第11話 「声にしたい言葉」

1. □ 夏の終わりの風が窓を揺らす。蝉の声は弱まり、部屋の空気だけが熱い。

2. □ タブレットの画面を暗くした。今日は打たない。声で伝える、と決めた。

3. □ 鏡の前。深く息を吸う。胸の奥で鼓動が「ドクン」と一度、大きく鳴る。

4. 「……あ、んが……と」

 鼻へ抜けた息が言葉を崩す。自分の耳では確かに「ありがとう」だ。

5. □ もう一度。「……あ、んが……と」形は見えるのに、輪郭がすぐ曖昧になる。

6. □ 口の形、舌の位置。頭で並べても、出てくるのは息と擦れただけの音。

7. □ けれど今日は、諦めたくない。胸の奥で小さな火が「チリ」と灯る。

8. 「……す、ひ……」

 練習の先に、喉の奥で別の言葉が騒いだ。言えない二文字。

9. □ タブレットへ伸びる手を止める。頼らず立ちたい。夏の終わりに間に合いたい。

10. □ 玄関で靴紐を結ぶ。指先が震え、輪っかは何度もほどけた。

11. □ 登校日の朝。校門の前に集まる声が「ガヤガヤ」と夏の余韻を弾ませる。

12. 「蓮くん!」

 振り向けば明日香。汗に光る額と、いつもの、真っ直ぐな瞳。

13. □ タブレットは鞄の中。喉が乾く。水筒の冷たさで、決意をもう一度締める。

14. 「おはよう」

 彼女の声に、胸が跳ねる。返すのは——今日だけは、指じゃない。

15. 「……お、ぁ……よ……」

 鼻に抜けた息が言葉を裂く。自分には届くが、空気には届かない。

16. 「え?」

 明日香は微笑んだまま、少しだけ首を傾げた。傷つけない聞き返し方。

17. 「……お、よ……う」

 母音がほどける。破裂音は影だけ。息が先に駆けてしまう。

18. 「おはよう、だよね。おはよう」

 明日香が受け止め、同じ言葉をゆっくり返す。胸が緩む。

19. □ 伝わる。ほんの少し。でも確かに。火は大きくなり、怖さも同じだけ増える。

20. 「今日、ホームルーム少し長いって」

 彼女が話す。頷きたい喉が、先に乾いた。

21. 「……う、ん」

 鼻の奥で丸まる音。それでも返事になった。小さく自分を抱きしめる。

22. □ 教室の空気は新しいノートの匂い。机の木目が、夏の終わりを吸い込んでいる。

23. 「席、ここ座ろ」

 明日香が隣を指す。椅子の脚が床で「キュッ」と短く鳴いた。

24. □ チャイムが鳴り、先生の声が教室に広がる。視線は前へ、思考は胸へ。

25. □ 休み時間。騒がしさが戻る。目の前にある二文字を、喉の奥で転がす。

26. 「蓮くん、夏休みどうだった?」

 明日香の問いは軽く、受け止めるには重い。

27. 「……た、の……し……」

 後半が息になる。胸の奥で、言えた部分だけ何度も再生する。

28. 「よかった」

 即答の笑顔。足りない輪郭を、笑顔が補正してくれるみたいだ。

29. □ ここで言う。喉の奥にある二文字。夏が終わる前に、声で。

30. 「……す、ひ……」

 息が先に走り、子音が崩れる。鼻の奥がかすかに痛む。

31. 「え?」

 明日香の瞳が揺れる。笑顔は保ったまま、耳だけが真剣だ。

32. 「……す、き……」

 母音が合って、子音が溶ける。自分にははっきり聞こえた。

33. 「……ありがとう、って言おうとした?」

 彼女はそっと、救いの答えを置く。

34. □ 胸がきゅっと縮む。うなずけば楽になる。違う、と言えば壊れる。

35. 「……う、ん」

 うなずいた。小さく嘘を落とす音が、胸の底に広がった。

36. 「こちらこそ」

 彼女は柔らかく笑う。救われる。けれど、沈む。

37. □ 鞄の中でタブレットが重い。取り出せば簡単だ。今日は、違う。

38. 「蓮くんの声、かわいい」

 その一言が、想像より奥まで届いて、涙の境界を押した。

39. 「……あ、り……がと」

 鼻へ抜ける息が震える。自分には「ありがとう」に聞こえた。

40. □ 彼女は頷き、手帳に予定を書き込む。ペン先が軽く踊る音だけが確かだ。

41. 「放課後、文化祭の展示会議ね」

彼女の段取りに救われる。未来の形が、少し輪郭を持つ。

42. 「……わ、か……た」

 短い音で返す。息の隙間が、言葉の骨になれますように。

43. □ 授業中、何度も口の中で二文字を転がす。舌は覚えるのに、声は裏切る。

44. □ 窓の外の雲がちぎれて流れる。夏と秋の境目みたいに、音もよくちぎれる。

45. 「蓮くん、ここ、どうするの?」

 ノートの疑問を指す明日香。近い距離に心拍が暴れる。

46. 「……こ、こ……は……」

 続けたかった。息が先に尽きて、後ろが崩れた。

47. 「ゆっくりでいいよ」

 彼女の声は、急がないで、と言うために生まれてきたみたいだ。

48. □ もう一度深呼吸。胸の中の火は消えていない。恐れだけが影を増やす。

49. 「……こ、この ぶ……ぶん」

 破裂音が砂になる。けれど指先で指し示すと、彼女は頷いた。

50. 「分かった。ここね。——大丈夫だよ」

