第2話 大地の記憶

朝靄の残る山道に、土を踏みしめる音が響いた。

鹿の通り道を追っていたのは、村に住む水城湊(みずしろ みなと)だった。


肩から提げた猟銃は古いが手入れが行き届き、鉄の部分は鈍い光を放っている。

狩りに出るのは日常で、祖父から叩き込まれた習慣でもあった。


谷を渡る風が肌を撫でる。

湊は息を潜め、茂みをわずかにかき分ける。

足場の悪さをものともせず、体が勝手に獲物の動きを読む。

筋肉質な体つきは、農作業と狩りで培われたものだ。


銃を構えたが、鹿は気配に気付いたのか一瞬で逃げ去った。

湊は小さく舌打ちし、銃を下ろした。

狩りは成功ばかりではない。

時にただ、山に溶け込むように歩くこともある。


畑に戻ると、黒川影人(くろかわ えいと)がしゃがみ込み雑草を抜いていた。

影人は湊の幼なじみで、同じ村に生まれ育った。


「いたのか」


湊が声をかけると、影人は顔を上げ、にやりと笑った。


「おう、また逃げられたか。女なら逃がさないくせに」


「くだらねえこと言うな」


湊は苦笑しながら鍬を手に取り、隣で土を耕し始めた。

 

近年、この村では過疎を食い止めるため「田舎体験」という観光プログラムを始めていた。

農作業や山歩きを体験できる平凡な内容だが――いつの間にか「イケメンの案内人がいる」という噂が広まり、都市部から女性客が増えていた。


実際、湊はよく観光客のガイド役を任される。

畑仕事や狩りの話をすれば、素朴さが新鮮だと笑顔を向けられる。

だが、彼自身はどこか冷めた目で彼女たちを見ていた。


――母さんが生きていたら、もっと違う関わり方をしていたのかもしれない。


そう思いながらも、女性の視線に縋るような自分に気付くと、胸の奥がざらついた。


夕暮れになると、村の広場に三々五々人が集まってきた。

老人たちは将棋盤を挟み、若い者は缶ビールを片手に談笑している。

湊と影人も腰を下ろし、差し出された酒を口にした。


「湊、この前、観光客の女性と一緒にいたって話、ほんと?」


誰かが囁くと、影人が真っ先に笑い声をあげた。


「そうそう、女にゃ事欠かねえんだよ、こいつは」


「違う。ただ案内してただけだ」


軽く否定すると、周りは笑いながらも互いに目配せをした。

その目には羨望と好奇心、そしてどこかの猜疑が入り混じっていた。


湊は盃を置き、沈んだ空を見上げた。

女性に安らぎを求める自分と、母を失ってなお心に残る空洞。

その矛盾が、夜風の冷たさと一緒に体に染み込んでいった。


翌朝。

いつものように影人は湊の顔立ちを引き合いに出す。村でも評判の良さを皮肉に変えて笑いの種にするのだ。


「この間も村の娘が言ってたぜ。湊に畑教えてほしいって。お前が相手しないなら俺に回してくれよ」


「知らねえよ。勝手にしろ」


「冷てえな。女にゃ優しいくせに」


言葉は軽いが、どこかに棘があった。

湊は応じず黙々と鍬を振る。

土の匂いが立ち上り、額に汗が滲む。


昼過ぎに二人は畑仕事を終え、小川で汗を流した。

影人が腕を伸ばし、水をすくうと、日差しに照らされた筋肉が浮き上がる。

湊もまた、狩りで鍛えられた体を惜しげなく晒していた。

二人とも村の男らしい体格で、その力強さは言葉以上に目に残った。


「お前さ、都会に行く気はねえのか」


影人がふいに問う。

湊は水を払って振り向く。


「行ってどうする。俺はここで十分だ」


「顔がもったいねえよ。芸能界とか行ったら、一発でスターだろ」


「冗談は顔だけにしとけ」


湊は笑ったが、心の奥でその言葉がかすかに残った。


夜になると湊は一人で山小屋に戻った。

静まり返った室内に薪をくべ、火を起こす。

炎が壁を赤く染め、獣の影のように揺れる。

机の上に並べた狩りの道具をひとつずつ丁寧に磨き、刃先に光を映した。


布で銃身を拭き上げながら、彼は低く呟いた。


「……獲物を待つ時間が、一番落ち着く」


その言葉は猟師の習慣にすぎないのかもしれない。

だが火に照らされた横顔には感情が薄く、聞く者に疑念を抱かせる。


布で銃身を拭き上げる手を止め、湊は短剣を布に包む。

そのまま無言で腰に差し込み、戸口に立った。

夜風が入り込み、炎が一瞬大きく揺れる。

背を向けた湊は、振り返りもせず小屋を後にした。


一方、夜の冷気が降りる庭先。

影人はひとり、焚き火の前に腰を下ろしていた。

赤い炎がぱちぱちと木をはぜさせ、その火花を眺めながら、手にした酒瓶を喉へ流し込む。


「……チッ」


火を見つめる横顔は、赤と影にゆらぎ、どこか荒んで見えた。

酒臭い息を吐きながら、独り言のように低くつぶやく。


「湊のやつ……全然女を紹介しやがらねぇ。いつも一人占めしてよ」


焚き火のはぜる音が相槌を打つ。

影人は瓶をもう一口あおり、炎の揺らめきに目を細めた。


「村の連中も……みんなあいつを持ち上げやがる。俺はただの酒好きの厄介者ってか」


唇の端に歪んだ笑みが浮かぶ。

それは自嘲か、あるいは恨みの吐露か。

どちらともつかないその表情を、夜風と炎だけが見ていた。



やがて、森の奥で甲高い音が響いた。女の悲鳴のようにも、風が木々を切り裂く音のようにも聞こえた。犬が一斉に吠え立ち、山にこだました。



静寂が戻ると、ただ焚き火の赤い光だけが闇に揺れていた。だが、その炎の前にいるはずの影人の姿は、どこにもなかった。

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