第10話 夏の海、言えない言葉


1. □ 朝の光が白く跳ね、カーテンの隙間から熱の匂いが流れ込む。胸は少し早い。

2. □ 机の上のタブレットは薄く光り、行き先の地図をひっそり映していた。

3. 《きょう うみ》

 指が震えて打つ。単語だけで心臓が「ドクン」と跳ね直す。

4. □ 親の「行ってらっしゃい」は短い。蓮の息だけが「ヒュッ」とこぼれて消える。

5. 《いってきます》

 画面を見せて靴を履く。返事はいつもの「分かった」で終わる。

6. □ 駅前は集合の声で賑やかだ。冷えたボトルの汗が指先にまとわり付く。

7. 「水城、こっちこっち」

 明日香が手を振る。白い帽子が夏の空に小さく弾んだ。

8. □ バスに乗れば一斉に会話が弾む。笑いの波の外側で窓の景色を追った。

9. □ 海が近づくと潮の匂いが濃くなる。胸の奥で期待と不安が同時に泡立つ。

10. 「着いた!」

 歓声と砂の匂い。陽炎の向こうで水面が細かく砕けて光った。

11. □ 砂浜は熱くて、足裏に夏が刺さる。波打ち際は冷たく、踝をさらっていく。

12. 「着替えてくるね」

 明日香が笑って駆ける。白いパラソルが影を落とした。

13. □ 風が強まり、タオルが「パタパタ」と鳴る。心は落ち着かず浮き沈む。

14. 「お待たせ」

 戻った明日香の水着に、目の奥が一瞬焼ける。言葉が喉で止まる。

15. 《すき》

 打とうとして《すけ》と誤字。冷たい針が指から胸へ走った。

16. 《すき》

 打ち直して見せる勇気はない。画面を伏せ、波の音だけを聞いた。

17. 「パラソル運ぶの手伝って」

 明日香が笑う。頷く仕草で精一杯の返事をする。

18. □ 棒を砂に押し立てるだけで腕が震える。影が少しずれ、汗が背をつたう。

19. 「ありがとう」

 明日香は短く礼を言い、敷物を広げた。布が風に丸く膨らんだ。

20. □ 友人たちがビーチボールを掲げる。輪に入る声が遠く、まぶしくほどけた。

21. 「水城もやろうよ」

 誰かの誘い。蓮は笑って頷くが、手は既に震えを増している。

22. □ 球は軽いのに、受け止める瞬間だけ世界が重くなる。胸が跳ねて逸らす。

23. 「ドンマイ!」

 明るい声。善意は丸い刃で、音もなく胸の奥に沈んでいく。

24. 《だいじょうぶ》

 画面で返す。波が「ザザン」と返事の代わりに足元をさらった。

25. □ 陽は高く、空は白く、笑いは絶えない。自分だけが影を長くしていた。

26. 「スイカ割りやるぞー」

 目隠しが配られ、砂浜に期待が集まる。棒が光を吸った。

27. □ 順番が回る。棒を握るだけで指が滑る。布越しの視界は暗く狭い。

28. 「まっすぐ、あと二歩」

 明日香の声が指先に触れる。そこだけ道標が灯る。

29. □ 一歩踏み出すたび砂が沈む。手は震え、棒の先が空を切った。

30. 「惜しい!」

 歓声と笑い。棒を下ろした掌に小さな痛みが残る。

31. 《ごめん》

 短い言葉は砂粒ほど軽いのに、胸では鉛みたいに重かった。

32. 「謝らなくていいって」

 明日香は切り分けた赤を差し出す。瑞々しさが舌の上で弾けた。

33. □ 夏の甘さは優しく、同時に哀しい。ここにいる自分が、少し遠い。

34. 「午後はシュノーケル行く?」

 友人の声。装備の説明が素早く流れていった。

35. □ マウスピースを噛む角度すら定まらない。喉がきゅっと固くなった。

36. 《ぼくは みてる》

 打つ。自分に許す退却が、潮のように胸を引き戻していく。

37. 「じゃあ私、すぐ戻る」

 明日香が軽く手を振る。海面は陽を砕いて、細かく眩しい。

38. □ 砂の上に残る足跡は薄く、波にさらわれやすい形をしていた。

39. □ 暑い空気の高鳴りと、遠い歓声。距離だけが確かに増えていく。

40. 《ここに いる》

 自分へ刻む。画面の小さな光だけが、影をやんわり押し返す。

41. 「ただいま」

 濡れた髪の明日香が戻る。塩と夏の匂いがふわりと周囲を包む。

42. 《たのしかった?》

 問うと、彼女は強く頷いた。「でも一人はつまらないよ」

43. □ その言葉が急に胸を温める。すぐ冷めるのが怖くて、目を伏せた。

44. 「次は浜辺散歩しよ」

 歩幅を合わせる声がやさしい。砂はまだ熱く、波打ちは冷たい。

45. □ つないでいない手を、影だけが重ねている。心臓は理由なく忙しい。

46. 「夕方、皆で花火やるって」

 明日香の声に、夏の続きを想像してしまう。

47. 《はなび すき》

 打って見せる。彼女の笑みが小さく深く、胸の奥へ沈んでいく。

48. □ 日は傾き、光は柔らかくなる。砂上の足跡だけが今日を証明する。

49. 「そろそろ戻ろ」

 潮風が強まり、タオルの端が不意に頬を撫でた。

50. □ 皆の輪に再び混じる。賑やかさは同じで、気持ちの色だけが違っていた。