 ゆっくりの笑顔。心の速度に合わせてくれる。

51. □ 昼休み。教室の「ガヤガヤ」が海鳴りみたいに遠く近く揺れる。

52. 「パン買ってきた。半分こしよ」

 差し出された袋の温度が、言葉より先に心に触れる。

53. 「……あ、り……が……」

 喉の奥で音が転ぶ。鼻に抜け、最後が霧になる。

54. 「どういたしまして」

 彼女は笑う。受け取る場所を作ってくれる人。

55. □ 一瞬、タブレットを出しかける。やめる。今日だけは、喉で進む。

56. 「蓮くん、今の『ありがとう』、好き」

 何でもない一言が、肺の奥まで酸素を満たす。

57. 「……う、れ……し」

 短い尾が切れた。けれど意味は残る。

58. □ 体育館へ行く用事。廊下の風が汗を奪い、胸の火を少し落ち着かせた。

59. 「展示のレイアウト、どうしよっか」

 彼女の話に相槌で合わせる。言葉は短く、意図は長い。

60. 「……こ、こ……に しゃしん」

 息継ぎが多い地図。けれど指差しが線を補ってくれる。

61. 「いいね」

 肯定が、崩れた音の隙間を縫って形を与える。

62. □ 窓の外、運動部の掛け声が弾む。羨望と安堵が交互に胸を叩く。

63. 「明日、プリント屋さん一緒に行こ」

 彼女の予定が、未来を引き寄せる紐になる。

64. 「……い、く」

 短い約束。小さく確かに、胸に結び目ができた。

65. □ 放課後の会議は賑やかだ。発言の弾丸は速い。自分の弾は、今日は喉から。

66. 「意見ある?」

 視線が散らばり、やがてこちらに集まる。心拍だけが真っ直ぐ。

67. 「……しゃ、しん……の…… なら……び」

 音の列は乱れる。だが意味は机上で整っていく。

68. 「了解!」

 黒板にチョークが走る。破片みたいに白が飛ぶ。

69. □ 会議後、廊下。明日香が「よく言った」と微笑む。小さく手を叩く音。

70. 「……こ、え……で」

 伝えたかった。今日はそれだけが、目標で、救いだった。

71. 「聞こえたよ」

 即答。迷いのない「聞こえた」が胸の奥で何度も反響する。

72. □ 夕暮れ。窓越しの空に、薄いオレンジが長く伸びる。息が深くなる。

73. 「帰ろう」

 歩幅を合わせる音。階段で靴が「コツン」と重なった。

74. 「……あ、の」

 切り出す。廊下の角で風が少し、背中を押した。

75. 「ん?」

 明日香の顔が近い。心音が、言葉の前で渋滞する。

76. 「……す、ひ……」

 また崩れる。鼻へ抜け、子音だけがほどけ落ちる。

77. 「……『好き』って言おうとした?」

 柔らかな問い。逃げ道を塞がず、扉だけを開ける問い。

78. □ 胸が熱い。頷くと、嘘の痛みはない。だが声で言えなかった悔しさが刺す。

79. 「ありがと」

 彼女は照れて笑う。夕陽が頬を薄く染めた。

80. 「……ご、め……」

 言えなくて、ごめん。届かなくて、ごめん。

81. 「ごめんじゃないよ」

 明日香は小さく首を振る。「蓮くんの声、私、好きだよ」

82. □ その一言が、肺の奥に新しい空気を作った。目の奥が熱くにじむ。

83. 「……ま、た……い、う」

 いつか、ではなく、また。今日の続きとして。

84. 「うん。いつでも、何度でも」

 約束が軽いのに、芯がある。言葉の支柱みたいに立つ。

85. □ 校門の外は、夏の終わりの匂い。夕風が制服を「サワ」と撫でた。

86. 「また明日ね」

 手を振る影が重なる。声は出ないが、胸は確かに返事をした。

87. □ 家の玄関は涼しく、静かだ。「おかえり」はいつも通り短い。

88. 「学校、どうだった?」

 問いは軽い。胸は今日だけ重くなく、静かに波打つ。

89. 「……た、の……し」

 息の多い音。それでも、今日の真実に最も近い音。

90. 「そうか」

 会話はそこで止まる。止まっても、今日は落ちない。

91. □ 部屋の扉を閉める。扇風機の「ブーン」と、心臓の「ドクン」が重なる。

92. □ 鏡の前に立つ。夕陽の残り火が頬を撫で、目元を少し明るくした。

93. 「……す、き」

 鼻に抜けても、今は崩れた形が愛しい。音の欠片にも意味が宿る。

94. □ タブレットを開く。《こえで いえたら いちばん いい》と残す。

95. 《でも いまは これも ぼく》

 保存。小さな光が天井に、四角い優しさを投げた。

96. □ 布団に背を沈める。今日の言葉たちが、胸の内側で静かに並ぶ。

97. 《また あした こえで》

 未来へ手紙を投げるように打ち、ゆっくり目を閉じた。

98. □ 鼻から抜ける息の音が、眠りの入り口で優しく揺れた。

99. □ すれ違いは残ったまま。でも確かに、今日、距離は縮んだ。

100. □ 未完成の恋模様は、壊れやすい音を抱きしめたまま、明日へ続く。


ちなみにこれ作者本人がこういう感じなのでかなり見てほしい読んで欲しい話です。

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