触れる指輪、あの日のわたしへ

葉月 望未

指輪に触れて思い出す。泣いていたわたしを。


 誰か。誰か、わたしを見つけて。


 雨の中、持っていたビニール傘が手から離れていき、真っ黒なコンクリートの上に落ちていく。


 しとしと、静かな雨はビニールに落ちて鈍い音を響かせていた。


 私は何もかもが嫌になってしゃがみこみ、膝を抱えて額を擦り付ける。



「……ずっと、雨だなー」


 そんな妄想をしながら、ビニール傘越しに雫をぼんやり見つめて起伏のない声を出した。


 目の前には大きな横断歩道、車がスピードを出して行き交っている。


 あ、もうすぐ青になりそう。


 信号が青になり、周りが歩き出す。私も波に乗り遅れないよう足早に横断歩道を歩を渡り始めた。——後ろにいる、泣いている自分に背を向けて。



「あー……言いづらいんだけど、さ」

 好きになりかけていた、男だった。

 『他に好きな人ができた』

 心の中で彼の唇に合わせて、声を重ねる。

 恋愛って一体、どう始まるんだっけ。


「このあと、うち来る?」

 初めて会った男だった。

 へらり、と笑いながら首を振る自分が一番惨めに思えた。


 婚活を始めなければ結婚というものができないと知った29歳。夢でもなんでもなく曖昧に30歳までには結婚したいと思っていた。いや、結婚すると思っていた。


 誰にも選んでもらえない孤独は就活と似ている。


 ご縁というのは残酷だ。ご縁がなければ、誰とも上手くいかないのだから。



「もうやめたいけど、でもやめたら結婚できなくなっちゃう」


 苦々しい声を出しながら目の前の友達を縋るように見つめる。友達は息を吐き出すように柔らかく笑うと「結婚したら幸せ?」と問う。


「大事な人と一緒に生きていくんだよ、きっと幸せだよ」


 結婚を経験したことがないから、本当は知らないけれど。


「じゃあ、その大事な人と出会う前の試練の時期だ」


「え?」と、小首を傾ける。


「物語の主人公は挫折を味わってから成長して幸せになっていく。ね、今、まさにその状況でしょ?この後、その大事な人と出会えると思ったら、嫌な男たちはみんな前座だよ」


 友達は伏し目がちになって、紅茶にミルクを入れた。


ゆっくりとスプーンでかき混ぜる。その左手薬指には指輪が嵌められ、静謐せいひつに淡く輝いていた。


「それは、さ」


「ん?」


 友達が顔を上げる。


 私は、ばつが悪くなり、アイスコーヒーで自分の口を塞いだ。



「きっと、そうだね。前座だ」


 口角を上げて笑うと、「ね」と友達も目を細めて笑った。



——それはさ、素敵な旦那様と出会えたからこそ、言える言葉だよ。



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触れる指輪、あの日のわたしへ 葉月 望未 @otohana

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