第13話 「声にならない笑顔」

1. □ 朝の廊下にワックスの匂い。掲示板の告知が増え、紙の端が空調で「パタパタ」と小さく揺れていた。

2. □ 教室の扉を開けると、セロテープの「ペタ」、笑い声、マーカーのインク臭。準備の速度に空気ごと巻き込まれる。

3. 「おはよう」あちこちで交わされる挨拶が軽い。輪は自然に閉じたり開いたり、音だけで形を作っていた。

4. □ 蓮は喉を湿らせ、息を整える。胸の奥で鼓動が一度強く跳ね、舌先に言葉の輪郭を並べた。

5. 「……お、ぁ……よ……」息が先に抜け、母音がほどける。自分には響くのに、空気は受け止めてくれない。

6. 「お? いま言った?」近くの男子が笑って肩をすくめた。悪気はないのに、胸の皮膚の裏がひりつく。

7. 「おはようだよ」明日香がすぐ拾う。同じ言葉を柔らかく返し、会話の線を切らさない。

8. □ 救われる温度と、救われなければ立てない悔しさ。二つの重さが胸の奥でゆっくり軋んだ。

9. 「今日、装飾仕上げるよ」黒板前にクラス長。チョークが「キュッ」と鳴り、時間割の下に新しい段取りが並ぶ。

10. □ 腕章を付けた係が材料を配る。紙の束が移動するたび、繊維の粉の匂いがふわり立ちのぼった。

11. 「模造紙は三枚。見出しは太めに」明日香が束を抱える。蓮は端を支え、手の震えを紙の重さで隠した。

12. □ 机を寄せる音が重なり、島ができる。光が斜めに差し、紙の白さが目に強く跳ね返った。

13. 「見出し“校内写真館”でどう?」クラスメイトの提案。周囲が「いいね」と頷きの音を作る。

14. 「……こ、の……も、じ……」筆幅を示したくて指で空をなぞる。声が追いつかず、線だけが宙に浮いた。

15. 「見出し太字、二画幅で」明日香が代わりに言う。ペン先が走り、黒が紙に深く沈む。

16. □ 黒が吸う光を見つめる。自分の音が吸われる感覚と、少し似ていると思ってしまう。

17. 「曲線は任せて」女子がフリーハンドで飾り罫を描く。滑らかな線に小さな歓声が上がった。

18. □ 蓮の順番。ペンを握る指が「プル」と震え、最初の一画から波形が生まれる。

19. 「お、おう……ちょっと荒いな」誰かの冗談。軽いのに、胸の内側では鉛に変わる。

20. 「ここ、私が押さえるね」明日香が紙端を支える。たわみが減り、震えは少し浅くなった。

21. 「……あ、り……が」息の多い礼。自分では確かに言った。耳の奥で、かすれた“ありがとう”が反響する。

22. □ ペン先が紙の目を噛み、ガサッと小さな抵抗音。線は真っ直ぐにならないが、前進の記録にはなる。

23. 「写真のタイトル、どうする?」クラス長の声。机の端にメモが積み重なる。

24. 「……な、ま、え……と、ひ」項目を並べる。息継ぎの多い地図を、明日香がすぐノートにきれいに写す。

25. □ 伝わる速度は遅い。それでも届くたび、胸のどこかに細い橋が一本架かる。

26. 「昼の前に区切ろっか」先生が腕時計を見る。教室の熱が一度深呼吸した。

27. □ ペンを置くと指先が痺れている。手の震えが遅れて意識に到着し、汗の線が掌に残った。

28. 「パン買ってくる」明日香が財布を取り出す。蓮は「行く」と言いたくて喉に力を集めた。

29. 「……い、く」短い音が出た。言えた事実が骨になり、背筋が少し伸びる。

30. □ 廊下の風が汗をさらう。購買前の列は長く、パンの甘い匂いが遠くから波のように寄せてくる。

31. 「何にする?」明日香が顔を近づける。喧噪が音を砕く。

32. 「……め、ろ……ん」母音を拾い上げ、舌の裏で子音を押し出した。

