いななきの土
伽墨
とある騎馬民族の伝承
騎馬の民には古い呪術があった。
老いた馬の首を落とし、血を桶に受ける。
それを森の奥に生える光るキノコの土に混ぜ、死んだ仔を埋めれば、三日後に蘇るという。
ある日、一頭の仔馬が病で死んだ。
部族の呪術師が儀式を行った。
まじないを唱える。
白刃が老馬の喉を裂き、濁った嘶きとともに鮮血が噴き出す。
血は桶に溢れ、生臭い空気が夜に漂った。
三日後、仔馬は土から這い出し、再び母馬の乳を吸った。
人々は歓声を上げた。
だが長老トルガは火のそばで言った。
「忘れるな。人にだけは決して施すな。血は血を呼び、人を狂わせる。その禁を破れば、部族は滅ぶ」
サライは息子オルクを流行り病で失った。
まだ乳歯が生え揃ったばかりの幼子だった。
血の気の失せた頬を撫でながら、何度も名を呼んだ。
「どうか、オルクを……」
彼女は呪術師に縋りつき、声を張り裂けんばかりに願った。
だが答えは冷たかった。
「それはあってはならぬ。サライよ、これは人には使えぬ。災厄を呼ぶ」
サライは叫んだ。
「仔馬はよくて、わが子はなぜ駄目なのだ!」
返事はなかった。
夜。
サライはひそかに老馬を見つけ出した。
牛刀を振り下ろすと、骨に刃が弾かれる。
返す一撃で喉を裂いた。
濁った嘶きとともに鮮血が噴き上がり、顔を覆い、口の中に鉄臭さが広がった。
泣きながら、溢れる血を桶に受ける。
亡骸を抱き、森の奥へ進む。
光るキノコが淡く照らす土を掘り、血を注ぐ。
赤黒い泥にオルクを横たえ、小さな手を握ったまま嗚咽を漏らした。
三日後。
森にオルクが立っていた。
いや、そこに立っていたのは、人ならざるものだった。
その顔は、馬のものか、人のものか、判別がつかない。
頬は裂け、赤黒い泥にまみれ、歯は馬のものと、人のものが混じっていた。
胸からは毛がまだらに生え、血と泥に滴って蠢いていた。
母の愛は変わらない。
「オルク!」
サライは駆け寄り、抱きしめた。
刹那──
その胸に、蹴り足の衝撃が走った。
肋骨が砕け、心臓が潰れ、鮮血が雨のように飛び散った。
サライは血を吐きながら地に崩れ落ちた。
人ならざる者は笑った。
笑いともいななきともつかぬ声で。
「……おかあ、さん……」
血まみれの舌で母の頬を舐め、胸から流れ出る赤をすする。
人ならざる者は、血を求めた。
夜、野営の地に不気味な声が響いた。
人とも馬ともつかぬ笑いといななきが混じり合った声が。
男たちは武器を取り、女たちは子を抱き、ゲルに籠った。
焚き火の前で、長老トルガは震えながら言った。
「禁は破られた。血を求める化け物が、この地に生まれたのだ」
「これこそ“いななきの土”の災厄だ」
人ならざる者は、野営を襲った。
蹴倒し、噛みちぎり、血を貪る。
矢を何十本受けても倒れず、血を浴びるたびに大きくなった。
ヒャヒャヒャ、ヒーン──
人の笑い声か、馬のいななきか。誰にも判別できなかった。
戦士たちは矢を射尽くし、槍を投げ、石を投げた。
人ならざる者は、血を飲むたびに強くなり、大きくなる。
やがて──
人ならざる者は、巨大な血と土の塊となった。
もはやそれは、化け物としか呼びようのないモノであった。
「おかあ、さん……」
そのとき、長老トルガが震える足で前に進んだ。
血に濡れた戦場の中央で、短刀を自らの喉に突きつけ、まじないを唱えた。
«Цус минь, газар шороо руу буц!
Инанахын шороо, унагаар битгий бос!
Эртний цусаар чамайг даръя!»
「我が血よ、大地に還れ!」
「いななきの土よ、二度と仔を起こすな!」
「古の血をもって、今ここに封じる!」
トルガは叫ぶやいな、自ら喉を掻き切った。
年老いた体から真紅の奔流が噴き上がり、鉄臭い蒸気が夜に広がった。
化け物はいななき、喜悦に満ちた声を上げ、トルガの血を貪った。
だが──血は土に吸い込まれ、赤黒い縄となって巨体を縫いつけた。
「おかあ、さん──」
絶叫とともに化け物はのたうち、裂け、臓腑と泥を撒き散らし、やがて崩れ落ちた。
血と土は渦を巻き、大地へ沈んでいった。
夜が明けた。
血に染まった泥濘の中には、勇ましく戦い、命を落とした戦士たちの屍が所狭しと並ぶ。
長老トルガの亡骸も、そこにあった。
その周囲の土からは、なおいななきのような呻き声が風に混じって響いていた。
やがて人々は、その土地を「いななきの土」と呼ぶようになった。
そして今も語り継がれている。
──人に呪術を施すこと、決して許されぬ、と。
幾世代が過ぎた。
子どもたちは夜ごとに火を囲み、大人に言い聞かされた。
禁を破った母と子の話を。
そして長老が自ら血を差し出して、怪奇を封じたことを。
ある娘は、その話を聞くたびに奇妙な夢を見た。
赤黒い草原、泥に沈む母の叫び。
そして、遠くから響く声。
「……おかあ、さん……」
笑い声か、いななきか。
わからない。
サライとオルクの物語は、まだどこかで続いているのかもしれない。
夢の声は、今もなお彼女を呼び続けている。
いななきの土 伽墨 @omoitsukiwokakuyo
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます