3. 父なる神
幸いにも和田隊員の怪我は大したことなく大事には至らなかった。
だが、危うく命を奪われるところだった。……俺の和田が。
そして大魚も逸した。それも二匹……。
こんな事態を招いたのは隊員に油断があったから。
隊長はやり場のない怒りをあらわにした!!
「うおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
この時の心情について隊長の手記にはこう記されている。
――隊員達一人一人の気が緩みきっている。そして何より私自身の心に贅肉がある。チャンスを生かしきれない心の弱さがある!
これは非常に危険な兆候だ。若いころはズドンとねじ込めたはずの一撃が、指の間からこぼれ逃げてしまう乾いた砂のように、頼りなく覚束ないものに変わってしまった、のか……? これが老い、か。はは、まさかこの藤山たかしが老いに追いつかれるとは。
渾身の力を込めて気合を入れなおさなくては……。これでは命を失うことになりかねない。
ジャングルはエニシング・キャン・ハプン。本当の生命力が試される場所なのだから――
「ふぅうううう」
臨機応変、だ。
「わが身を守るのは常に自分。君たち自身であるのだ。自衛本能が無くては
「はい!」
「さぁ臨機応変に冒険を続けるぞ! よし、まずは風雲急を告げる小休止だ!!」
「はい!」
腕を枕にしてゴロン。こうすることで完全にジャングルと一体になれる。腹はきつい。しかし、隊長の胸に開いた穴は鍾乳石のドモホルンリンクルが如く、癒えるのは一滴一滴の集合を待たねばならない。だからまずは、その時間を寝て過ごす。これぞまさにジャングルサバイバーの真骨頂であった。
スピー。
早寝、早弁、早ナントカ。闘う男の順応の速さは、
◇◇◇
そこは夕暮れの寂れた下町。湿気で畳が少し浮いた四畳半に、ぶら下がる裸電球。ちゃぶ台にはインスタントラーメンの残骸と、空き缶、そして埃をかぶった探検帽が置かれている。
藤山たかしは、よれたTシャツにステテコ姿で寝転び、缶ビール片手にぼんやりとテレビを眺めていた。画面にはバラエティ番組。そこに『探検』の二文字は、もはやなかった――。
そこへ、ドンッ! とドアが開く。
「隊長ッ!!」
泣きながら飛び込んできたのは、副隊長の大川。かつて隊員たちをまとめ、勇気を鼓舞し、『鬼の大川』と呼ばれた熱血男であった。彼の目は真っ赤に腫れ、拳を震わせている。
「……なにをしてるんですかッ! あの藤山たかし隊長が! 世界を駆け抜けたあの背中が! こんな四畳半で、缶ビールとカップ麺に埋もれていいはずがないでしょう!?」
藤山は、ぐっと目をそらした。
「……大川よ。もういいんだ。探検も夢も、全部幻だった。和田は俺の元を去り、俺たちは笑い者になっただけじゃないか……」
「違うッ!」大川は畳に膝をつき、嗚咽混じりに叫んだ。
「笑われても、バカにされても! 俺は、隊長と一緒に見たんだ! 遊園地を古代文明の遺跡と間違え、メイド喫茶を未開部族の祭りと信じ、涙を流したあの日を! 心はッ!! あの心だけは、幻じゃない!」
藤山の手から、空き缶が転がり落ちる。
沈黙。
裸電球の下、二人の影だけが揺れていた。
「……大川。お前は、まだ燃えているのか?」
「燃えてますッ! 俺はあの日から、一度も消えたことがない! 隊長! 俺たちの探検は、まだ――終わってないッ!」
藤山たかしの目に、久しく乾いていた涙がにじんでいた。
「愛はまだ輝いているか?」
「はいッ! 煌々と!!」
埃をかぶった探検帽に手を伸ばす。その瞬間、四畳半の空気が変わった。
「……そこに和田はいるのか?」
「いません」
「……え? じゃぁ今日はもう帰ってえ」
その瞬間、もう一度、四畳半の空気が変わったのだった。
◇◇◇
もぞり。
もぞ、もぞり。
「――はッ! ……夢、か」
何か悲しい夢を見た気がする。あるまじき夢を見た、そんな気がする。藤山は、己の頬に涙の跡を発見し、いぶかしむように辺りを見回した。何か気配が……。
「……んむぅ?」
何かがおかしい。誰かに見られているのか? 不穏な空気を感じはじめたその時、また、またしても最年少隊員和田の近くに動くものを見つけて声を上げた。
「あ」
『モンベチェまみれ』
和田隊員を覆うように、こんもりと小山のようにたくさんのモンベチェが乗っていた。
あああああああああああ!!
「――ッッ!!?」
し、死んだのか?
