戻った奏は、机にカルテを広げたまま身動きできずにいた。
蛍光灯の下で赤い抹消線が異様に浮かび上がる。
胸の奥には虚無感と怒りが渦を巻いた。
父から感じられなかった愛情。
その理由の一端が、ここに記されているように思えた。
「……俺たちは、最初から切り捨てられていたのか」
その時、携帯が鳴り響いた。
画面には「静岡県警」の文字。
「音羽奏さんですか」
受話器越しの声は事務的で冷静だった。
「被害者女性の検死結果が出ました。爪に残された皮膚片からDNAを照合したところ――あなたと湊さん、双方と一致しました」
鼓動が耳を叩いた。
「……一致?」
「ええ。あなた方二人が兄弟であることは確認されています。ですが、第三の一致がある。つまり……もう一人、同じDNAを持つ人間がいる」
言葉は最後まで耳に届かなかった。握る手が震え、携帯が落ちそうになる。
――生きている。
確信が形を持ち、全身を駆け抜けた。
消されたはずの第三の存在。
死んだとされ、記録から抹消されたはずの「誰か」が、今も生き、この惨劇に関わっている。
奏の目の奥で、赤い抹消線が何度も浮かび上がり、消えた。
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