第3話 雨粒と、すれ違う心

1. □ 朝の空は灰色。窓に「ポツ、ポツ」と雨粒が落ち、教室のガラスを曇らせていた。傘立てに並ぶ色とりどりの傘の中で、蓮の傘だけがまだ濡れたまま雫を垂らしている。


2. □ 教室のざわめきはいつもより湿っている。髪を払う仕草や、靴下を絞る音。みんなが自然にこなす所作の一つひとつが、蓮には遠い世界に見えた。


3. 「おはよ、水城くん」

 明日香が軽やかに声をかける。雨で少し広がった髪を直しながら、笑顔を崩さずに近づいてきた。


4. 《おはよ》

 震える指で画面に打ち込む。たった四文字でも、胸の奥の汗がじっとり流れる。雨音に紛れて「カタカタ」という打鍵音がやけに大きく響いた。


5. 「濡れちゃった?」

 彼女がタオルを差し出す。布が「ふわっ」と目の前に現れ、蓮の心臓が「ドクン」と跳ねる。


6. 《……ありがとう》

 画面に出た七文字。けれど胸の奥では「本当は自分で何とかしたい」と小さな声がうずく。


7. 「いいよ、気にしないで」

 明日香は柔らかく微笑む。優しさは嬉しい。それでも、優しさに頼るしかない自分がまた嫌いになっていく。


8. □ 雨の音が「ザーッ」と強まる。窓の外を見つめるクラスメイトの横顔が輝いて見えた。普通に話し、笑い合い、冗談を飛ばす姿。それが当たり前であることが、一番の奇跡に思えた。