51. 「写真撮ろうぜ!」

 スマホが並ぶ。シャッターの連続音が空に弾けて散る。

52. □ 画面の中心に自分は小さい。笑っているのに、どこか遅れている。

53. 《しゃしん ください》

 打つと「もちろん!」の返事。親指が立ち、夏が増幅する。

54. □ けれど胸の真ん中は空のまま。笑顔は軽く、空洞は重い。

55. 「海の家いこ」

 氷の音がカップで鳴る。舌に触れる冷たさが一瞬だけ世界を止めた。

56. □ 友人たちの話題は高速で跳ねる。拾い損ねた言葉が足もとに転がる。

57. 《きいてる》

 小さく出す。本当は「混ざりたい」の方が近いのに。

58. 「水城、これ食べる?」

 差し出された唐揚げ。油の熱が紙袋越しに指を焼いた。

59. 《ありがとう》

 受け取りの言葉は上手に出せる。本音ほど遠いほど、簡単に。

60. □ 午後の陽は容赦なく、息は短く浅くなる。波音だけが一定だった。

61. 「そろそろ夕暮れ」

 明日香が空を指す。群青の気配が白さをゆっくり溶かしていく。

62. □ 砂浜に座ると背中が温かい。風が汗と塩を冷ましていった。

63. 《きょう たのしい》

 出してみる。嘘ではないが、全部でもない。

64. 「私も」

 返事は短いのに、遠くまで届く。胸の奥で小さく灯が揺れる。

65. □ 少し離れた場所で子どもが叫ぶ。波がそれを抱いて返していく。

66. 《ほんとは ちかくに いたい》

 指が踏み越えた一行は、画面上でさざ波のように震えた。

67. □ 見せる前に胸が跳ねる。保存してポケットに押し込んだ。

68. 「寒くない?」

タオルを肩にかけてくれる。布の重みが言葉より雄弁だ。

69. 《あたたかい》

 短く出す。彼女は「でしょ」と笑い、星の準備を空が始める。

70. □ 日は沈み、海が群青に沈降する。岸灯が一本ずつ火を入れた。

71. 「花火買ってくる」

 明日香が走る。足跡は薄く、すぐ波に磨かれる予感がした。

72. □ 置き去りの風が髪を揺らす。胸の中で言い残した言葉が騒ぐ。

73. 《すき》

 打って見せる練習をする。画面の小さな白だけが強く光る。

74. 「お待たせ」

 袋いっぱいの花火。色の違いが夜に小さく栞を挟む。

75. □ 線香花火が最初の火を受け取る。点は震え、やがて雫みたいに落ちた。

76. 「次、手持ちいこ」

 火花が扇形に散る。頬が朱に染まり、瞳が光を集める。

77. 《きれい》

 打って見せる。彼女は「うん」と頷き、火花を耳飾りみたいに揺らす。

78. □ 近くで上がる打上げ花火に人が振り向く。遠雷のような音が胸を叩く。

79. 《となりに いて くれて ありがとう》

 出した文字は少し長く、夜風に冷まされて素直だった。

80. 「こちらこそ」

 短い返事に、言えない言葉の余白が柔らかく満たされる。

81. □ 最後の噴出花火が地面から空を削る。火の滝の先で暗さが濃くなる。

82. 「帰ろうか」

 片付ける手つきが手早い。闇は悪意なく、ただ深い。

83. □ 浜から上がると、街灯が人体の輪郭を取り戻させた。影は並ぶ。

84. 《きょう うれしかった》

 打つ。小さな本音が、足音に合わせて揺れ続けた。

85. 「また来ようね」

 約束の形をしていない約束。夏の夜だけが簡単に許してくれる。

86. □ バスの座席は塩の匂いがした。窓に映る顔は、少しだけ明るい。

87. 《つぎは なに しよう》

 投げた言葉は、まるで瓶に入れて波へ返した手紙みたいだ。

88. 「考えとく」

 明日香の横顔は、街の明かりを拾って静かに光った。

89. □ 駅で解散の声。手を振る速度だけが名残惜しさを物語る。

90. 《また あした》

 送信。画面の小さな既読が、胸の奥で大きく鳴った。

91. □ 家の玄関は涼しく暗い。「おかえり」の声は今日も短く真っ直ぐだ。

92. 「海、どうだった?」

 問いは軽い。蓮は息を整え、タブレットを持ち直した。

93. 《たのしかった》

 即答の一行。ほんとうはさらに長い文章が胸に渦巻く。

94. 「そうか」

 会話はそこで終わる。静けさが廊下の隅へ沈殿する。

95. □ 部屋に入ると潮の匂いが薄れていく。代わりに思い出が濃くなる。

96. 《ほんとは もっと そばに いたかった》

 保存する。画面の光が天井へ四角い淡さを投げた。

97. □ 扇風機が「ブーン」と回る。皮膚の塩が乾き、汗の線が消える。

98. 《すき》

 ようやく出して、送らずに閉じる。心臓はまだ夏の速さで鳴る。

99. □ 夏休みのページが一枚めくれる。余白は多く、罫線はやさしい。

100. □ 未完成の恋模様は、潮騒に紛れながら確かに進む。明日を呼ぶ音で。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る