第5話 走れない僕と、届く声

1. □ 朝の校庭は白い息で揺れ、テントの紐が「パタパタ」と鳴る。紅白の旗が風に翻り、歓声の残響がグラウンドの砂に「ジャリ」と沈んでいった。胸の奥では、まだ始まっていない敗北だけが静かに息をしている。


2. □ アナウンスが割れたスピーカーから「本日は体育祭を開催します」と告げる。拍手が波のように広がり、波頭だけが眩しい。足元の影は濃く、そこに自分の重さだけが確かに溜まっている。


3. 「水城、記録席あっち」

 呼ばれてうなずく。喉は「キュッ」と閉まり、声は出ない。代わりに心臓が「ドクン」とひとつ強く鳴り、指の震えが袖口で細かく跳ねた。


4. □ 机に配られた記録用紙が「サラッ」と指先をすり抜ける。鉛筆は軽いはずなのに、持ち上げると妙に重い。数字を刻むたび、できない競技の数と悔しさまで一緒に書き込む気がした。


5. 「最初は開会式、障害物からね!」

 クラスの歓声が「ワァッ」と弾け、足音が「タタタ」と揃う。走り出す前の空気は甘い。甘いことすら、今日は少しだけ苦い。


6. 「水城くん」

 明日香がハチマキを差し出し、結び目を「キュッ」と整える。触れた指が一瞬だけ額を撫で、そこだけ体温が上がる。自分では結べない結び目が、胸の中にもうひとつ増えた。


7. 《ありがと》

 表示された七文字が小さく見える。ほんとは「自分でやりたい」が後ろに長く伸びているのに、画面には収まりきらず、喉の奥で苦く沈んだ。


8. 「似合ってるよ」

 明日香の笑顔は無害で眩しい。眩しい光は影を濃くする。影の形はいつも同じで、走れない自分、声の出ない自分、たったそれだけで世界が遠くなる。


9. 「水城、楽でいいよな。走らなくて済むし」

 軽い笑いが帽子の庇みたいに視界へ落ちる。楽——存在しない言葉が胸の中央に「ドン」と沈み、砂袋みたいに呼吸を鈍らせた。


10. □ 返事を探す間にも開会の太鼓が「ドン、ドン」と鳴り、感情の波形が乱れる。悪意でないほど、逃げ場は狭い。善意は丸い刃で、音もなく奥まで入ってくる。


11. 「やめなよ」

 明日香の短い声が空気を切る。刃の鈍い冗談より、彼女の直線がまぶしい。守られる安堵と、守られる立場の苦味が、同時に舌に残った。


12. 《だいじょうぶ》

 嘘ではないが真実でもない。大丈夫の外側で指が「プル」と震え、紙の端を濡らす汗が日差しでじんわり熱くなる。


13. □ 国旗が上がり、トランペットの音が高く伸びる。音は空へ放たれ、地上に残るのは砂の「ジャリ」と自分の影。影だけが競技に参加して、何度も周回して戻ってくる。


14. 「障害物、位置について——」

 ピストルの代わりの笛が「ピッ!」と鋭く、全員が前を向く。前を向くこと自体が得意でない。視線はいつも足もとへ落ち、躓く未来を先に拾ってしまう。


15. □ 走者の靴が「ダダダッ」と砂を蹴り、笑い声が列を追い越す。記録表に鉛筆の先を当てると、手の震えがそのまま数字に映る。今日の震度を数値化しているみたいで、少し可笑しい。少し哀しい。


16. 「水城、次の列も頼む!」

 背中を叩く手は軽いのに、胸の内側で「ズシリ」と響く。頼られるのは嬉しい。嬉しさは砂糖水で、喉を通るとすぐ飢えに変わる。


17. 《まかせて》

 画面の平仮名は幼い。強がりの鎧をまとえない。それでも送る。送った瞬間だけ、胸骨の重みが少し上へずれる。


18. □ 風が「サワッ」と吹き抜け、砂塵が記録席まで舞う。目を細めると、走る人影が抽象画みたいに滲む。輪郭が曖昧だと、羨望も少し薄まる。その淡さに、少し救われる。


