第3話 闇の囁き

奏達が現地入りしてから、三日が過ぎた頃。

旅館を拠点に朝から晩まで撮影が続き、誰もが疲れを隠せなかった。

夕食の後、大広間ではスタッフが残りの段取りを確認していたが、奏は早々に立ち上がった。


「今日はもう部屋で休む」


軽く会釈して部屋に戻る。

廊下を歩いていると、スタッフの一人が声を掛けてきた。


「もうお休みですか? 明日も早いですもんね」

「ああ、ちょっと疲れててね」


にこりと笑い返したが、その笑みはどこか固いものだった。


部屋の前で一度足を止めた。

取っ手に手をかけようとしたが、そのまま玄関の方へ歩き出した。

ロビーの灯りを抜け、外気の中へ姿を消す。


その少し後、助監督の中村は、翌日のスケジュールを確認するため奏の部屋を訪ねた。


「奏さん、ちょっと明日の件で……」


襖を叩いたが返事はない。

不審に思い、そっと引き戸を開ける。

部屋は真っ暗で、布団は手つかず。

人の気配も温もりもなかった。


「……おかしいな。さっき戻るって言ってたのに」


小声で呟き、戸を閉める。廊下に出ると、旅館全体が水を打ったように静まり返っていた。



やがて、闇を切り裂くような甲高い音が山の奥から響いた。

女性の悲鳴のようにも、風のうなりのようにも聞こえる。

犬が一斉に吠え立ち、夜の静けさを乱した。

旅館の客が廊下に顔を出したが、誰も外へ出ようとはせず、互いに視線を交わして戸を閉めた。

薄い壁を震わせる犬の遠吠えが、しばらく続いた。



翌朝。村はずれの山道で若い女性の遺体が発見された。観光客とみられるが、身元は分からない。白いシャツは破れ、草むらにはもがいた跡が残っていた。血の匂いが風に乗って漂い、発見した村人は震える声で


「知らない人だった」


と繰り返した。


警察が旅館を訪れ、宿泊客全員に昨夜の行動を確認した。

刑事が通るたびに、スタッフも客も息を潜める。


「夜十時以降、どなたか部屋を出られましたか」


皆が首を振る。

だが中村がためらいながら口を開いた。


「そういえば……その時間、奏さんの部屋を訪ねたんですが、いませんでした」


視線が一斉に奏へ向かう。

刑事は一歩前に出て、彼を応接間へと促した。


畳敷きの応接間。

襖の外からはスタッフのざわめきが漏れ聞こえる。


「昨夜はどこに?」


「部屋にいました」


短い答えに刑事は眉を寄せる。


「助監督が訪ねたとき留守だったと証言していますが」

 

沈黙。


「……外に出ました。少し、夜風に当たりに」


「何時頃に?」


「正確には覚えていません」


「誰かに会ったか?」


「いいえ」


曖昧な答えが並ぶ。

刑事は無表情でメモを取り、部屋に漂う空気は重く沈んでいった。



一方、村の集会所では訪れた刑事に湊と影人が順に呼ばれていた。


湊は椅子に腰掛け、刑事を真っ直ぐに見据えていた。


「昨夜はどこに?」


「山の罠を見に行った」


「一人で?」


「ああ」


「獲物は?」


「……いなかった」


短いやり取り。

だが裏付けるものは何もない。

周囲の村人たちは囁き合い、


「夜に銃を持って歩いていたら怪しい」


と口々に呟いた。

湊は黙り込んだまま、拳を膝の上で握り締めた。


次に影人が呼ばれた。

庭先の焚き火の跡を見た刑事が問いかける。


「昨夜は?」


「火を見てた。薪が尽きるまでな」


「一人で?」


「そうだ」


刑事は燃え残りを指摘した。


「あの量じゃ、夜通し燃えないな」


影人は唇を吊り上げ、煙を指先で追うような仕草をした。


「火なんて、気付けば消えてるだろ。人間と同じだ」


軽口に聞こえたが、不気味な笑みが空気を凍らせた。



こうして三人とも、誰にも証明されない

「一人の時間」を過ごしていたことが明らかになった。

旅館にも村にも重苦しい空気が沈み込み、客も村人も囁き合う。


――犯人は、この中にいる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る