第12話「伝わらない会話、近づく距離」
1. □ 放課後の教室は、夏の熱と紙の匂い。ガムテープの「ビリ」が弾け、笑いが天井でほどけた。
2. □ 黒板のラフは白い粉を散らし、光の粒が空中を漂う。誰かの声が重なって、次の案へ滑っていく。
3. 「写真は入口に寄せよう」軽い提案。拍手が小さく跳ね、話題は矢の速度で前へ走った。
4. □ 蓮は手を挙げる。胸に熱い脈が一度強く打ち、喉の奥で言葉が火の種みたいに揺れた。
5. 「……しゃ、しん……の、なら……び……」子音が崩れ、母音だけが薄く漂って消える。
6. 「え? もう一回?」やわらかな笑顔。けれど輪は斜め後ろへともう進みはじめていた。
7. □ 明日香だけが身を乗り出し、唇で「ゆっくり」と伝える。目の奥が、聴く姿勢の色をしていた。
8. 「……な、なな、め……」息が先に抜け、言葉の骨が砂になって落ちた。
9. 「斜めにしよう。動きが出る」明日香が黒板に線を引く。白が走るたび、意図が形を得た。
10. 「いいね」輪が戻る。胸にあたたかさと、声が遠回りする痛みが同時に根を張る。
11. □ 役に立てた実感と、お荷物みたいな自己嫌悪。反対向きの糸が胸の中で絡まり続けた。
12. 「キャプション短めで?」次の問い。空気は軽く、決定は素早く、息はまだ乱れている。
13. 「……み、じか……く」語尾が霧になる。机の木目が視界の端で揺れていた。
14. 「了解」明日香の声が輪郭を補強し、チョークが静かに白を積む。
15. □ 発言一つで喉が灼ける。吐く息は浅く短く、胸郭がきしむ。火を抱えたまま言葉を探す。
16. 「買い出し組、分けるぞ」表が回り、紙の手触りが指にざらりと引っかかった。
17. 「明日香と蓮、用紙とボード」先生の声が落ちる。心臓が「ドン」と内側から扉を叩く。
18. □ 役目の重さが背を伸ばす。怖さと嬉しさが半分ずつ、脈に合わせて入れ替わる。
19. 「行こ」明日香の袖が光を弾く。斜めの夕陽が廊下に長い影を並べた。
20. □ 靴音が「コツン」と揃う。窓外の雲はほどけ、夏と秋の境目みたいに形を変え続ける。
21. □ 駅前は人と音の海。車の「ゴウ」が薄い声の端をさらって、簡単に消していった。
22. 「このボードでいい?」表面が蛍光を返す。数値の列が目に強すぎて、瞬きを増やす。
23. 「……こ、れ……で」途中で折れる。縁を指でトントン叩き、頷きで輪郭を補った。
24. 「B2二枚で」明日香の声は滑らか。注文が前へ進むたび、置いていかれる感覚が背に触れた。
25. □ 自分の声が背中から覗いている。前に出たいのに足が重く、肩の奥で熱が澱む。
26. 「用紙は光沢? マット?」二択の軽さと、喉の重たさの落差に目眩がする。
27. 「……ま、っと」鼻へ抜けて震え、最後の子音は無音のまま床に落ちた。
28. 「マットでお願いします」代弁が救いになり、同時に小さな棘にもなる。
29. □ ありがとう、と言いたい。胸の中心で言葉が丸まり、出口を見失っていた。
30. 「テープは強粘着?」選ばせる声。その余白が、まだここにいていい証明みたいで救われる。
31. 「……つ、よ……」破片みたいな音。けれど拾われて、商品は籠の中で確かな重さになった。
32. □ ざわめきの天井に薄い声が吸い込まれ、粒になって散る。拾うのは、彼女だけ。
33. 「休憩しよ」紙袋が手に食い込む。遠くの風鈴が「チリン」と風を縫った。
34. □ 喫茶店の扉で鈴が鳴る。冷気とコーヒーの焦げた甘い匂いが、皮膚を内側から冷やす。
35. 「何にする?」メニューの黒が濃い。視線を落とし、喉の奥で音の形を並べる。
36. 「……あ、い、す……てぃ」母音を一本ずつ拾い上げ、子音は背から押すようにして出した。
37. 「アイスティーだね。砂糖は?」穴を塞ぐ声の速さに、胸が少し整う。
38. 「……な、し」言い切る前に息が尽きる。それでも届く。届いた分だけ、熱が和らいだ。
39. □ 伝わる瞬間の温度差。過去の失敗が背を冷やす。氷がグラスで「コト」と鳴いた。
40. 「がんばってる」明日香の目は逃げ道じゃなく、居場所を指す目だった。
41. 「……う、ん」短い肯定。薄い声でも、意味は自分を立たせる。
42. □ 隣席の笑いが高く跳ね、こちらの音を薄める。世界は時々、無邪気に耳が遠い。
43. 「無理しなくていいよ」優しさの重さが、胸の深いところへ静かに沈んだ。
44. 「……む、り……じゃ、な……い」自分でも頼りない音。けれど今は、それでもいいと言い聞かせる。
45. □ 本当は怖い。怖さごと渡したい。けれど声は軽く、心だけが重い。
46. 「蓮くんの声、好き」即答。言葉が鼓膜から心臓へまっすぐ届く感触に、目の奥が熱くなる。
47. 「……あ、り……がと」崩れた輪郭でも、感謝は確かな温度で唇に残った。
48. □ グラスの露が指を濡らす。冷たさが、熱くなりすぎた思考を端から削いでいく。
49. 「次、紐と画鋲」立ち上がる。椅子脚が床で短く鳴り、影が二本、ゆっくり伸びた。
50. □ 夕暮れの商店街。赤い信号が長く、蝉の声は切れ切れ。店先の油が甘く香った。
