第2話 楽なんて、どこにもないけれど

1. □ 朝の教室は「ガヤガヤ」。笑いが天井で跳ね返り、椅子が「ギシッ」と鳴る。蓮は端の席で深く息を吸い、胸の棘を撫でつけた。


2. □ 机にタブレットを「コト」。視線の粒が「チクチク」と肌に刺さる。何も始まっていないのに、もう少し疲れている。


3. 「おはよ、水城くん」

 明日香の声が「パッ」と明るい。蓮の心臓が「ドクン」と跳ね、画面を開く指が「プル」と震えた。


4. 《おはよ》

 短い二文字。言えない口のかわりに、指先が「カタカタ」と必死に動く。自分でも情けないほど、文字が心の代役を務める。


5. 「元気?」

 何気ない問いが「ズキッ」。——元気なふりは得意だ。得意であるほど、自分を嫌いになる。


6. 「またタブレットか」

 近くの男子の軽口が「グサリ」。冗談の角は丸いのに、当たると骨に響く。


7. 《……》

 返す言葉を選ぶ間にも、指は「プルプル」。沈黙は肯定に見えやすい、と知っているのに。


8. 「便利でいいよな。楽できるし」

 “楽”。存在しないものの名前。立つ・歩く・走る・話す——どれも痛みと交渉が要るのに、どこが楽だ。


9. □ 明日香が眉を寄せ「やめなよ」。彼女の正しさが空気を整える。それでも、刺さった棘は勝手には抜けない。


10. □ うつむく。感謝はある。けれど心は重い。ありがとうの末尾に、悔しさと自己嫌悪が「モヤ」と残った。


11. 「体育、また見学?」

 背中に軽く「トン」。その“また”が杭みたいに刺さり、抜く指が見つからない。


12. 《また》

 事実だけを置く。嘘はつかない。けれど本音——「走りたい」は、喉で固まって動かない。


13. 「サボれて羨ましい」

 無邪気な一言が「ザクッ」。サボってなどいない。できないのだ。言葉を飲むたび胃が熱くなる。


14. □ 体育館から「ワァッ」。歓声の温度が遠い。膝の震えと、羨望と、自己嫌悪が「ごちゃごちゃ」に絡む。


15. 「違うでしょ」

 明日香が机を「トン」。まっすぐな声が空気を割る。


16. □ 守られる安堵と、守られる立場への悔しさ。甘いのに苦い飴を、口の奥で転がすみたいだった。


17. 《ありがと》

 最短の感謝。末尾に本当は「ごめん」と「悔しい」を隠す。


18. 「ううん、言いたかっただけ」

 彼女の軽さが救い。救いであるほど、救われる自分が恥ずかしい。


19. □ 視線が合う。一瞬の明るさが差す。だが影は消えず、足元に薄く残る。


20. □ チャイム「キーンコーン」。心はまだ朝の位置に置き去りのまま、時刻だけが進んだ。


21. □ 一時間目。チョークが「キュッキュ」。黒板の白が増えるほど、喉の入口は狭くなる。


22. 「——水城」

 名前の音が「カーン」。教室中の視線が「スッ」と集まり、空気が冷たく固まった。


23. □ 立ち上がる。吸う「スー」。喉は「キュッ」。吐く「……っ」。


24. 「ぁ……」

 声は形になれず、息に紛れて消える。沈黙の圧が横から押してくる。


25. 「またか」

 誰かのつぶやきが「チクリ」。また——その二文字が、自己嫌悪の針を深く押し込む。


26. □ 先生の助け舟が聞こえるのに、耳には敗色の笛。「ピィー」と遠くで鳴る。


27. 「ここからこうです!」

 明日香が黒板を「サラサラ」。迷いのない線が、沈む場所へ梯子を掛ける。


28. 「水城くんの考え、合ってる」

 肩へ「ポン」。言葉が体温を戻していく。


29. 《うん》

 それしか返せない。心臓は「ドクンドクン」。机の木目が妙に鮮明だ。


30. 「正解」

 ザワザワが戻る。戻らないのは、自分の呼吸だけ。


31. □ 二時間目の始まり。膝が遅れて「ガクガク」。体はいつも、心の一歩後ろを歩く。


32. 《ありがと》

 打ってから、画面を伏せる。感謝の言葉ほど、自分の無力さを照らし出す。