9. 「水城くん、今日傘持ってきた?」

 明日香の問いかけが胸に「ズキッ」と響く。持っている。けれど傘をさす動作一つすら、人並みにできない時がある。


10. 《いちおう》

 文字は冷たく、余計に不安をにじませる。


11. 「じゃあ安心だね」

 彼女は明るく笑う。その笑顔を見て、ほんの一瞬だけ雨音が遠ざかった気がした。


12. □ 授業が始まり、チョークの音が「キュッキュッ」と響く。黒板に書かれる数式は雨粒のように流れ落ちていく。


13. □ 蓮はペンを握る。指が「プル」と震え、文字が歪む。隣のノートは整った文字列で「サラサラ」と埋まっていく。その差が胸を「ギュッ」と締め付ける。


14. 「ここ、分かる?」

 明日香がノートを傾ける。整った筆跡が光を受けて白く際立った。


15. 《わかんない》

 短い言葉。声なら一秒で済むのに、画面に刻むまでに心臓は三回跳ねた。


16. 「大丈夫、私も最初分からなかったよ」

 明日香の声がやわらかく胸に入り込む。だが同時に、「大丈夫」と言われる自分に、また小さな嫌悪が積もっていく。


17. □ 雨音が「ポタ、ポタ」と規則を刻む。外の空気と違って、教室の中はどこまでもざわついていた。


18. 「水城って、いいよな」

 前の席の男子が振り返り、軽く言った。

 次の瞬間に続いたのは、「発表もサボれるし、楽じゃん」。


19. □ その“楽”が、胸に「グサリ」と突き刺さる。痛みと不自由の積み重ねしかない日常を、楽だと見られることの苦しさ。


20. 《……》

 何も打てない。画面に指を乗せたまま、力が入らない。


21. 「やめなよ」

 明日香の声。教室の空気が一瞬「シン」と止まる。


22. □ けれど、笑いはすぐに「ハハッ」と流れる。針のように小さい声ほど、後まで残る。


23. 《ありがと》

 打ち込んだ二文字。感謝は確かにある。けれど、その裏にある「悔しい」は伝えられないまま。


24. 「うん」

 明日香はそれ以上何も言わず、ただ頷いた。

 その優しさが救いであり、同時に負担でもあった。


25. □ ノートに向かう。ペン先が「カリカリ」と走る。字は震えて曲がる。比べれば比べるほど、自分の存在が歪んで見えた。


26. □ チャイム「キーンコーン」。休み時間の笑い声が「ガヤガヤ」と広がる。


27. 「水城、昼一緒しよ」

 明日香が机を寄せる。自然に距離を縮められることが、羨ましい。


28. 《いいの?》

 胸の奥で問い返す。「こんな俺と?」と。


29. 「もちろん」

 彼女は笑った。笑顔に釣られ、ほんの少しだけ呼吸が楽になる。


30. □ 二人で弁当を開く。雨の音と笑い声が混ざり合い、空気に甘さと苦さが同居する。


31. 「卵焼き食べる?」

 差し出された黄色い一切れが、光を受けて「キラリ」と輝いた。


32. 《すき》

 打った瞬間、胸が熱くなる。食べ物のことなのに、気持ちを誤解されそうで息が詰まる。


33. 「ふふ、“すき”だって」

 明日香は笑った。笑いは軽いのに、蓮の心には「ドクン」と重く響いた。


34. 《卵》

 慌てて打ち直す。指が「カタカタ」と空滑りする。


35. 「分かってるよ」

 彼女は肩をすくめて笑った。その仕草さえ自然で、遠い。


36. □ 窓の外で雨脚が強まり、「ザーッ」と音を立てる。世界の音は大きいのに、胸の内の声はいつも小さい。


37. 「ねえ、今日帰り一緒に傘さして帰ろ?」

 明日香の声。提案は軽い。けれど、受け止める心は重い。


38. 《いっしょ》

 打つとき、胸が「ドクン」と震える。たった四文字に詰め込む願いの大きさが苦しかった。


39. 「やった」

 明日香は嬉しそうに笑った。その声で、雨音が一瞬「スッ」と遠のいた。


40. □ 教室の隅で、他の生徒が「いいな」と囁く。羨望と冷やかし。そのどちらも、障がい者にとっては「チクリ」と刺さる言葉だった。


41. □ 午後の授業。時計の針が「コチ、コチ」と遅く進む。雨の音が単調なリズムを刻み、心臓の鼓動と重なる。


42. □ 黒板の字がにじんで見える。まるで雨粒が文字を溶かしているようだった。


43. 「水城、これ答えわかる?」

 明日香が小声で尋ねる。クラスの喧騒に紛れても、蓮の胸の奥では「ドクン」と響いた。


44. 《……わかんない》

 短い文字。悔しさと情けなさが画面に染み込んでいく。


45. 「じゃあ、私が教えるね」

 明日香の笑顔が近い。近いことが救いであり、同時に痛みでもあった。


46. □ 雨脚がさらに強まり、「ザァーッ」と音を立てる。外の世界は洗い流されていくのに、胸の中の棘は抜けないまま。


47. 《ありがと》

 蓮は画面を傾ける。指が汗で「じっとり」と濡れていた。


48. 「うん、どういたしまして」

 彼女は自然に答える。自然にできることが、羨ましくて眩しかった。


49. □ 教室の窓を雨粒が「ツツーッ」と流れ落ちる。

 未完成の恋模様は、歪んだガラス越しに少しずつ形を帯びていく。


50. □ チャイム「キーンコーン」。放課後が近づく合図。傘を手に取る明日香の姿が、雨上がりの光みたいに眩しく見えた。


51. □ 放課後。校門を出ると、雨はまだ「ザーッ」と降り続けていた。アスファルトに当たる雨粒が「ピシャピシャ」と跳ね返る。


52. 「一緒に帰ろ」

 明日香が傘を「パッ」と開く。布地に落ちる雨音が「トトトッ」と弾み、二人の間に小さな屋根を作った。


53. □ 蓮は自分の傘を取り出す。けれど手が震えて「ガタッ」と傘の骨が外れてしまう。指が思うように動かず、焦りだけが胸を締め付ける。


54. 「あっ……」

