雨音の鎖
川北 詩歩
影の鎖
雨が降りしきる夜、彩子は古いアパートの階段を上った。足音が湿ったコンクリートに響き、胸の鼓動を掻き消すように。二十八歳の彼女は、ようやくこの街から逃れられる。スーツケース1つを引いて、母の住む家に別れを告げるためだけに帰ってきた。
母、恵子はリビングのソファに座っていた。テレビの光が、彼女の皺だらけの顔を青白く照らす。彩子が入ると恵子はゆっくりと顔を上げた。その目はいつものように鋭い。
「遅かったわね。仕事でまた失敗したの?」
彩子は息を詰めた。子供の頃からこの言葉は日常だった。学校の成績が少しでも落ちれば「お前は私の子じゃないみたい」と吐き捨てられ、友達と遊べば「そんな遊び人になるなんて、私の育て方が悪かったの?」と責められた。
父は早くに去り、恵子は彩子を「自分の人生の失敗の象徴」として扱った。彩子の夢―—イラストレーターになること—―は、いつも「そんなものより、安定した仕事にしなさい」と踏みにじられた。
彩子は自分を責め、夜中に泣きながらスケッチブックに逃げ込んだ。そこだけが、母の影から守ってくれる彩られた場所だった。
「母さん、話があるの」
彩子はソファの向かいに座った。手が震え、膝の上で握りしめる。
「私、もうここにいられない。明日、東京に引っ越すの。新しく仕事も決まった」
恵子の目が細くなる。
「何? ふざけないで。あなた一人で何ができるの? 私がいなきゃ、すぐに路頭に迷うわよ。お金も出してあげてるのに、恩知らず!」
言葉が矢のように飛んでくる。彩子は胸が締め付けられるのを感じた。
――恩?
それは『鎖』だった。美大への進学を諦めさせ、母の近くの会社に就職させたのも、彩子の給料を「家計のため」と吸い取ったのも、すべて恵子の「愛」の名の下に。
彩子は鏡を見るたび、自分が消えていくのを感じた。笑顔はなくなり、夢は埃をかぶった。
「違う。あなたは私を愛してない。ただ、自分の延長線上に乗せてるだけ。私の人生を、コントロールしてるの。私はもう縛られない」
顔を真っ赤にした恵子が立ち上がり、老いた皺だらけの指が彩子の腕を掴む。
「何よ、それ! 私がどれだけ犠牲になって育てたと思ってるの? お前のせいで、私の人生はめちゃくちゃよ!」
痛みを無視して彩子は腕を振り払った。初めての抵抗。恵子の目が驚きに揺れる。
「犠牲? それはあなたの選択よ。私はただ、普通に生きたかっただけ。イラストを描いて、自由に笑いたかった。でも、あなたはそれを許してくれなかった」
部屋に沈黙が落ちた。雨音だけが静かに窓を叩く。恵子は座り込み、顔を覆った。
「…私だって、苦しかったのよ。あなたのお父さんが去ってから、誰もいなくて…」
彩子は母の肩に触れそうになり…止めた。哀れみは、毒の延長だ。
「それはわかる。でも、それで私を傷つけるのは、もう終わり。さよなら、母さん」
スーツケースを引いて、彩子はドアを開けた。外の空気が冷たく頰を撫でる。振り返ると恵子はソファに崩れ、ただ呆然と見つめていた。硬い鎖がようやく切れた瞬間だった。
電車の中で、彩子はスケッチブックを開く。窓に映る自分の顔は、久しぶりに穏やかだった。
新しい街で彼女は描き始める。母の影のない、澄んだ色の世界を。
(終)
雨音の鎖 川北 詩歩 @24pureemotion
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