第2話 コレクターの転落

夜の静寂は、豪奢な屋敷の一室を異様に際立たせていた。

誰もいないはずの空間で、それでも耳を澄ませばかすかな「ざわめき」が漂っているように思える。


ロバートは、ついに手に入れた絵を自室の中央に飾り、ワイングラスを片手に見入っていた。

ランプの明かりに照らされた画布は、まるで水面の影のように揺らぎ、異形の群像がわずかに蠢いているように見える。


「さあ……見せてくれ」

彼はグラスを傾け、赤い液体を舌に転がしながら囁いた。

「私はずっと探していたのだ。常識では測れぬ領域を、真実の“裏側”を。芸術こそがその扉だ……私は選ばれたのだ」


その瞬間、絵の表面がざわめいた。

油絵の具の層が波打ち、静かな水面に投じられた石のように揺れ広がる。


複眼が、ゆっくりと彼を追った。

粘液を滴らせる触手の先端が、確かに画布から浮かび上がったように見える。


「……やはり、私の目は正しかった」

ロバートはうっとりと呟き、身を乗り出した。

「これは幻想ではない。光の加減でも錯覚でもない。裏側が……いま、開きかけている!」


次の瞬間、黒い染みがキャンバスから滴り落ちた。

床に落ちた染みはじわじわと広がり、ねっとりとした悪臭を撒き散らす。磯と血を混ぜたような臭気に、喉の奥が痙攣した。


「な……なんだ、これは……?」


ロバートの足元に染みが絡みつき、氷水のような冷たさで肌を侵しながら這い上がってくる。

壁紙がそれに触れた途端、ぶよぶよと膨れ上がり、腐った果実のように崩壊していった。


「芸術……だと? これが……」

陶酔は、たちまち絶望に塗り替えられる。


頭の奥で声がした。

それは耳の鼓膜ではなく、骨の奥を削るように直接響いてくる。

ざらついた砂利を擦り合わせるような、忌まわしい囁きだった。


『お前の望みどおり……見せてやろう』

『裏側の世界へ……ようこそ……』


ロバートの身体を黒い染みが覆い尽くす。

皮膚は溶けた粘土のように崩れ、骨格は音を立てて異形へと歪み変わる。

絶叫はやがて、肉が潰れる湿った音へと変わり果てた。


――翌朝。


エリックは不安に駆られ、友の屋敷を訪れた。

扉を開けた瞬間、鼻を衝く悪臭に吐き気を覚える。

室内は崩壊し、壁紙は黒く腐り、家具は果肉のように溶け落ちていた。


部屋の中央に残された黒い塊が、ぬらぬらと蠢いていた。


「ロ……ロバート……?」

エリックの声は震えていた。


「エ……リ……ック……」


それは確かにロバートの声だった。

だがその響きは歪み、人の声帯を模倣しようとする何かの呻きに近かった。


「お前も……見ただろう……あの……裏側を……」


黒い塊が、ずるりと這い寄ってくる。

エリックは悲鳴を上げ、玄関から飛び出した。

ハンドルを握る手は凍えたように震え、バックミラーの中で、屋敷の扉から黒い染みがじわじわと溢れ出していくのが見えた。


――あれは本当に現実なのか?

それとも、まだ夢の続きなのか?


彼の耳には、なおも低い囁きがまとわりついていた。


次回 第3話「崩壊の足音」



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る