第7話 日常のすれ違い
1. □ 昼休みのチャイム「キーンコーン」。教室の中は「ガヤガヤ」と賑わい、弁当箱のフタを開ける音や笑い声が重なり合った。蓮は机にタブレットを置き、弁当をゆっくり広げる。
2. 「水城くん、一緒に食べよ」
明日香が明るく声をかけ、当たり前のように隣の席を引き寄せる。その自然さに、胸の奥が少し熱を帯びる。
3. □ 蓮は緊張で箸を持つ指が「プルプル」と震えた。白いご飯を口に運ぶだけで心臓が「ドクン」と強く跳ねる。
4. 「ほら、これ食べる?」
明日香が卵焼きを差し出す。昨日も今日も、その黄色が眩しくて目が逸れそうになる。
5. 《すき》
素直に書いたつもりだった。けれど震える指が余計なキーを押し、画面に出たのは《すし》。
6. 「……すし?」
明日香が目を丸くし、それから吹き出す。「え、水城くん、お弁当より寿司食べたいの?」
7. □ 顔が一気に真っ赤になる。心臓が「バクン、バクン」と暴れて、指が慌てて画面を消そうとするが、余計に誤タップを繰り返す。
8. 《すき! すしじゃない!》
ようやく訂正して見せる。文字の乱れに必死さが滲み出ていた。
9. 「ふふ、ごめんごめん。寿司も好きかと思って」
明日香が笑いをこらえながら卵焼きを口に入れる。その笑顔が恥ずかしくも眩しくて、さらに顔が熱くなる。
10. □ 周囲のクラスメイトも「何?寿司?」「水城くん寿司好きなの?」と面白がって声をかけてくる。笑いの輪に飲まれ、胸の奥が「チクリ」と痛んだ。
11. 《ちがう!》
全力で打つ。だが指が震え、誤字で《ちがうう》となってしまう。
12. 「“ちがうう”って、なんか可愛い」
明日香が笑って肩を揺らす。その一言に、恥ずかしさと嬉しさが一緒に押し寄せた。
13. □ 蓮は俯いて箸を動かす。胸の奥で「ドクドク」と血が熱を打ち、耳まで真っ赤に染まっていた。
14. 「でも寿司って打っちゃうの、水城くんっぽいかも」
明日香はそう言って笑いながらお茶を飲む。からかうのではなく、本当に楽しそうな笑顔だった。
15. 《おれは すしじゃない》
自虐混じりに打つと、明日香が堪えきれずに吹き出した。
16. 「ふふっ、分かってるよ。水城くんは水城くん」
その言葉が胸の奥に「ズシン」と落ち、照れと救いが同時に広がった。
17. □ 弁当のご飯がやけに味気なく感じる。けれど、隣の笑い声がそれを補って余りある。
18. 「じゃあ、寿司好きは私ってことにしとこっか」
明日香が冗談めかして笑う。その軽さが心の緊張を少し溶かした。
19. 《すきなのは たまご》
卵焼きのことを必死に補足する。
20. 「卵焼きのこと? それとも——」
明日香がわざと意味深に首をかしげる。
21. □ 蓮の顔がさらに真っ赤になる。心臓が「ドクンドクン」と暴れ、箸を持つ手が「カタカタ」と揺れた。
22. 「冗談だよ」
明日香は笑いながらおにぎりを一口かじる。けれど、瞳の奥は冗談だけではなかった。
23. 《すき》
再び打つ。今度は誤字なく、はっきりと出す。
24. 「……うん」
明日香は少し赤くなって、短く答えた。その返事だけで胸の奥が「ジン」と温かく満たされた。
25. □ 昼休みの喧騒が続いているのに、二人の間だけ時間が少しゆっくり流れていた。寿司の誤字から始まったやり取りが、心に甘酸っぱい余韻を残していた。
26. □ 放課後の図書室は「シン」と静まり返っていた。窓から射す夕陽が本棚を斜めに照らし、紙の匂いと埃が空気を満たしていた。
27. 「ここ、宿題しよ」
明日香が静かに笑って席に座る。蓮も隣に腰を下ろし、タブレットを机に置いた。
28. □ ペンの音「カリカリ」とページをめくる音「パラパラ」が重なり、教室とは違う穏やかな空気が流れている。
29. 「水城くん、これ分かる?」
明日香がプリントを差し出す。けれど蓮はすぐには返事できず、喉が「キュッ」と詰まる。
30. □ 代わりにタブレットを開く。けれど指が震えて誤タップが続き、画面は白紙のまま。
31. 「……」
沈黙が流れる。図書室の空気が余計に重たくなり、胸の奥が「ギュッ」と締め付けられた。