33. 「メロンパンね。飲み物は?」彼女の耳は、こちらの音に合わせて呼吸しているみたいだ。

34. 「……み、るく……てぃ」最後の“ティ”が鼻に抜け、尾びれが霧になって消えた。

35. 「ミルクティー、了解」明日香の声は滑らかで、列の流れにぴたり合う。

36. □ トングの「カシャン」、袋の「カサ」。受け取った重みが、さっきの音の不確かさを少し補ってくれた。

37. 「教室戻ろ」階段を上がる靴音が交互に重なり、手すりの金属が手の汗を冷やす。

38. □ 窓の外に白い雲。夏はまだ残っている。胸の火は弱く揺れながら、消えずにいる。

39. 「いただきます」机に紙袋を広げ、甘い香りが近くを満たす。

40. 「……あ、んが……と」ありがとうの形を喉でなぞる。鼻へ抜け、最後の“う”がほどけた。

41. 「どういたしまして」明日香が微笑む。隣の男子が「その言い方かわいい」と笑った。

42. □ “かわいい”の軽さに救われる瞬間と、同じ軽さに刺さる瞬間が交互に来る。心の皮膚がひりひりする。

43. 「蓮くん、それ“ありがとう”でしょ」明日香が確かめる。頷くと、胸に薄い布が一枚かかった。

44. □ 噛み切ったメロンパンの甘さが舌に広がり、さっきの言葉の痛点を一瞬鈍らせた。

45. 「午後は貼り出しやるって」教室の前で係が声を張る。テープの輪がいくつも作られていく。

46. □ 机を拭く雑巾の水の匂い。窓際の風が紙の端を持ち上げ、光が白に滲んだ。

47. 「端、合わせよう」明日香が角を揃える。蓮は反対側を支え、震えを面の張力に紛れさせる。

48. 「……も、う すこ、し うえ」微調整の指示。子音が割れて転ぶ。指先で位置を示して補う。

49. 「ここね」彼女の指がすぐ動く。紙が「すっ」と吸い付く音がして、角がぴたりと決まった。

50. □ 小さな成功が胸に灯る。薄い灯でも、繰り返すたびに見える景色が少しずつ明るくなる。

51. 「タイトルの影、入れる?」クラスメイトの提案に、周囲の視線が黒の濃淡へ集まる。

52. 「……う、すく」濃度の指示。声が浅いぶん、身振りでゆっくり補った。

53. 「いい感じ」筆が紙を撫で、影が文字の足元に静かに落ちた。立体感が生まれ、掲示が息をした。

54. □ 声では足りない分、目と手で埋める。届き方は違っても、同じ場所に立てる実感が少し増える。

55. 「キャプション貼るよー」小さな紙片が風に揺れ、白い鱗の群れみたいに見えた。

56. 「……た、て……なら」縦並びの指示。鼻に抜け、語尾がほどけても、伝える意思だけは立っている。

57. 「縦並びで」明日香が繰り返す。紙片が縦のリズムに揃い、視線の流れができた。

58. □ 失速しない会話の速度。その中に、彼女の通訳で作られた細い通路が確かに延びている。

59. 「水、飲む?」明日香がボトルを差し出す。冷たさが指の熱を落ち着かせた。

60. 「……あ、り……がと」小さく。けれど今度は自分でも輪郭がはっきり聞こえた。

61. □ 胸の火は、酸素をもらえば燃える。酸素は彼女の頷きと、小さな成功の手触り。

62. 「先生来た」教室の空気が一瞬で整列する。クリップボードの硬い音が前で止まった。

63. 「素敵だね。じゃ、終礼前に最終確認」評価の言葉が短く落ち、胸の奥で遅れて花開く。

64. □ 自分が混ざった展示が“素敵”と言われる。言葉の端に、自分の欠片が確かに含まれている。

65. 「昼掃除、終わったら前集合ね」係の声。タオルを絞る水音が列になって流れた。

66. □ 流しの金属が冷たい。水滴が手首へ跳ね、指の震えの余韻を洗い流していく。