51. □ 紐の棚は色の洪水。包装のビニールが「カサ」と擦れ、視線の行き場が少し遅れる。
52. 「黒? 白?」問いは軽いが、選ぶ一音が世界の色を決める気がして喉が固くなる。
53. 「……く、ろ」砕けた音のあとに頷きを重ね、意思の形を相手に渡す。
54. 「黒にしよ。写真が締まる」籠に落ちる小さな音が、決定の輪郭をくっきりさせた。
55. □ 代弁されないと動けない自分と、代弁してもらえる救い。二つの重さで胸がぎゅっと軋む。
56. 「このクリップ、可愛い」明日香が笑う。金具が光を掴み、小さな星みたいに瞬いた。
57. 「……に、あ……う」褒め言葉が鼻へ抜け、意味だけが内側で熱を持つ。
58. 「え?」一瞬の聞き返し。宙に浮いた好意がほどけそうで、指先が冷たくなる。
59. 「……す、て、き」母音で繋ぎ直す。彼女の頬がふわり赤く染まり、胸に甘い重みが落ちた。
60. 「ありがと」短い礼が、今日の努力に静かな栞を挟む。
61. □ レジ袋の中で紙が擦れ、シャリと鳴る。持ち手が手のひらに食い込み、現実の重みを教える。
62. 「少し歩こ」風のとおり道。提灯が「ゆら」と揺れ、赤が舗道に薄く滲んだ。
63. □ 並ぶ足音が同じ速さで続く。心臓だけ一歩先に跳ね、胸骨の裏を軽く叩く。
64. 「今日、たくさん話してくれて嬉しかった」受け止める言葉が、喉の渇きに沁みた。
65. 「……ま、だ……い、える」自分への宣誓。小さいけれど、確かな未来形。
66. 「聞くよ、何度でも」待つ姿勢の温度が、耳の奥をふわり温める。
67. 「……す、」入口で息が滑る。舌の先が迷い、音は砂に崩れた。
68. 「す?」復唱が手すりになる。掴み直す時間をくれる音。
69. 「……す、き……」母音を引き合わせ、鼻へ抜けても自分にははっきり響く。
70. 「え……ありがとうって?」救いの解釈。優しさが丸い刃になって胸へ静かに入る。
71. □ 「……う、ん」と嘘を置く。歩幅が半歩遅れ、夕風が熱と冷たさを混ぜて頬を撫でた。
72. 「こちらこそ」澄んだ笑顔。痛みが一瞬、綺麗にごまかされてしまう。
73. □ 交差点の青が灯る。冷たい色が瞳に入って、息の速さを少しだけ整えてくれる。
74. 「明日、貼り込み。早めに来られる?」差し出された予定が、明日の輪郭を作る。
75. 「……は、や……め」短い約束でも、言い切れた事実が胸骨に小さく刻まれる。
76. □ 風が提灯の火を揺らし、すぐ戻す。自分の心は揺れっぱなしのまま、夜が深くなる。
77. 「喉、痛くない?」気遣いの手触り。見えない掌で喉元をそっと撫でられた気がした。
78. 「……だ、いじょ……ぶ」少し痛む。だけどこの痛みは、今日を確かにした証にも思える。
79. □ ベンチに腰を落とす。背中の汗がシャツへ移り、夜気が冷たく貼りついた。
80. 「練習、付き合おうか」差し出された提案に、胸の火が明るくなる。
81. 「……つ、きあ……て」噛んだ言葉に、二人で小さく笑う。笑いは痛みの輪郭を丸くした。
82. 「付き合う、ね」言い直しが灯りになり、暗がりの中の足場を一段増やす。
83. □ 空は星が少なく、街の灯りが多い夜。少ない方へ、視線は自然と吸い寄せられた。
84. 「今日はここまで」立ち上がる影が長く伸び、重なって、名残惜しそうに離れる。
85. 「……ま、た あした」鼻へ抜けても、言いたい方向は一つだけ真っ直ぐだった。
86. 「また明日」手を振る笑顔が、帰り道の暗さを少し無効化してくれる。
87. □ 玄関の空気は冷たく静か。「おかえり」は短く、床にやわらかく落ちた。
88. 「準備は?」軽い問い。今日の重さを思い出し、胸の内側で答えを選ぶ。
89. 「……う、ま、く」切れ切れでも、嘘じゃない。一日の小さな勝ち点。
90. 「そっか」会話が止まる。静けさは空白ではなく、息を整える余白に変わっていた。
91. □ 部屋で袋を置く。紙の匂い、外の熱、彼女の笑顔。記憶の層が静かに重なる。
92. □ 鏡の前。「……す、き」崩れた音でも、意味は胸の真ん中で真円になった。
93. 《ほんとは すきって いった》証明のように打ち、今日の自分へサインを残す。
94. 《きこえなくても ほんとう》小さな光の四角形が、天井の白をやさしく照らした。
95. □ 扇風機が「ブーン」と回り、乾いた風が喉の熱を撫でていく。痛みはまだ、でも軽い。
96. 《あした も こえ で》保存。未来へ投げる小さな旗みたいに、文字が胸に立つ。
97. □ 目を閉じると、「す?」と復唱する彼女の声が、耳の奥で柔らかく跳ね返った。
98. □ すれ違いは消えない。けれど歩幅は確かに寄り、沈黙の長さも少し短くなった。
99. □ 伝わらなかった欠片と、拾い上げてくれた欠片。二つを胸の中心でそっと並べる。
100. □ 未完成の恋模様は、壊れやすい音を抱いたまま、明日の黒板と紙の匂いへ続いていく。
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