33. 「気にしないで」

 明日香がペンを「トントン」。彼女のリズムが、心拍と少しずれて優しい。


34. 「先生、あなたのリズム知ってるよ」

 何気ない一言が「スッ」。理解は救い。だが同時にラベル。貼られた面がひりつく。


35. □ 窓の外、葉が「サワサワ」。雑音よりも、揺れの音のほうが落ち着く。


36. □ 三時間目。活字が「ビッシリ」。目は追うのに、脳が拾えない。


37. 「発表きつかったら、パスでいい」

 善意の刃は先端が見えない。触れるまで痛さが分からない。


38. 《だいじょぶ》

 大丈夫じゃない。でも、これ以上ラベルを増やしたくない。


39. 「楽なほうがさ」

 ——楽はない。ないからこそ、その言葉が一番深く刺さる。


40. □ 明日香が目で「大丈夫」。誰かの眼差しが、体の重力を一瞬だけ軽くする。


41. □ 昼休み。「ガヤガヤ」「カチャカチャ」。弁当の湯気が「ふわ」。


42. 「一緒に食べよ?」

 机を「ギギッ」と寄せる音すら、救いに聞こえる。


43. 《いただきます》

 小さな祈りのように。


44. 「いただきます」

 同じ音が返る。それだけで、胸の氷が「ピキ」っと割れる。


45. 「体育祭、どうする?」

 未来の問いは現在を重くする「ズシン」。


46. 《見学》

本当は出たい。けれど、叶わない願いは言葉にしない。折れる音が胸で「ミシ」。


47. 「応援席にお菓子持ってくね」

 甘いものは、苦い現実に効き目が薄い。それでも、ないよりいい。


48. □ 近くから「代走で出せよ」——冗談でも、後に傷が残る「ザク」。


49. 《……》

 卵焼きひとつ。「ジュワッ」と広がる甘さは、数秒だけ痛みを上書きする。


50. □ 食べ終えた箸が「コト」。静けさがわずかに戻るが、棘は残ったまま。


51. 「プリント回すよー」

 紙の端が「サラサラ」。列の間を泳いでくる。


52. 「水城くんの分、私が置くね」

 机に「トン」。手を伸ばす距離が、世界でいちばん近い。


53. 《ありがと》

 昨日の“ありがトゥ”を飲み込む。笑いに逃げたくない日もある。


54. 「今日は“トゥ”じゃないんだ」

 明日香が「クスッ」。軽さに救われ、同時に胸がきゅっとなる。


55. □ 優しい笑いは薬みたいだ。ただし、効く場所としみる場所が同じ。


56. 「放課後、図書室いこう」

 誘いは梯子。降りるためじゃなく、上がるための。


57. 《いく》

 短い二文字が、ずっと言えなかった長い願いの扉になる。


58. 「勉強、できんの?」

 前の席が振り返る。試す声が軽いほど、胸に残る跡は濃い。


59. 《少し》

 ——少しだけでいい。少し、隣に並ばせて。

60. □ 明日香の視線が「大丈夫」と告げる。空気の密度が、ほんの少しだけ薄くなる。


61. □ 放課後。扉「ギィ」。紙と木の匂いが「ふわ」。背中の荷物が半歩、軽くなる。


62. 「ここ空いてる」

 椅子を「キュッ」。二人ぶんの空白が、静けさの真ん中に用意された。


63. □ ページ「パラリ」、鉛筆「サラサラ」。雑音のない世界は、言葉のない自分に優しい。


64. 「この音、落ち着くよね」

 明日香の囁きが「すうっ」と胸に入る。


65. 《ぼくも》

 ここでは無理をしない。無理をしない自分を嫌わない練習をする。


66. 「この問題、いっしょに」

 声が近い。体温が近い。逃げない。


67. 《ここから こう?》

 指が「プル」。それでも進む。


68. 「うん、その前にここ」

 線が「ササッ」と引かれ、霧がひとつ晴れる。

69. □ 夕陽が「じわじわ」。影が伸びる。影は寄り添って一本に見えた。


70. 《たのしい》

 打って気づく。楽しいと感じる自分を、少し嫌っていたことに。


71. 「帰り、駅まで一緒に」

