第6話 体育祭の翌日、静かな余韻
1. □ 翌朝の教室は「ガヤガヤ」と賑やかだった。体育祭の話題で持ちきりで、机を叩きながら笑う声や、走った真似をする姿が飛び交う。その喧騒の外側に座る自分は、影のように存在が薄い気がした。
2. 「昨日さ、最後のリレーやばくなかった?」
クラスの男子が身振り手振りで盛り上がる。笑いの渦が広がるたび、蓮の胸には「ドクン」と鈍い音が沈んでいった。
3. □ 記録用紙の端に残った鉛筆の跡を思い出す。数字は確かに自分の手で書いた。けれど誰の記憶にも残らない。昨日の自分は、ただの影だった。
4. 《きおくに のこらない》
タブレットに打ち込んでは消す。見せられない。見せれば、余計に小さな存在になる気がしたから。
5. 「水城はいいよな、走らなくても席あるし」
軽口がまた飛んでくる。冗談なのは分かる。けれど胸に突き刺さる時は、冗談ほど鋭い。
6. □ 息が詰まる。喉が「キュッ」と締まり、声は出ない。体のどこにも逃げ道はなかった。
7. 「でもね」
明日香の声が、その空気を割る。真っ直ぐで柔らかな響きが、雑音を少し遠ざけた。
8. 「昨日、一番頑張ってたの、水城くんだよ」
その言葉が胸に「ズシン」と落ちる。甘さと痛みが同時に溶け合い、涙腺を強く叩いた。
9. 《ちがう》
打つ。違う、頑張ってない。ただ、そこにいた。それだけだ。
10. 「違わないよ」
明日香は首を横に振った。笑顔ではなく、真剣な顔。その強さが眩しくて、視線を逸らした。
11. □ 周囲の笑い声はまだ続いている。「筋肉痛でヤバい」とか「全力で走った」とか。羨ましい会話の中に自分はいない。そのことが一番悔しい。
12. 《ぼくも まじりたい》
打ち込んで画面を伏せる。言葉は小さな告白であり、どうしようもない願望でもあった。
13. 「混じってるよ。私と」
明日香の囁きは、胸の奥で「ジン」と響いた。他の誰にも届かなくても、彼女だけは見てくれていた。
14. □ 授業のチャイムが「キーンコーン」と鳴る。先生が入ってきて、「体育祭の感想を書きなさい」と指示する。空気が少し落ち着き、紙とペンの音が「カリカリ」と教室に広がった。
15. □ 蓮はタブレットを開き、指を震わせながら文字を打ち始める。思考は重く、言葉は途切れ途切れ。だけど昨日の感情がまだ胸に燃えていた。
16. 《くやしかった》
最初に浮かんだのはその二文字だった。灰色の空気をまとった感情。
17. 《でも となりに いて うれしかった》
続けて打ち込む。指が震えて誤字が混じる。それでも消さなかった。誤字さえも自分の一部に思えたから。
18. 「……ふふっ」
明日香が横から覗き込み、小さく笑う。「素直でいいじゃん」その声が耳を撫で、心をくすぐった。
19. □ 胸の奥が「ドクン」と跳ねる。恥ずかしさと、伝わった嬉しさが絡まり合い、呼吸が浅くなる。
20. 《ほんとは ぜんぶ いいたかった》
声が出せない悔しさを込めて打ち込む。
21. 「じゃあ、私が代わりに聞いてあげる」
明日香は真顔でそう言った。まるで当たり前のことみたいに。
22. □ その一言に、胸の奥の氷が少しだけ溶けた気がした。
23. □ 外では風が「サワサワ」と木々を揺らす。校庭の砂はまだ昨日の足跡を残している。時間が進んでいるのに、心はまだ昨日に縛られていた。
24. 《きのうの じぶんが きらい》
画面に打つ。勇気を出して出した言葉に、指先が熱を持つ。
25. 「じゃあ、明日の自分は好きになるんだよ」
明日香の言葉が軽く落ちて、胸の奥に深く沈んだ。
26. □ 教室の空気は少し落ち着き、感想文を書くペンの音だけが「カリカリ」と響いていた。蓮はタブレットを握りしめ、震える指で言葉を探していた。
27. 《うれしかったのに かなしかった》
指が震えて文字が崩れる。けれど、それは正直な感情の形だった。
28. 「……うん、分かるよ」
明日香が覗き込み、真剣な顔で頷いた。その瞳は、ただ同情ではなく、理解を宿していた。
29. □ 他の生徒たちは「勝って嬉しかった」とか「楽しかった」とか、当たり前の感想をスラスラ書いている。比べるたび、胸の奥が「ギュッ」と縮んだ。
30. 《ふつうが すきじゃない》
画面に出した瞬間、自分でも驚いた。嫌いなのは普通の日常。けれど、それが真実だった。
