第1話 光の残響

「音羽奏(おとは かなで)!」


都内のイベントホール。

新作映画の舞台挨拶は立ち見が出るほどの盛況で、奏はスポットライトに包まれながら壇上に立っていた。ライトの熱が容赦なく頬に降り注ぐ。

汗が伝うのを感じても、笑顔を崩すことはしない。


「本日はご来場ありがとうございます。皆さんの応援があって、こうしてまた舞台に立つことができました」


決まり文句に過ぎない。

けれどその言葉に、客席から割れるような歓声が返ってくる。


――それはいつも、不思議な安堵を与えた。


幼い頃、父はよく言った。


「努力すれば報われる」


「家の名を汚すな」


誉め言葉よりも戒めの方が多かった。母は奏が生まれてまもなくして家を出てしまい、父と2人暮らし。

父は仕事にかまけて背中を向けるばかり。

奏は長い間、愛情というものを知らずに育った。


だからだろう。

ステージの上で自分の名を呼ぶ声援は、空白を埋めてくれるものだった。

歓声の中でだけ、自分は確かに愛されているのだと錯覚できる。


用意された言葉。

それだけで客席から拍手が湧く。

司会者がマイクを差し出し、質問を投げる。


「撮影で一番大変だったことは?」


奏は軽く息を吸い、にこりと笑った。


「山奥での夜のシーンです。真っ暗な森を走る場面で、足元が見えなくて。危うく転びそうになって、スタッフを慌てさせました」


観客の間に笑いが広がり、前列の女性が小さな声で


「怪我しなくてよかった」


とつぶやくのが聞こえた。

奏は軽く頭を下げ、続ける。


「でも、そのおかげでリアルな映像になったと思います」


司会者が「さすがですね」と返すと、再び拍手が重なった。


舞台袖に下がった瞬間、体の奥から力が抜けていく。

マネージャーの山崎が差し出した水を一気に飲み、息を吐く。

「お疲れ様。明日から撮影で長野入りだな。二週間、山の中で缶詰だぞ」


「……長野か」


奏は小さく笑った。

都会の光と喧騒に慣れた身には、想像もつかない場所だった。


「監督が、“現地じゃなきゃ空気が違う”ってさ。まあ、頑張れ」


山崎の声は軽く、それでも背中に小さな重みを落としていった。


楽屋口を出ると、待ち構えた記者が一斉に押し寄せた。


「奏さん、次回作の見どころは?」


「プライベートは順調ですか?」


矢継ぎ早の問いとフラッシュに視界を奪われ、警備員の腕に守られながら車へ押し込まれる。

ドアが閉まると喧騒は一気に遠ざかり、窓に映る自分の横顔だけが残った。

そこにいたのは、人気俳優・音羽奏。だが、鏡の輪郭は時折ずれて、別人のように思えた。


マンションに戻ると、フロントで封筒を手渡された。部屋で封を切ると、ポストカードが一枚落ちる。

白く焼けた照明の輪だけが写り、観客も演者もいない。

裏を見て、呼吸が止まった。


"舞台のあなたは本当のあなたですか"


短い文が、妙に重かった。

ファンレターにしては奇妙で、誰かに覗かれているような冷たさがある。

指先でカードをなぞると、インクのざらつきが皮膚に残った。


「……何なんだ」


答えはなく、机に置いたまま視線を逸らした。


シャワーを浴びたあと、窓辺に立つ。

ビルの光が夜空を切り裂き、道路を走る車が白い筋を描く。

華やかな景色のはずなのに、どこか現実味がなく、看板に映る自分の笑顔が遠くから見下ろしているように思えた。


ソファに腰を下ろし、スマホを開く。


《今日も最高でした!》


《地方ロケ頑張って!》


《ずっと応援してます!》


温かい声が並ぶ。

それでも指先は冷え、スクロールを止めると静けさが一層濃くなった。


寝室に向かう途中、姿見の前で立ち止まる。

鏡の中の自分が、わずかに遅れて動いた気がした。

光の加減だと自分に言い聞かせ、ベッドに横たわる。



翌朝、ロケバスが都心を離れる。

窓の外に並ぶビルは少しずつ低くなり、緑が増えていく。

街のざわめきが遠ざかるほど、胸の奥に残っていたざらつきが浮き上がる。

助監督の声が車内に響き、スタッフが確認を重ねる。その声を半分だけ耳に入れ、奏は台本を開いた。


赤字で書き込まれた一文が目を引いた。


"足音に注意 土の音を拾うこと"


短い指示が、紙の白地の中で妙に際立っている。


途中のサービスエリアで休憩に入る。

売店の窓越しに並ぶ新聞の見出しを何気なく眺め、ふと地域欄に目が留まった。


〈今夜は冷え込みます 山間部の夜間外出は控えて〉


ただの注意書き。

それなのに、胸の奥に冷たい影を落とした。


午後には小さな駅に着き、さらにバスで山道を登る。

窓の外に広がる畑は人影がなく、支柱だけが風に揺れている。

まるで無言の見張りの列のようだった。


今回お世話になる宿に到着し部屋に入ると、荷をほどいて窓を開けた。

すると、外気が一気に流れ込み、どこかから鉄を打つような音がしてすぐ止んだ。


夕方になり、監督に連れられて周辺を歩く。川沿いの石が冷たく光り、森の影が長く伸びる。


「明日は森の導入を撮る。朝は川面、昼は木漏れ日、夜は足音。無理はしないで」


奏は頷き、靴裏で砂利を踏む。

音が乾いた夜気に吸い込まれていった。


宿に戻ると、廊下の角に立てかけられた姿見が目に入った。

弱い照明の下で映る自分の輪郭が、ほんの一瞬遅れて動いたように見えた。

すると心臓が一拍強く鳴り、足を早めた。


部屋に戻ると机の上に台本と並んで置いてある、あのポストカードが目に入る。

裏をもう一度見た。


"舞台のあなたは本当のあなたですか"


意味を探しても答えは出ない。

だからこそ、不気味さだけが濃く残る。

照明を落としてベッドに横たわると、窓の外で風が鳴り、水の滴る音が途切れなく続いていた。

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