第6話 揺らぐ夜

「カット! オールアップ!」


監督の声が響くと、現場に拍手が広がった。


「奏さん、お疲れさまでした!」


スタッフのひとりが声をかける。


「ありがとうございます。みんなのおかげです」


奏は笑顔を返した。だが胸の奥では、つい先日知らされた事実がまだ渦を巻いていた。


兄がいた――。


その言葉は、喜びとも怒りともつかない温度で心に残り続けていた。


「顔色、ちょっと悪くないですか」


助監督の中村が心配そうに覗き込む。


「大丈夫。気が抜けただけだよ」


「ならいいですけど……」


奏は笑みを崩さずに答えたが、その奥底に漂うざらつきは消えなかった。



同じ頃、村の広場。


「こっちが昔からの獣道だ。足元、気をつけて」


湊の低い声に、観光客の女性たちが歓声を上げる。


「すごい、本当に分かるんだ!」


「山に入れば匂いで分かる」


さらりと答える湊の姿に、さらに笑い声が弾んだ。


後ろから影人が茶々を入れる。


「なあ湊、お前ばっかり相手しないで、俺にも教えさせろよ」


「勝手にすればいいだろ」


「そう言うけどさ、お前と並ぶと俺が霞むんだよ」


女性客たちがくすくす笑い、湊は苦笑いで肩をすくめた。

影人の目は笑っていたが、どこかに棘があった。



その日の夜。

いつもならその時間、湊は山小屋に籠り、狩の道具を黙々と手入れしているはずだ。

だが、その日だけは部屋にいなかった。

ランプは消え、机の上に置かれた金具は冷たい光を残したまま、主の帰りを待っているようだった。


影人の姿もまた、村のどこにも見当たらない。



一方で、旅館近くの居酒屋には撮影スタッフが集まり、最終日をねぎらう乾杯が行われた。

奏も席にいたが、ほどなく胸の奥に重さが広がり、視界がかすむ。


「奏さん、大丈夫ですか」


「……平気。ちょっと外の空気を吸ってくる」


笑みを作って立ち上がり、暖簾をくぐった。



二十分経っても戻らない。


「遅いな」


中村が立ち上がり、仲間と共に外を探した。

だが通りにも路地にも、奏の姿はなかった。



それから程なくして、村の警察署に若い女性が駆け込んできた。

頬には擦り傷、声は震えている。


「お、音羽奏さんに……車で……」


「落ち着いて、まず水を」


警官が差し出した紙コップを握りしめ、女性は断片的に語った。


「旅館の前で……待ってたら、奏さんが声をかけてくれて……車に乗って……。途中で、急に『人の一番素敵な顔って何だと思う?』って……。笑顔かなって答えたら……『違う、死顔だ』って……。思わず奏さんの方を見たら……ポケットに刃物みたいな光るものが……。怖くて、飛び出して……走ってきたんです」


警官たちは顔を見合わせた。

すぐに旅館と村長宅に連絡が入る。

だが奏も湊も不在だった。

署内の空気が硬直する。



深夜になり、警察署の外が騒がしくなる。


「開けてくれ!」


影人が奏を肩に抱えて駆け込んできた。


「どうした!」


「山の納屋の中で縛られてたんです。物音がして覗いたら……」


影人は荒い息で説明した。

奏は顔を青ざめさせ、震える声で言った。


「……気づいたら……暗い場所で、縄で縛られてて……。口も塞がれて……怖くて……」


刑事が頷き、メモを取る。


「音羽さんは被害者と判断する。黒川さんの証言にも矛盾はない」


だが、残るひとり


――湊の所在は依然として不明だった。

「じゃあ……湊が?」


影人の呟きに、署内の空気が一気に固まる。


「犯人は……水城湊だ」



奏は椅子に腰を下ろし、手の甲を見つめた。

縄の痕が赤く残り、かすかな痛みがじんと広がる。

耳に入る影人の声も、刑事の筆記音も遠い。


胸の奥に残っているのは、兄の存在だった。

会ったばかりの“同じ顔”。

なぜ教えられなかったのか。

満たされていたはずの日々に確かにあった空洞が、今さら形を持って迫ってくる。


――湊は本当に犯人なのか。


答えのない問いが胸の中で丸まり、夜の署内に沈んでいった。

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