19. 「紅組リード! そのまま押せ!」

 拡声器の声が割れて、空の青にひびが入る。ひびの隙間から、去年の自分が覗き込む。何も変わらない。変わらないことだけが、正確に積もっていく。


20. □ 明日香が記録台の端へ紙コップを置き、「お水」と微笑む。紙の縁が唇に触れると、体温がようやく自分のものに戻る。喉を通る音が「ごくり」と確かで、少し泣きたくなる。


21. 《ありがとう》

 今日は“トゥ”を付けない。冗談の鎧より、素手の言葉で触れたい日もある。素手は痛い。けれど確かだ。


22. 「次、玉入れ。カゴ持つの重いから、私がやるね」

 明日香の宣言は軽やかで、でも芯がある。任せる、が自分から剥がれていく音を聞く。皮膚の下で、無力の輪郭が赤く縁取りされる。


23. □ 玉が「ポン、ポン」と空を弾み、歓声が交錯する。記録欄の〇が増えるたび、胸の空欄は広がっていく。白紙は軽い紙のはずなのに、持つほど重くなる。


24. 「水城、球渡せる?」

 差し出された赤玉が指の間ですべり、「コロッ」と落ちる。拾い上げる前に、誰かの笑いが先に地面へ落ちた。悪意はない。だから刺さる。抜けにくい。


25. 《ごめん》

 ひらがな三文字が、汗でにじんで小さく揺れる。「謝らなくていいよ」と返る未来を知りながら、それでも先に謝る。自分を守るより、誰かの手間を先に小さくしたくて。


26. 「謝らなくていいって」

 明日香が玉を拾い、笑って手渡してくれる。その笑顔が救いである一方で、自分の存在が余計に小さく見えてしまう。


27. □ 周囲は「ワァァ!」と歓声を上げ、玉が次々とカゴに吸い込まれる。誰かの成功が積み重なるたび、自分の欠落が濃くなっていく。


28. 《できない》

 胸の奥の声を画面に落とす。出した瞬間に、視線が怖くて隠したくなる。


29. 「大丈夫だよ」

 明日香が短く答える。その言葉は甘い飴玉のようで、噛めば歯に痛みが走る。


30. □ 競技が終わり、歓声とともに砂煙が立ち昇る。空に舞う塵が光を反射し、勝者の笑顔をさらに眩しくする。


31. 「水城のおかげで助かってるぞ」

 先生の声が頭上から降る。優しさに背中を押されながら、重さは逆に増していく。


32. 《ちがう》

 打って消す。違う、と言いたい。でも違うと打てば、せっかくの優しさを壊してしまう。


33. □ 昼休み。シートの上で弁当を開くと、周囲の笑い声が「ガヤガヤ」と響く。香ばしい焼きそばの匂い、甘い卵焼きの匂い。匂いだけで胸が満たされ、同時に空っぽになった。