32. 「無視された……?」
明日香が小さく呟く。視線を伏せたまま少しだけ口を尖らせる。
33. □ その言葉に心臓が「ドクン」と跳ねる。違う、違うのに。返せないだけで、気づけば沈黙が誤解を生んでいた。
34. 《ごめん かんがえてた》
ようやく打ち込み、画面を差し出す。指が汗で滑り、文字が少し歪んでいた。
35. 「……そっか」
明日香が小さく笑う。安心したような、それでいて照れたような顔。
36. □ 胸の奥が「ジン」と熱を帯びる。伝わらないことの怖さと、伝わった時の救いが同時に押し寄せた。
37. 「考えてたならいいや。真面目だもんね」
明日香が冗談めかして肩をすくめる。
38. 《むししたくない》
本音を打ち込む。
39. 「……うん、分かってる」
明日香は目を細めて頷いた。図書室の静寂に、二人だけの小さな約束が溶けていく。
40. □ 本棚の隙間から差し込む夕陽が「キラッ」と反射する。影が机に重なり、二人の間の距離を柔らかく照らした。
41. 「水城くんって、伝えようとするのがすごい」
その一言が胸に落ち、呼吸が一瞬止まった。
42. 《でも つたわらない》
打った文字は、小さな告白のようだった。
43. 「それでも伝わってるよ」
明日香は迷いなく言う。その強さに胸が熱を持った。
44. □ 静かな図書室で、外の喧騒が遠く聞こえる。世界から切り離されたような時間が流れていた。
45. 《ほんとう?》
問いを打つ。画面を見せる指がわずかに震えていた。
46. 「ほんと」
明日香の声は短く、けれど確かだった。その音が心臓に直接触れたようで、目の奥がじんと熱くなる。
47. □ ページをめくる音が「パラリ」と響く。図書室の静けさに包まれ、二人の間の空気が少しだけ甘く変わった。
48. 《むしなんて ぜったいしない》
文字を差し出す。
49. 「ふふっ、約束だよ」
明日香が微笑んだ。頬がほんのり赤く染まり、夕陽の光に溶けた。
50. □ 沈黙はもう重たくなかった。すれ違いのはずの時間が、甘酸っぱい秘密のように胸に残っていた。
51. □ 翌日。放課後の空は鉛色で、窓ガラスに「ポツ、ポツ」と雨粒が当たり始めた。校舎の外はすぐに「ザーッ」と音を立てて雨に覆われた。
52. 「わ、降ってきちゃったね」
明日香が慌ててカバンから傘を取り出す。傘の布地に雨粒が「トトトッ」と跳ね、空気が一気に冷たくなる。
53. □ 蓮も傘を取り出そうとするが、手が震えて骨組みを「ガチャン」と外してしまう。修復できず、指先がもどかしく宙を掴むだけだった。
54. 「あ……」
明日香が気づいて近づく。「一緒に入ろ?」と自然に言って傘を傾けた。
55. □ 胸の奥が「ドクン」と鳴る。隣に入る勇気をタブレットに打ち込もうとするが、焦るほど指が空回りする。
56. 《かさに はいらない》
誤入力。ほんとは「はいっていい?」のつもりだった。
57. 「えっ……」
明日香の顔が曇る。「……一緒に帰りたくないの?」声が少し寂しげに揺れた。
58. □ 胸に「ズキン」と痛みが走る。違う、違うのに。必死に文字を打ち直す。
59. 《ちがう! かさに はいっていい?》
訂正の文字がようやく出る。手汗で画面が濡れ、指が「プルプル」と震え続けていた。
60. 「……もう、びっくりしたじゃん」
明日香が安堵の息をつき、頬を膨らませて笑った。
61. □ 二人で一つの傘に入る。雨粒が「トントン」と一定のリズムで落ち、肩と肩が近づいていた。
62. 「水城くんって、誤字で人を驚かせる天才だよね」
明日香が小声で笑う。
63. 《ごめん》
打つ。胸の奥では「また伝えられなかった」という悔しさが渦を巻いていた。
64. 「いいの。……でも、驚いた分、もっと近づけたかも」
明日香の言葉が傘の中で柔らかく響いた。
65. □ 頬が一気に熱くなる。心臓が「ドクンドクン」と騒ぎ、雨音さえ遠ざかっていった。
66. 《ちかい》
短く打った言葉を見せる。
67. 「ふふっ、そうだね」