67. 「ねえ、これどう?」明日香がスマホで仮並びを撮って見せる。画面の光に文字がはっきり立ち上がる。

68. 「……よ、く……み、える」分節が短くても、伝える喜びは長く続く。

69. 「だよね」明日香の目が細く笑い、画面の中の黒が一段深く見えた。

70. □ 空調の風が少し強くなる。紙の端が「パタ」と跳ね、テープの輪が指にくっついた。

71. 「じゃ、終礼」チャイムが鳴る。時間が一旦、均等の刻みに戻る。

72. □ 机の上を整える音が連なる。準備のざわめきが静まり、人の息づかいが揃っていく。

73. 「文化祭当日の動き、再確認します」先生が配布する表が白く光り、列ごとに指が走った。

74. 「写真ブース、説明係は——」名前が読み上げられる。蓮の心臓が小さく跳ね、次の鼓動まで間が空く。

75. 「明日香と蓮」教室で視線が集まる。明日香がこちらを見て、静かに頷いた。

76. □ 恐れと誇りが同時に喉を通る。声で説明する未来が目の前に置かれ、足の裏に重みが宿る。

77. 「打ち合わせ、いま少しやろう」黒板前に小さな輪ができる。ペン先がカチッと音を立てた。

78. 「挨拶は短く。“ようこそ”と“自由に見てね”」先生の指示。言葉は簡単、出すのが難しい。

79. 「……よ、う……こ、そ」口の形をなぞる。息の比率を変え、母音を長めに。

80. 「いいよ。じゃ“自由に見てね”は?」明日香の問いが、次の足場を差し出す。

81. 「……じ、ゆ……に……み、て……ね」途切れても、意味は自分で自分を支えた。

82. 「大丈夫」明日香が親指を小さく立てる。胸にほぐれる音が広がる。

83. □ 周りの数人が「いいじゃん」と笑う。軽い肯定の粒が、喉の痛点をやわらかく通過した。

84. 「最後に質問対応。指差しとカードで補助」先生が道具を示す。選べる方法は心に余裕を作る。

85. 「……か、ど……つか、う」カードを持ち上げ、声と視線の導線を確認した。

86. 「よし、解散」拍手がぽつぽつ弾け、教室に昼のざわめきが戻ってくる。

87. □ 片づけの音の中で、喉の奥に残る熱をゆっくり飲み下す。痛みは小さく、今日の証拠のように残った。

88. 「帰り、少し歩こ」明日香が鞄を肩に掛ける。夕陽が窓の端で長く伸びる。

89. □ 廊下は人の流れが細くなり、靴音が規則的に遠ざかっては近づいた。

90. 「今日の挨拶、よかった」明日香の声が、日差しより柔らかく頬に触れる。

91. 「……あ、り……がと」さっきより息が少ない。自分の耳の中で、輪郭が少し強くなった。

92. □ 階段を降りるたび、胸の火が揺れても消えない。踏み板の「コトン」が、そのたび支えてくれる。

93. 「当日、私も隣で言うから」並んで歩く影が重なり、舗道の上で長く伸びた。

94. 「……い、っしょ……に」短い未来形が口に乗る。音は脆い、意味は強い。

95. □ 交差点で風。信号の青が瞳に冷たく入り、熱と混じってちょうどよくなる。

96. 「明日、早めに来るんだよね」彼女の確認。朝の光の色が、まだ見ぬ未来の窓に差した。

97. 「……は、や……め」言い切る。胸に結び目が作られ、ほどけにくくなる。

98. □ 家の門をくぐると、夕飯の匂いが薄く流れてくる。「おかえり」は今日も短い音で着地した。

99. □ 部屋で鏡を見て「……よ、う……こ、そ」ともう一度。崩れても、練習は失敗ではない。

100. □ タブレットに《こえで いえた ぶんだけ ぼくになる》と残す。未完成の恋模様は、声の種火を抱いて次へ進む。

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