34. 「一緒に食べよ」

 明日香が腰を下ろす。太陽に照らされた笑顔は、隣にいるだけで安心と不安を同時に呼ぶ。


35. 《ありがとう》

 その二文字を画面に出すだけで、息が上がる。感謝の後ろに「でも」が何重にも並んでいた。


36. 「はい、卵焼き」

 黄色い一切れが箸先にのせられる。小さな光が差し出され、胸の奥が熱を帯びる。


37. 《すき》

 短い言葉が画面に現れる。食べ物のことなのに、意味が膨らんでしまう。


38. 「ふふっ、また“すき”だ」

 明日香が笑う。頬の赤さが太陽の光と重なり、心臓が「ドクン」と鳴る。


39. 《たまご》

 慌てて打ち直す。指が「カタカタ」と空を滑る。


40. 「分かってるよ」

 明日香は肩をすくめ、笑って卵焼きを口に運んだ。その仕草だけで距離が遠く感じる。


41. □ 午後の空はさらに熱を増し、グラウンドの砂が「ジリジリ」と音を立てる。リレーの準備で生徒たちが列を作る。


42. 「水城、走れたらなぁ」

 軽口が背中に飛んできた。笑い声が輪を広げ、善意にも悪意にも見える棘が刺さる。


43. 《はしりたい》

 画面に出す。本音は刺青みたいに消えず、胸の奥をじんわり熱く染めた。


44. 「わかってる」

 明日香が頷く。その一言だけで、世界の雑音が少し遠ざかる。


45. □ リレー開始の笛が「ピッ」と鳴り、靴音が「ダダダッ」と一斉に走り出す。


46. □ バトンが「カチッ」と音を立てて手から手へ渡る。スピードの連鎖に息を呑む。


47. 《でたい》

 短い文字。画面に出すだけで涙が滲む。


48. 「水城!」

 明日香が観客席から叫ぶ。声援は走っていない自分に向かっていた。


49. □ その声に胸が震える。応援を受ける資格はないと思いながら、心の奥で熱が灯る。


50. 《ありがと》

 画面を高く掲げた。返す手段はこれしかない。それでも彼女の笑顔が眩しく返ってきた。



51. □ ゴールの瞬間、校庭が「ワァァッ」と揺れる。砂煙と歓声が入り混じり、汗に濡れた背中がきらめいて見える。そこに自分はいない。それが事実だった。


52. 「惜しかったな!」

 笑い合うクラスメイト。声と声がぶつかり合い、眩しい景色をさらに熱くする。


53. □ 記録用紙の端を握る手は汗で「じっとり」と濡れていた。数字を並べるだけの自分。誰かの記録を残すことでしか、この場に居場所がなかった。


54. 《ぼくは ただの かげ》

 画面に出した瞬間、胸がひやりと冷えた。


55. 「水城」

 明日香の声が落ちてくる。彼女の目はまっすぐで、どこにも嘘がなかった。


56. 「影じゃないよ。ちゃんと一緒にいた」

 その言葉が胸に「ズシン」と落ちる。甘さと苦さが同時に広がり、息が詰まった。


57. □ 拍手が「パン、パン」と響く。勝者の肩が誇らしげに上がる。その輪に入れない悔しさが喉を塞いだ。


58. 《くやしい》

 短い二文字が涙の裏側に滲んだ。


59. 「悔しいって思えるの、すごいことだよ」

 明日香の声が優しく突き刺さる。


60. □ 日差しが雲間から差し込み、白い光が校庭を包む。影は伸び、二人の距離も長く引き延ばされた。


61. 「午後、騎馬戦だね。見るの楽しみ?」

 問いかけに心がざわつく。見たい。けれど、見たくない。


62. 《でたい》

 画面に出す。震える文字は叫びの代わりだった。


63. 「……うん、知ってる」

 明日香が小さく頷く。理解されることの重さと救いが同時に胸に沈んだ。


64. □ 笛の音「ピッ!」。馬を組んだ生徒たちが砂を蹴り、歓声が「ワァァッ」と弾ける。


65. □ 頭上で鉢巻が翻り、「ドサッ」と落ちる瞬間、観客席の声がさらに熱を増した。


66. 「すげー!」

 誰かの歓声が耳を打つ。その音が羨望と嫉妬を一緒に呼び覚ます。


67. 《おなじ せかいに いたい》

 画面に打つ。けれど誰にも見せられなかった。