藤山は信じられない気持ちでその光景を見つめた。
もはや今更焦っても手遅れ。和田の死体の周りを、まるで獲物を守るように囲んだモンベチェの群れ。
「あ、あああ……」
絶望の光景に膝をつき、頭を抱えた藤山隊長の肩を誰かがトントンと叩いた。
「……?」
振り返るとそこには、あの美しい現地部族女性が、ほほ笑みながら立っていたのだった。
「……なんだ?」
「タイチョウサン、キョウハオコシイタダキアリガトウゴザイマシタ」
この非現実的な光景を前に、何を伝えようとしているんだ?
「コレハ、トウテンノサービスデス」
「……む?」
凍り付くように固まる藤岡の手に、そっと渡されたのは小さな人形であった。
「……な、なんだ……!? これは……、私に向けられた……愛の印か!? 猫科の精霊を模した
だが、俺には和田という愛すべき隊員がいる。いや……、『いた』か……。
「うう」
見つめる女の潤んだ瞳。
藤山は『この場で、抱いて欲しい』というメッセージだけは受け取った。
「だがッ!!!!」
――去来するのは様々な思い出。
履歴書が送られてきた日、書類を見た俺は、その場で美容院に予約を入れた。
翌日、新人歓迎会のための居酒屋選びを俺自身がした。
そしてあの宴の晩、俺は歌いに歌った。
ラブバラードを。
和田は、俺の新品のアウターを褒めてくれた。俺のタンバリン捌きをカッコイイと言った。あれがわずか2日前の出来事。
あの幸せの時間。
俺達は肩を揺らし、時に激しく、時にしっぽりと、時を重ねてきたんだ――。
ああ、和田よ。永遠なれ。
モンベチェにまみれ、むなしく散った愛する仲間よ。
そして、目の前に俺を切実に欲する女がいる!
美しい女だ。
まだここに来て愛!!
もう進んだはずの交差点がまた目の前に現れた!
愛、愛、愛!!! 右を向いても左を向いてもこの地は愛に溢れているッ!!
ああ、愛に溺れそうだ!
だが俺は決断せねばならない!!
ああ神よ! 俺を試しているのか!? 藤山たかしの根底を!
愛がこれ程苦しいとは知りもしなかった。
「……俺を節操のない男だと笑うか、神よ」
ここはまさに愛ジャングル。愛、愛、あ、い……。
「――はッ!!」
藤山隊長がその人形を受け取ろうとして、直前で踏みとどまったのは、彼が真の男だからでも、昭和男児の一途からでもなかった。
「あれ?」
よく見ると、和田の胸が上下に動き、それに合わせてモンベチェも上下している。
なんだ、
「……普通に寝とるだけじゃないか」
――ってことは、
今度こそ人工呼吸チャンスだッ!!!
藤山は残った探検
「俺は探検隊の長……。外界から来た文明の男……。君の純真な心を、軽々しく受け止めてはならんのだ。 許せ! 俺が応えれば、君の世界に取り返しのつかない文化的衝突を生む。……それは禁じられた干渉だ!」
藤山は手を震わせ拳を握った。
そして、再び目を合わせてしまった――。
トクン。
「くっ……しかし胸が熱い……! この魂を焦がす想い……! 俺は、男として……、一人の人間として……彼女に惹かれている! だが! 探検家として! 部族の掟を尊重する者として! この想いを飲み込むしかない……! 愛ゆえに、応じてはならないのだッ!」
藤山は、この時の気持ちを隊長手記にこう記している。
――俺は今日ほど人間である我が身を呪った日は無い。目の前には、ごちそうとごちそう。だが、俺の唇は一つだった。
一つしかないのだ! なぜだ!?
神よ! ナゼ貴方は人間に二つ与えなかったのですか? これでは
究極のビーフオアチキン。
選べっこないじゃあないかッ!?
これでは片方の愛しか救えない! 俺の唇は
ああ、手のひらからご馳走がこぼれ落ちていく!
ああ神よ――、
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
俺は、決めたぞ!
「人類の未来のために……俺は愛を犠牲にする! 乙女よ、君の心は受け取った……。だが俺は……決して越えてはならぬ境界を踏み越えぬ! これが探検隊の使命であり、俺の宿命だ!」
藤山は、横で見守っていたガイドのチィーラポンを呼びつけると通訳を頼んだ。
受けて、チィーラポン。
「オカイケイ、オネシャス」
別れの時が来たのだった――。
◇◇◇◇
その後の出来事を、藤山はよく覚えていない。
ただ事実として、
1.スタンガンされた男がいたらしい。
2.その際に男は「
3.探検記録を見るに、人工呼吸を行えた者は居なかった。
4.そして愛の輝きは、絶えた――。
◇◇◇◇
そこは夕暮れの寂れた下町。湿気で畳が少し浮いた四畳半に、ぶら下がる裸電球。ちゃぶ台にはインスタントラーメンの残骸と、空き缶、そして埃をかぶった探検帽が置かれている。
寂れた土壁には、一枚の黄色く変色した紙が貼られていた。
『
猫カフェのチラシだった――。
完。
探検の、父。 すちーぶんそん @stevenson2
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