31. 「私も嫌いだよ、普通」
明日香が小さく笑った。「だから一緒に変えてこ」その軽やかな言葉が、重たい空気を少しだけ薄めた。
32. □ チャイム「キーンコーン」。昼休みの合図に、教室が再び「ガヤガヤ」と賑やかになる。体育祭の余韻で弁当を広げる声が重なった。
33. 「水城くん、今日も一緒に食べよ」
明日香が自然に隣に座る。昨日と同じ、けれど昨日とは違う安心感があった。
34. □ 弁当のフタを開けると、卵焼きの黄色が目に飛び込む。昨日の会話が「リフレイン」して、頬が少し熱を帯びる。
35. 《きのうと おなじ》
画面に出す。昨日の繰り返しなのに、どこか新しい感覚が混じっていた。
36. 「同じだからいいんだよ」
明日香が笑って卵焼きを差し出す。その笑顔に、昨日積もった灰色が少し剥がれ落ちた。
37. □ 教室の窓の外、雲が「スーッ」と流れる。時間は止まらない。けれど心はまだ昨日に留まっていた。
38. 《きのう いっしょで よかった》
打ち込む。勇気の小さな証だった。
39. 「私もだよ」
明日香が即答する。その迷いのなさが、胸に「ドクン」と響いた。
40. □ 周囲の笑い声は遠くで続く。けれど、蓮にとって大切なのは隣の声だけだった。
41. 《ぼく へんかな》
思わず漏れた言葉。周囲との差が、自分を異質にしている気がしていた。
42. 「変じゃないよ」
明日香の返事は即答だった。「むしろ、そうやって考えられるのが水城くんらしい。」
43. □ 胸が少し軽くなる。けれど同時に、「らしい」という枠に閉じ込められる不安も広がる。
44. 《ぼくは すきに なりたい》
指が震え、打ち終わると手のひらがじっとり汗で濡れていた。
45. 「もうなってるよ」
明日香は微笑んだ。その言葉の強さに、胸が「ギュッ」と締め付けられ、涙がにじんだ。
46. □ 教室の時計が「カチ、カチ」と進む。時間の音が、未完成の自分を急かすように響く。
47. 《じぶんを すきになれるひは くる?》
思わず出た問い。画面に残すこと自体が怖かった。
48. 「来るよ。私が横にいるから」
明日香の声は柔らかく、それでいて強かった。
49. □ 胸の奥に、小さな光が「チリ」と灯った。完全には照らせない。けれど消えない光だった。
50. □ 体育祭の翌日。灰のような悔しさと、光のような救いが重なって、未完成の恋模様はまた静かに進み始めた。
51. □ 放課後。教室のざわめきが少しずつ消えていき、窓の外では夕陽が「ジワジワ」と沈み始めていた。赤い光が床を斜めに染めて、机の影が長く伸びていた。
52. 「明日からは、普通の授業だね」
明日香が窓際に立ち、外を見ながら呟いた。その横顔は夕陽に溶け、金色に縁取られていた。
53. □ 蓮はその言葉に胸が「ギュッ」と縮む。普通の日常は嫌いだ。走れない自分、声が出ない自分を突きつけてくるから。
54. 《ふつうは すきじゃない》
画面に打ち込む。夕陽に照らされた文字は、少しだけ赤く滲んで見えた。
55. 「……そうなんだ」
明日香は振り返り、少し驚いたように目を細めた。それから小さく笑い、「でもね」と続けた。
56. 「普通じゃない日を、一緒に作ればいいんだよ」
その言葉が胸に「ズシン」と落ちる。軽やかに聞こえるのに、確かに強さを持っていた。
57. □ 蓮はタブレットを見つめ、指を震わせながら打ち込む。
58. 《でも きみとなら》
出した瞬間に顔が熱くなり、心臓が「ドクン、ドクン」と乱れ打った。
59. 「……っ」
明日香が小さく息を呑む。頬が夕陽で赤く染まり、その色が胸に焼きついた。
60. 「私も、そう思う」
その言葉は小さく、けれどはっきり届いた。
61. □ 窓の外で鳥の群れが「バサバサ」と飛び立つ。静かな放課後に、小さな未来の気配が混じっていた。
62. 《また あしたも いっしょ》
勇気を込めて打ち込む。画面の中の文字は震えていたが、心の奥では確かだった。
63. 「うん」
明日香が笑顔で頷く。頬の赤さが夕陽の色と重なり、胸がさらに熱を帯びた。
64. □ 廊下を歩く靴音が「コツ、コツ」と響き、空気が少し冷たくなった。夕暮れの匂いが窓から入り、汗と砂の残り香を薄めていく。
65. 「帰ろっか」
明日香がカバンを肩にかけて振り返る。