明日香は笑って、傘をさらに寄せた。二人の肩が軽く触れ合い、胸の奥で火が灯ったように熱が広がった。
68. □ 水たまりを踏む靴が「ピチャ、ピチャ」と音を立てる。雨の匂いと彼女の髪の香りが混ざり、世界が小さな傘の中に収まっていた。
69. 《ずっと こうならいい》
画面に出す。勇気が少し滲んでいた。
70. 「……私も」
明日香が小さく答え、視線を逸らした。その頬は雨粒よりも赤く染まっていた。
71. □ 傘の端から「ポタリ」と滴が落ちる。その音がやけに鮮明に響いた。
72. 「でも、傘壊すのはもうナシね」
明日香が軽く釘を刺す。冗談混じりの言葉が空気を柔らかくした。
73. 《きおつける》
素直に打つ。その文字を見て、明日香が「ふふっ」と笑った。
74. □ 二人の笑い声が雨音に混じり、帰り道は不思議と軽やかだった。誤解から始まった一歩が、甘酸っぱい余韻を残していた。
75. □ 雨は止まない。けれど傘の中は確かに晴れていた。未完成の恋模様は、またひとつ小さなすれ違いを抱えながら続いていった。
76. □ 家に帰ると、雨で濡れた靴を脱ぐ音が「キュッ」と響いた。制服の裾はまだ湿っていて、部屋に入る前から冷たさが残っていた。
77. 「おかえり」
親の声が廊下から聞こえる。短くて優しいけれど、やっぱりそれ以上は続かない。
78. 「今日、雨大変だったろ?」
問いかけも形ばかり。蓮は喉を動かすが声は出ず、代わりにタブレットを開いた。
79. 《かさこわれた でも いっしょに かえった》
震える指で打ち込み、差し出す。
80. 「……そうか」
親は短く頷くだけだった。分かっていないのに、分かったで終わる。その軽さが胸に「チクリ」と残った。
81. □ 部屋に入ると、雨の匂いがまだ窓から入り込んでいた。机にタブレットを置き、深呼吸をして椅子に腰を下ろす。
82. 《すれちがった》
画面に打つ。今日の誤解が頭に浮かぶ。寿司、沈黙、傘。全部が小さなすれ違いだった。
83. 《でも わらえた》
続けて打つ。笑えたこと自体が奇跡のように思えて、胸が少し熱を帯びた。
84. □ ベッドに横たわる。天井の模様が「グルグル」と回り、耳の奥に雨音がまだ残っていた。
85. □ 明日香の笑顔が記憶の中で「リフレイン」する。寿司の誤字に笑った顔、沈黙に不安げに覗き込んだ顔、そして傘の中で赤くなった顔。全部が焼きついていた。
86. 《ほんとは すきだって いいたい》
タブレットに打ち込む。けれど保存だけして送信はしなかった。
87. □ 外ではまだ雨が「ザーッ」と降り続いている。カーテンの隙間から漏れる街灯の光が、水滴に反射して揺れていた。
88. 《つたわらなくても つたえたい》
本音を指が刻む。喉から出せない声を、文字に置き換えて残した。
89. □ 画面を閉じると、胸の奥に小さな温もりが残った。笑われても誤解されても、彼女が隣にいてくれる。それだけで意味があった。
90. 「すしじゃない、すき」
心の中で繰り返す。声にはならない。けれど確かに響いていた。
91. □ 呼吸が「スー、ハー」と落ち着いていく。窓の外の雨音が子守唄のように耳を包む。
92. 《また あした》
小さな文字を打って保存。未来に向けた自分だけの呪文だった。
93. □ まぶたが重くなり、意識が少しずつ沈んでいく。
94. □ 夢の入口で、明日香が笑っている姿が浮かんだ。昨日も今日も、未完成のまま続いていく笑顔。
95. 《ありがとう》
寝る前にそう打ち込む。画面の光がゆっくりと消え、部屋は暗闇に包まれた。
96. □ 胸の奥には、すれ違いながらも確かに届いた温かさが残っていた。
97. □ 雨はまだ止まない。けれど心の中では、小さな光が確かに灯っていた。
98. □ 今日の誤解も、笑いも、全部が恋のかけらだった。
99. □ それはまだ未完成で、不器用で、もどかしい。けれど甘酸っぱくて美しい。
100. □ 日常のすれ違いに包まれながら、未完成の恋模様はまた明日へと続いていく。
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