第3話 崩壊の足音
エリックの崩壊
――逃げ切れたはずだった。
だがエリックの耳には、あの夜の湿った音がまだこびりついていた。
ベッドに身を投げても、まぶたを閉じた途端に“絵”が浮かぶ。
「……まただ。やめろ……もう見せるな……」
寝返りを打ちながら、エリックは自分に言い聞かせる。
しかし心臓の鼓動が速くなるほど、視界の隅に異形の影が滲み出してくる。
街を歩けば、ガラスに映る自分の顔が一瞬、粘液まみれの肉塊に変わる。
「違う……これは幻覚だ。俺は正気だ……正気でいられるはずだ……!」
声に出しても、その響きは空虚に揺れるだけだった。
新聞の活字が蠢き、紙面全体が触手の群れに変わった夜、彼はとうとう声を張り上げた。
「やめろッ! 俺は望んでなんかいない!」
返事はなかった。ただ壁の隙間から、滴る音だけが返ってきた。
日常も崩壊していく。
バスの吊り革を掴めばぬるりとした冷感が走り、料理をすれば魚の眼が複数開いて自分を凝視してくる。
ある日のカフェ。親友が冗談めかして笑った瞬間、その顔が裂け、無数の眼がこちらを覗いた。
「やめろ……近寄るな! お前は……お前は誰だ!」
絶叫と共に立ち上がった彼に、店中の視線が集まった。
親友の「エリック、どうしたんだ?」という声すら、異形の囁きにしか聞こえなかった。
それ以降、彼は人を避け、孤独に沈んでいった。
耳の奥では、常にあの声が囁く。
『エリック……お前も……見た……もう戻れない……』
電話のベル音さえ、黒い染みの滴る音に変わる。
「頼む……俺を放っておいてくれ……」
彼は震える声で、受話器をそっと置いた。
ハーマンの残影
救いを求め、エリックは絵の作者ハーマンの過去を追った。
廃墟のようなアパートに足を踏み入れた瞬間、湿気と腐敗の臭いが鼻を突く。
「……ここに、何があった……?」
壁一面には黒い模様が走り、まるで触手が空間を這い回っているようだ。
机の上にはスケッチブックが残されていた。
ページをめくるたびに吐き気が込み上げる。
皮膚が剥がれ、眼窩から無数の眼が飛び出す男。
腕が触手に変形し、不自然に折れ曲がる女。
そして最後には――異形へと変わり果てたハーマン自身の肖像。
「……奴らは……私に……描かせた……」
走り書きの文字の下で、紙面がじわじわと黒く滲んだ。
そのとき、背後の壁から声がした。
『私は……ハーマンではない……』
それはロバートとハーマン、そして無数の知らぬ声が混じり合った、おぞましい響きだった。
裏側の世界
視界が歪む。壁は液体のように溶け出し、触手と複眼が蠢く景色が広がった。
空も地平もなく、ただ渦巻く暗黒と無限の眼がこちらを覗いている。
「……門だ……あれは門だったんだ……」
ハーマンは描かされ、ロバートは飲み込まれ、そして今度は自分が――。
足元を黒い粘液が絡め取る。
幻覚とも現実ともつかぬ声が頭蓋を満たした。
『さあ……こちら側へ……』
「いやだ! 俺は……俺は人間だ!」
その叫びは、アパートの闇に吸い込まれ、水滴のような音に変わった。
――やがて、誰も彼の声を聞く者はいなくなる。
次回 第4話「拡散する恐怖」
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