66. □ 並んで歩き出す。階段を降りるたびに靴音が「コツン」と重なり、二人の距離がさらに近づいていく。
67. 《きのうより ちかい》
画面に出した言葉を明日香に見せる。
68. 「うん、近いね」
彼女は頷き、笑った。その笑顔が、今日一日の答えになった気がした。
69. □ 校門を出ると、夕陽はもう半分沈んでいて、影が長く伸びていた。二人の影は重なり合い、一つの線のように揺れていた。
70. 「ねえ、水城くん」
明日香が立ち止まり、影を見下ろす。
71. 「こうしてると、同じに見えるね」
彼女の言葉が胸に「ドクン」と刺さる。できないことばかりの自分が、今だけ同じに見える。
72. 《ずっと そうならいい》
指が震えながらも、その言葉を画面に刻んだ。
73. 「……そうなろう」
明日香は小さく微笑み、夕陽に溶けるように言った。
74. □ 胸の奥が熱でいっぱいになり、息が少し乱れる。普通の帰り道なのに、特別なものに変わっていく。
75. □ 体育祭の翌日。余韻はまだ続いていた。悔しさも、光も、全部抱えたまま、未完成の恋模様は少しずつ形を帯びていった。
76. □ 家に帰ると、玄関の扉が「ギィ」と音を立てて開いた。靴を脱ぐと湿った空気がまとわりつき、昨日の砂埃がまだ体に残っている気がした。
77. 「おかえり」
親の声が台所から届く。優しいけれど短い響き。そこには会話を広げる余裕も、受け止める力もなかった。
78. 「体育祭、どうだった?」
いつもの質問。昨日も聞かれた問い。蓮は喉を開くが、やはり声は「ヒュッ」と息に変わってしまう。
79. □ タブレットを取り出し、震える指で必死に打つ。
80. 《くやしかった でも うれしかった》
画面に出した文字は、正直すぎて恥ずかしくなる。
81. 「……そうか」
親は短く頷いた。それ以上は続かない。分かっていないのに、分かったで終わる。その軽さが胸を「ギュッ」と締め付けた。
82. □ 自室のドアを閉めると、静けさが「シン」と落ちてきた。机にタブレットを置き、深呼吸をして椅子に腰を下ろす。
83. □ 窓から差し込む夕闇が、部屋を青く染めていた。昨日の歓声と今日の教室のざわめきが「リフレイン」し、心の中でまだ響いていた。
84. 《ほんとは まけたくなかった》
画面に打ち込む。胸の奥の声をようやく形にできた瞬間だった。
85. □ 涙が「ポタリ」と画面に落ち、文字が少し滲んだ。その滲みさえも自分の一部に見えて、消せなかった。
86. 《でも きみと いれた》
続けて打つ。昨日も今日も、その事実だけが救いになっていた。
87. □ ベッドに横たわり、天井を見上げる。模様が「グルグル」と回り、呼吸が「スー、ハー」と重なっていく。
88. □ 明日香の声が記憶の中で「ふわっ」と蘇る。——「一緒にいよう」。その響きが、心の棘を少しだけ丸めてくれた。
89. 《きょうも ありがとう》
タブレットに残す。送れなくても、保存するだけで心が軽くなった。
90. □ 外の夜風が「スーッ」とカーテンを揺らし、月の光が部屋の隅に淡く差し込んでいた。
91. □ 体育祭は終わった。悔しさと救いが入り混じる記憶は、まだ胸の中で熱を持っていた。
92. 《また あした》
文字を打ち込む。小さな呪文みたいに、未来へ繋がる一歩だった。
93. □ 呼吸がゆっくり落ち着く。まぶたが重くなり、意識が少しずつ沈んでいく。
94. □ 闇の中でも、明日香の笑顔だけは鮮やかに残っていた。
95. 《すき》
眠りに落ちる直前、指が勝手に打ち込んだ。送信はしなかった。
96. □ 画面に浮かんだその一言が、暗闇の中で小さな灯になっていた。
97. □ 耳の奥で昨日の歓声が遠くに消えていく。残ったのは、彼女の声と笑顔だけ。
98. □ 体育祭の翌日。特別でもない一日が、特別な余韻を連れて終わろうとしていた。
99. □ 未完成の恋模様は、痛みを抱えながら、それでも少しずつ温度を増していく。
100. □ 「スー……ハー……」
規則正しい寝息に混じって、彼女の姿が夢の中へ溶けていった。
7話から改行無しでやってみるのでよろしくお願いします。
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