第14話 「声を預ける勇気」

1. □ 放課後の教室に、紙とインクの匂い。黒板には当日スケジュールが貼られ、端が空調で「パタ」と揺れた。

2. □ 担任が前に立ち、配布表を配る。ホチキスの「チキ」が静けさを切り、視線が一斉に前へ集まる。

3. 「写真展示、当日の担当はここ」指先が表をなぞり、名前の列が光を帯びるように見えた。

4. □ 表の中央に“説明係:小鳥遊・水城”。自分の姓の二文字が、胸の内側に重く沈む。

5. 「大丈夫。一緒にやる」明日香が横で囁く。声が耳の奥に温度を残していった。

6. 「ちゃんと話せるの?」何気ない一言。悪気はないのに、刃物みたいに軽く鋭かった。

7. □ 返事は出ない。喉の奥で言葉だけが行列を作り、出口の狭さで押し戻されていく。

8. 「練習してるから平気だよ」明日香が柔らかく受け、視線の角度を少し変えた。

9. □ その一言に救われ、同時に悔しさが胸の底で小さく鳴った。「自分で答えたい」のに。

10. 「じゃ、配置再確認」チョークが「キュッ」と走る。白が黒に線路を敷いていく。

11. □ 写真パネルの枚数、導線、立ち止まり場。紙の矢印が増えるほど、喉の渇きも増えた。

12. 「タイトルはこの高さが見やすい」明日香が測り、指先で壁に目印を置く。

13. □ 画鋲をつまむ。指先が「プル」と震え、頭では真っ直ぐなのに、軌道が少しずつ逸れた。

14. カチ。壁の芯を外し、画鋲が床へ「コト」と跳ねる。沈黙が一拍、埃と一緒に落ちた。

15. 「大丈夫、私ここ押さえる」明日香が紙端を支える。たわみが消え、呼吸が一つ深くなる。

16. 「……あ、り……が」息の多い礼。自分には確かに聞こえ、空気には薄くほどけた。

17. □ もう一度。針が音もなく沈み、紙が「すっ」と壁に吸い付いた。角がぴたりと揃う。

18. 「いいね。その調子」先生の低い声が、背骨を内側から支える棒になった。

19. □ 隣の島ではペンキの匂い。ローラーの「ザッ」が壁を均し、色が面積で勇気をくれる。

20. 「説明ボードのフォント、太くする?」誰かの問い。言葉の速度に喉が置いていかれる。

21. 「……う、す……く ふと……く まぜ……」濃淡の指示が砂のように崩れ、身振りで補う。

22. 「見出しは太く、本文薄めで」明日香が通訳。黒が呼吸を覚え、読みやすさが生まれた。

23. □ 代弁の安心と悔しさが半分ずつ。胸の糸がきゅっと絞られて、結び目が増えていく。

24. 「当日の挨拶、もう一回」先生が台本を示す。短い文ほど、声で運ぶのは難しい。

25. 「……よ、う……こ、そ」息の比率を変える。鼻へ抜けても、目の前で意味は立ち上がる。

26. 「“自由に見てね”も言ってみよ」明日香の視線がまっすぐ、出口を指し示すようだった。

27. 「……じ、ゆ……に……み、て……ね」分節が荒い。それでも、骨は自分の中に立った。

28. 「よくなってる」短い肯定が、胸の奥に酸素を入れる。火が明るく、少し静かに燃えた。

29. □ 夕陽が窓枠を斜めに染める。机の影が長く伸び、白い紙の端だけがまだ昼だった。

30. 「今日はここまで」解散の声。椅子脚が床で「キュッ」と軋み、島がほどけていく。

31. □ 掃除用具の金属が触れ合い、「カラン」と軽い音。終わりの合図は、少し心細い。

32. 「明日、早めに集合しよ」明日香が腕時計を見て、目だけ笑った。

33. 「……は、や……め」短い約束でも、言えた事実が背中に残る。

34. □ 廊下は放課後の音が薄く、窓の外の風の方がよく聞こえた。セミはもう、間隔を空けて鳴く。