 問いが軽い。受け取る手は重い。それでも、手放さない。


72. 《いい》

 短い答えが、長い孤独を少しだけ割る。


73. □ 足音「コツコツ」。廊下の空気が冷えて、呼吸が白くなりそうな気がした。


74. 「今日、がんばったね」

 灰だと思っていた今日に、色が一滴落ちる。


75. 《がんばってない》

 正直は時々、救いになる。時々、余計に痛む。


76. 「それでも、えらい」

 評価ではなく、存在への承認。胸の中心が「ジン」と温まる。


77. □ 校門の外、車が「ブウゥン」。看板が「ピカ」。世界は相変わらず忙しい。


78. 「たい焼きの匂いする」

 甘い香りが「ふわ」。現実に混ざる小さな夢みたいだ。


79. 《におい いい》

 日常の感想を共有する。それだけで、重心が少し真ん中に戻る。


80. 「今度、半分こしよ」

 未来形の約束が、明日の柱を一本立てる。


81. □ 分かれ道。「じゃあね」が「ふわり」。手を振る影が、街灯で長くなった。


82. 《また あした》

 自分にも言い聞かせる呪文。効き目は弱いが、ないより強い。


83. □ 玄関の扉が「ガチャ」と開く。靴の音が「コツン」と落ちる。外の喧騒が消え、家の空気が「しん」と体にまとわりついた。


84. 「おかえり」

 廊下の奥から親の声。優しいのに、胸の歯車は「カチ、カチ」と噛み合わない。

 蓮は口を開く。「……っ、ぁ……」吐息ばかり。声は形を結ばず、空気に溶けた。


85. 「夕飯いる?」

 親の問い。耳に入るのに、返せない。タブレットを開き、震える指で必死に打ち込む。


86. 《た…べる》

 画面には拙い文字。けれど声にすれば別の音になってしまう。喉が裏切る。

 親は画面を覗いて「……わかった」と短く返した。分かっていないのに、分かったで終わる。


87. □ その瞬間、胸の奥で「ギリギリ」と何かが軋む。優しいのに届かない。届かないからこそ、余計に寂しい。

 机に向かうと、鏡の中の顔が見えた。強ばった口元。嫌いな部品でできた自分。


88. 《べんきょう する》

 タブレットにそう打ち、ドアを「ピタリ」と閉める。部屋の静けさは、時に救いで、時に深い穴。


89. □ ペン先が「コツ、コツ」と紙を叩く。指は「プル」。努力は灰になると知っている。けれど止めない。止めたら完全に崩れ落ちそうだから。


90. □ 耳の奥で過去の声が「リフレイン」する。『産んだんだから責任取れよ』。

 親にぶつけた言葉。優しさに甘えられず、投げつけてしまった棘。誰の責任でもないのに。

 親の足音が廊下を「トン、トン」と過ぎていく。背中を追えない自分が、また嫌いになった。


91. 《きょう ありがとう》

 下書きを保存。送る勇気と、送らない後悔。どちらも同じ重さで掌に乗る。


92. □ 送信ボタンが「じっと」こちらを見る。押せない指を、責めない練習をしてみる。


93. □ リビングの会話が「ポツポツ」。入りたい気持ちと入れない現実が「ギチギチ」と軋む。


94. 《また あした》

 画面に刻む二文字。未来は遠いが、明日は近い。


95. □ カーテンの隙間から夜風「スッ」。今日の痛みが皮膚に残り、冷気で輪郭だけ優しくなる。


96. □ たい焼きの匂いを思い出す。半分こ。——半分で十分、と思える夜もある。


97. 《ありがトゥ》

 ふざけた綴りを、お守りみたいに胸にしまう。笑いが盾になる夜もある。


98. □ 目を閉じる。笑いの残響と、棘の感触が「ふわ」「チクリ」と交互に揺れる。


99. □ 楽はどこにもない。それでも、君の笑顔がある。灰の中に残る赤が、消えずに灯っている。


100. □ 「スー……ハー……」。未完成の恋模様は、痛みを抱えたまま、それでも甘く、美しく、続いていく。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る