第5話 途切れた声
警察署の会議室にいた二人の前に、一人の刑事が現れた。
分厚いファイルを脇に抱え、眼鏡の奥の目は疲れているが、声は妙に落ち着いていた。
「音羽さん、確認できました。あなたが部屋を出ていた時間帯ですが、旅館の中居が片付けをしていた際に、外へ出ていくのを目撃しています。ただ……山の方ではなく、反対方向に歩いていったと証言しています」
奏は目を瞬かせた。刑事はさらに続ける。
「しかも、しばらくしてすぐに戻ってきたのも確認されています。事件現場に行くには時間が足りません。あなたのアリバイは成立します」
張り詰めていた胸の奥が、ふっと緩む。
しかしその直後、廊下の向こうから声が響いた。
「水城湊の件もだ」
別の刑事が手帳を振りながら入ってくる。
「村の住民が、昨夜あんたが山に向かって歩いていくのを見ている。殺害現場とは真逆だ。戻った時刻も確認済みだ。……これもアリバイになる」
湊が短くうなずくと、部屋の空気が変わった。
さらに別室。
影人もまた、地元の住人による証言が裏付けられていた。
「焚き火も灯りもつけっぱなしで、ソファーに突っ伏していたのを近所の人が見ている。……酔い潰れていたそうだ」
影人は気まずそうに頭をかきながら
「まあ、そういうことだ」
と答えた。
三人それぞれの証言がそろい、容疑は晴れた。
影人は口の端を上げ、肩をすくめた。
「俺の酒癖が役に立つとはな」
軽い調子に聞こえたが、その裏には安堵が滲んでいた。
三人の証言が揃った瞬間、場の緊張は一気にほどけた。
だが同時に、誰もが思った。
――では、あの夜、女性を殺したのは誰なのか。
釈放を告げられた三人は、それぞれ別のタイミングで署を出た。
外には数台のカメラが並び、記者たちが群がっていた。
「音羽さん、殺人の容疑について一言を!」
シャッター音が途切れず続く。
奏は何も言わず、俯いたまま車に乗り込んだ。
レンズの光が瞬き、視界が白く塗りつぶされる。
窓の外に流れる山並みを見ながら、心の奥に別の影が沈み込んでいく。
双子という事実。
そして、なぜこれまで隠されてきたのか。
車が旅館に戻るよりも先に、奏はスマホを取り出していた。
画面に映る父の名前を見つめ、ためらいののち通話ボタンを押す。
「……父さん、話がある」
受話口の向こう、しばらく沈黙が続いた。
やがて低い声が返ってくる。
「……気付いたか」
「どういうことだ。双子だなんて、一度も聞かされてない」
「言えなかったんだ」
「なぜだ」
押し殺した怒気が声に滲む。
父は小さくため息をつき、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「母さんは……お前たちがまだ小さい頃、心を病んでいた。泣き止まない子を二人同時に抱えて、参ってしまったんだ。結局、離婚という形でしか解決できなかった」
奏は黙って聞いていた。
父の声はかすかに震えていた。
「母方の祖父は厳格な人間だった。跡取りが必要だと強く主張して、長男を引き取った。……湊だ。俺も反対したが、母さんの父には逆らえなかった」
「じゃあ俺は?」
「……俺はお前を手放したくなかった。あの当時、拠り所が欲しかったんだ。だからお前を引き取った」
短い沈黙の後、父は絞り出すように言った。
「すまない。本当は兄弟を離したくはなかった」
奏は深く息を吐いた。
胸の奥に渦巻いていた違和感が、言葉になって形を持った。
物心ついた頃から生活に不自由はなかった。
衣食住も揃い、才能を伸ばす環境も与えられた。
だが、どこかで空虚を抱えていた理由
――それがいま、腑に落ちていく。
それでも、心が軽くなるわけではなかった。
愛情を求めながら届かなかった年月が、簡単に埋まるはずもない。
「……話してくれてありがとう」
声は冷たく、淡々としていた。
父が何か言いかけたが、奏は通話を切った。
暗い画面に映る自分の顔は、どこか他人のように見えた。
旅館に戻ると、スタッフ数人が待っていた。
気まずさを避けるように言葉を探していた奏に、助監督の中村が声をかける。
「……奏さん、もう大丈夫です。疑いも晴れたんだし、仕事に集中しましょう」
他のスタッフも続けて
「切り替えていきましょう」
「撮影はまだこれからです」
と口々に励ます。
その言葉に、奏はわずかに頷いた。
疑惑は晴れた。だが、胸の奥に沈む違和感は消えない。
それでも――舞台はまだ続いている。
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