 明日香が気づいて近づく。彼女の指が「カチッ」と器用に傘の留め具を直す。何気ない動作。それが自分にはできないこと。


55. 《ごめん》

 画面に浮かんだ二文字。胸の奥では「悔しい」「情けない」が波のように押し寄せていた。


56. 「謝らなくていいよ。私、こういうの得意だから」

 明日香の声が軽く響く。優しさに救われながらも、「頼るしかない自分」への嫌悪がじわりと広がった。


57. □ 二人で並んで歩き出す。雨粒が傘に当たり「トントン」と奏でる。歩幅は少しずつ合っていった。


58. 「ねぇ、傘、こっち一緒に入る?」

 明日香の問いに、蓮は驚いて足を止めた。心臓が「ドクン」と大きく跳ねる。


59. 《……いいの?》

 指が震え、打つのに時間がかかる。やっと出せた文字は、雨音にかき消されるくらい小さかった。


60. 「もちろん」

 彼女は笑い、蓮の傘の柄をそっと押して自分の方へ寄せた。肩と肩の距離が縮まり、雨音が一つに溶けていく。


61. □ 二人の靴が「ピチャ、ピチャ」と水たまりを踏む。街灯が濡れた路面を照らし、反射した光が二人の影を長く伸ばした。


62. 「ね、水城くん」

 明日香が小声で話す。声は雨に混じって「すうっ」と耳に届く。


63. 「雨の日って、なんか特別な感じしない?」

 蓮は画面を開く。指先は「プル」と震えながらも、必死に言葉を探した。


64. 《すき じゃない》

 出てきた文字に、自分で驚く。


65. 「あ、そっか」

 明日香は少し笑って「うん、分かるよ」と頷いた。その優しさがまた胸を「ギュッ」と掴んだ。


66. □ 道端の水たまりに映る二人の影。傘に隠れて顔はよく見えない。けれど距離だけは確かに近かった。


67. 《でも きょうは すき》

 蓮は勇気を振り絞って打った。指が画面を押すたびに心臓が「ドクン、ドクン」と鳴った。


68. 「え……」

 明日香の瞳が大きく開き、それから「ふふっ」と柔らかく笑った。


69. 「私も。今日の雨、ちょっと好きかも」

 その言葉が雨音よりも鮮明に、蓮の胸に響いた。


70. □ 横断歩道の信号が「ピッ、ピッ」と鳴る。渡り始めると、傘の端が少しぶつかり「コツン」と音を立てた。


71. 「ね、水城くん」

 彼女が急に立ち止まる。蓮もつられて足を止め、胸が「ドクン」と跳ねた。


72. 「もし、声が出せたら……最初に何言いたい?」

 その問いが雨音を突き破り、真っ直ぐ心に突き刺さった。


73. □ 喉が熱くなる。言葉が出ない自分を、改めて突きつけられるようで、胸が「ズキリ」と痛んだ。


74. 《……ありがとう》

 時間をかけて打った二文字。これが精一杯だった。


75. 「そっか」

 明日香は少し目を伏せ、それから笑った。笑顔に雨粒が光って「キラリ」と滲んだ。


76. □ 二人はまた歩き出す。雨脚は弱まり、道端の紫陽花が「ポタリ」と水滴を落とす。


77. 「水城くんって、優しいよね」

 何気ない言葉に胸が「ギュッ」と締め付けられる。優しいのではない。ただ弱いだけだ。


78. 《やさしくない》

 反射的に打って見せる。心臓が「ドクン」と強く震えた。


79. 「ふふっ、そういうとこが優しいんだよ」

 明日香は楽しそうに笑う。蓮はその笑顔に救われながら、同時に自分を責める声を止められなかった。


80. □ 雨上がりの匂いが「スッ」と鼻を抜ける。どこか新しい季節の匂いが混じっていた。


81. 「明日、晴れるといいね」

 明日香の声に、蓮はゆっくり頷いた。


82. 《あしたも いっしょ》

 画面に浮かんだ文字。打った瞬間、顔が熱くなった。


83. 「うん、もちろん」

 明日香が笑顔で答える。その笑顔は、雨上がりの空に差す光みたいに眩しかった。


84. □ 分かれ道に差し掛かる。街灯が「ジジッ」と点滅し、濡れた路面を金色に染めていた。


85. 「じゃあ、また明日ね」

 明日香が手を振る。水滴が指先から「ポタリ」と落ちる。


86. 《また あした》

 蓮は画面を差し出し、小さく頭を下げた。


87. □ 一人になった途端、胸に重さが戻る。さっきまでの笑顔は確かに嬉しかった。けれど、それを受け止めきれない自分が嫌いだった。


88. □ 家の玄関「ガチャ」。湿った空気がまとわりつく。


89. 「おかえり」

 親の声。優しいけれど、やはり会話は続かない。


90. 「今日はどうだった?」

 問いが飛んでくる。蓮は口を開くが、声にならず「ヒュッ」と息だけ漏れる。


91. 《たのしかった》

 画面に打って差し出す。


92. 「……わかった」

 親は微笑んで頷く。分かっていないのに、分かったで終わる。会話の形だけがそこに残る。


93. □ 蓮は部屋に戻り、ドアを「ピタリ」と閉めた。机にタブレットを置き、深く呼吸を整える。


94. □ ペン先が「カリカリ」と走る。字は歪む。努力は灰になる。それでも止められない。


95. □ ベッドに「ドサッ」と横になる。天井の模様が「グルグル」と揺れ、昼間の光景が頭の中で「リフレイン」する。


96. 《ありがトゥ》

 ふざけた綴りを画面に打ってみる。笑いに逃げたくなる夜もある。


97. □ けれど、今日は違った。笑いと一緒に、確かな温もりも残っている。


98. □ 雨音が弱まり、「ポタ、ポタ」と最後の滴が屋根から落ちる。


99. □ 未完成の恋模様は、雨粒に洗われて、少しずつ形を帯びていく。


100. □ 「スー……ハー……」

 呼吸の音に混じって、明日香の笑顔が心に残った。雨上がりの夜空に、淡い希望がにじんでいた。

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