35. 「のど、平気?」問われるたび、見られているのではなく“見てくれている”と分かる。

36. 「……だ、いじょ……ぶ」嘘じゃない。でも、少し痛い。その少しが、今日の証拠。

37. □ 校門を出ると、アスファルトの熱が弱くなっていた。季節の境界が靴底に薄く伝わる。

38. 「明日、私が最初の“ようこそ”言うね。次、蓮くん」段取りが梯子のように並ぶ。

39. 「……わ、か……た」短い二音が、次の段を確かに踏む。

40. □ 別れ際、影が重なって離れる。離れた先で、明日香の笑顔だけが灯の色をしていた。

41. □ 家の玄関は涼しく静か。「おかえり」が短く落ち、廊下の奥でやわらかく止まった。

42. 「準備、進んだ?」台所の音に混じる問い。湯気の匂いが夏の塩を薄める。

43. 「……う、ま……く」切れ切れの返事。言えた分だけ今日が確かになる。

44. 「そうか」会話はそこで終わる。悪くない。けれど、もう一歩を渡したかった。

45. □ 本当は「明日、説明係」と言いたい。喉の奥に置いたまま、息が先に部屋に入っていく。

46. 「……せ、つ……め」音の断片。相手の眉がわずかに寄り、「わかった」で閉じられた。

47. □ 伝わらないまま扉が閉まる感じ。心の中で手を挟んだみたいに、少しじんと痛む。

48. □ 自室の灯を点ける。机の上に置いた台本の端を撫でると、紙の繊維のざらりが指に残った。

49. 《せつめい がかり》タブレットに打って保存。光の四角が、天井の白にやさしく滲む。

50. □ 鏡の前。口の形をゆっくり作る。顎、舌、唇。体の部品と音の位置をひとつずつ整える。

51. 「……よ、う……こ、そ」鼻へ抜ける息が言葉を薄める。自分の耳では輪郭が濃い。

52. □ もう一度。腹に手を当てる。小さく、深く。胸の火に酸素を押し込むみたいに吸う。

53. 「……じ、ゆ……に……み、て……ね」途中で足りなくなった息を、視線で補った。

54. □ 目の前の自分が頷いた。鏡は何も言わないが、逃げない相手としては十分だった。

55. 「質問はカードをどうぞ」練習の台詞。喉の奥に紙片が引っかかったような異物感。

56. □ 机にカードを並べる。矢印、よくある質問、展示の見所。視覚の支援は心の支援にもなる。

57. 「……し、つ、も……ん……」細切れの音。けれど指がカードを指すと、意味が前へ進む。

58. □ 扇風機が「ブーン」と回る。乾いた風が頬を撫で、声の熱だけが喉に残った。

59. 「……す、ひ」崩れた二文字。言いたい言葉は相変わらず、いちばん難しい。

60. □ でも明日は“説明”が役割。役割の中で出す声は、一人の告白よりきっと易い。そう思う。

61. 《ほんとは こわい》短く打つ。嘘のない文字は、呼吸みたいに胸を落ち着かせた。

62. □ ベッドに腰を下ろし、足先で床を探る。夏の残りの熱が薄く、木目の冷たさが濃い。

63. 「明日、失敗したら」想像の扉が少し開く。中は暗い。でも、誰かが隣にいる気配がした。

64. 「……い、っしょ」声に出してみる。未完成でも、二人称があるだけで、夜は少し明るい。

65. □ メトロノームのアプリを開く。一定の拍に合わせて、短い文を口に乗せる練習。

66. 「……よ、う……こ、そ」一拍目で出す。二拍目で息。三拍目に笑顔。

67. 「……じ、ゆ……に……み、て……ね」拍の支えは心の支え。沈黙の長さを怖がらなくていい。

68. □ 失敗の後ろに、次の拍が必ず来る。その簡単な真実が、少し救いになった。