68. □ 砂埃が舞い、夕陽が差し込み始める。光と影のコントラストに、胸が「ギュッ」と締め付けられる。


69. 「水城、目ぇキラキラしてる」

 明日香が笑う。観戦しているだけなのに、心が走りたがっていると見抜かれた。


70. 《はしりたい》

 また同じ言葉。けれど繰り返すたびに、重さが深まっていく。


71. 「いつか、一緒に走ろ」

 明日香の声は未来を差し出すみたいに軽かった。軽さが、胸の奥に熱い傷を残す。


72. □ ゴールの瞬間、砂煙が「フワッ」と舞い上がる。歓声に包まれた景色を、目だけで追い続ける。


73. 《ぼくには とどかない》

 画面に打った言葉は、まるで呪文のように胸を締め付けた。


74. 「届くよ」

 明日香がはっきり言った。視線は揺れなかった。


75. □ その直線の強さに、目頭が「ツン」と熱くなった。走れない足元で、それでも未来を信じてみたくなる。


76. □ 最後の全校リレーが始まる。笛の音「ピッ!」が鳴り、グラウンド全体が「ワァァッ」と揺れる。砂煙が舞い上がり、赤と白のバトンが光を帯びて走った。


77. □ 靴音が「ダダダッ」と続き、地面が揺れる。風を切る音すら聞こえる気がする。胸の奥が熱を帯び、「ドクンドクン」と強く跳ねた。


78. 《でたい》

 やっぱり同じ言葉が浮かぶ。画面に刻むたびに、自分の小ささが露わになる。


79. 「水城!」

 明日香がスタンドから身を乗り出す。声がまっすぐ届き、歓声の海の中で唯一輪郭を持った。


80. □ 応援される資格なんてない。走ってもいないのに。だけど心の奥では「応えてみたい」と熱が膨らむ。


81. 《ありがと》

 震える指で出した二文字。


82. 「うん!」

 明日香が大きく頷き、笑顔を見せた。その一瞬で、灰色の校庭が少しだけ色を帯びた。


83. □ ゴールの瞬間、歓声が「ワァァァッ」と爆発した。勝敗の色が赤と白に別れ、空を裂いた。


84. □ 生徒たちは抱き合い、笑い合う。汗に濡れた肩と肩が光を反射し、誇らしげに見えた。


85. □ 記録用紙を閉じると、手のひらに残った震えだけが現実を示していた。


86. 《ぼくは なんにもしてない》

 言葉が滲んで涙と重なった。


87. 「してたよ」

 明日香の声。彼女は真剣に言う。「一緒に、ここにいたでしょ。」


88. □ その直線の言葉が、胸の奥で「ギリギリ」と軋む壁を少しだけ壊した。


89. 「水城が書いた数字がなきゃ、結果残らなかったんだよ」

 彼女の声は確かに響いた。


90. 《……》

 画面には何も出せない。ただ喉の奥が熱く震えるだけ。


91. □ 校庭に夕陽が落ち、影が「スーッ」と長く伸びる。明日香と並んだ影が重なり合い、まるで一つに見えた。


92. 「帰ろう」

 明日香が傘を広げる。空にはまだ白い雲が残っていた。


93. □ 二人で歩く砂利道。靴音が「ジャリ、ジャリ」と響き、今日の一日が振り返るように尾を引いた。


94. 《つかれた》

 短い言葉。でも隣にいる安心感で、初めて素直に出せた。


95. 「おつかれさま」

 明日香が同じ歩幅で返す。その声が体の奥に「スッ」と染み渡った。


96. □ 家に着くと玄関が「ギィ」と鳴り、親の「おかえり」が届いた。優しいけれど、やはり短い。


97. 「体育祭、どうだった?」

 問いが飛ぶ。


98. 《たのしかった》

 蓮は画面を差し出す。本音ではなかった。でも嘘でもなかった。


99. □ 部屋に戻り、ベッドに体を「ドサッ」と落とす。天井の模様が「グルグル」と揺れ、明日香の声が「リフレイン」する。


100. □ 体育祭は終わった。走れなかった悔しさと、隣にあった光。未完成の恋模様は、痛みと甘さを抱えて、また明日へと続いていく。



















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