69. 「——はい、どうぞ」質問役の自分に返す。鏡の向こうの自分がカードを受け取る。

70. □ 体と声のチューニング。筋が伸び、喉の奥の強ばりが少しほどける。

71. 「のど、飲み物」キッチンへ行き、コップに水。水面の波紋が天井の灯りを崩して揺らす。

72. □ 一口で喉が冷え、二口で胸が深くなる。三口目は、心の熱を残しておくためにやめた。

73. 「——明日は、笑う」誰に向けたでもない誓い。声の端が自分の鼓膜にやわらかく触れた。

74. □ カーテンの隙間から風が「スー」と入る。街の遠い音が粒になって、耳にやさしく積もる。

75. 「……あ、り……がと」今日いちばん言った言葉を、もう一度。言うたびに意味が濃くなる。

76. □ 明日香の「大丈夫」が、耳の奥の安全地帯みたいに残っている。そこへ背を預ける。

77. 《あした うまく いかなくても なら いっしょに なおす》タブレットに、約束の下書き。

78. □ 画面の光が指先を照らし、爪の白が小さく立ち上がった。自分の手が、自分を応援する。

79. 「——もう一回、初手だけ」鏡の前に戻る。初手が決まれば、二手目は軽い。

80. 「……よ、う……こ、そ」先ほどより息が滑らか。母音が途切れず、一枚の布になった。

81. □ 鼻へ抜ける音は残る。でも、布の質感が柔らかくなれば、聞く側の肌触りも変わるはずだ。

82. 「自由に見てね」今度は心で先に言い、口は後で追いかけた。順番を変えると、少し易しい。

83. □ ベッドの端に腰を戻し、足をぶらぶら揺らす。緊張の粒が足先から床へこぼれていく。

84. 「質問はカードをどうぞ」カードを持ち上げ、笑顔を添えるイメージ。鏡の自分が頷いた。

85. □ 家の奥から食器の触れ合う音。日常の音が、心拍を日常のリズムへ引き戻す。

86. 「——たぶん、できる」声に出しておく。根拠は少ない。でも、ゼロじゃない。

87. 《こえは きっと とどく》保存。四角い光が天井で揺れ、部屋の空気がわずかに軽くなる。

88. □ 枕元の明かりを落とす。暗さは深いが、怖くない。目が慣れるまでの数呼吸を数える。

89. 「す?」耳の奥で、あの復唱が小さく跳ね返る。次の一音を促すやわらかな合図。

90. □ 眠りの手前、喉の奥がとても静かになった。火は消えず、ただ小さく丸く灯っている。

91. □ 朝の準備を思い浮かべる。校門、教室、黒板、パネル。順路を心で一度歩いた。

92. 「——最初の“ようこそ”は彼女。次が自分」段取りが梯子から通路に変わる。

93. □ 失敗しても、通路は残る。引き返せばいいし、立ち止まってもいい。通路の幅は二人分ある。

94. 「……い、っしょ」小さな寝言みたいに漏れた。耳が聞き取り、胸が頷く。

95. □ まぶたの裏で、夕焼けの色が薄く残光を引く。紙の白、黒の線、指の震えも一緒に並んだ。

96. 《あした ぜんぶは できない でも すこしは できる》文字が心の中の物差しを短くやさしくする。

97. □ 体の力が抜け、布団の重みが均等に乗る。呼吸が浅く長く、静かな波になった。

98. □ 鼻から抜ける息の音が、遠い潮騒みたいに聞こえる。言葉の前身、音の素粒子。

99. □ 不安と期待は同じ重さで胸に入り、天秤は水平を保つ。その水平が、今夜の平和だった。

100. □ 未完成の恋模様は、声を預ける勇気を胸に、静かな暗闇から明日の光へと歩き出す。

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