第8話:バタン、そして余韻

プールサイドからロッカー室に戻ると、空気が一変した。

昼間の熱気が嘘のように消え失せ、代わりに、ひんやりとした冷気が肌を包み込む。ロッカーの金属特有の冷たい匂いが鼻腔をくすぐり、床に溜まった水滴の湿り気が足元から這い上がってくる。視界の隅には、誰かが無造作に脱ぎ捨てたジャージが、くしゃくしゃに転がっていた。それは、まるで今日の練習の痕跡を物語るかのように、生々しく、そこに存在していた。古びた蛍光灯が「ジィィィ…」と鈍い音を立て、その不協和音は、静寂の中でやけに大きく響く。まるで、この場の静けさを一層際立たせるための、BGMのようだった。


鼻腔をくすぐるのは、濡れたタオルに染み込んだ塩素系の消毒液と、汗とシャンプーが混ざったような、どこか生々しい匂いの層。遠くのシャワー室から、水滴がコンクリートの床に落ちる音が、ポタ、ポタと不規則に響く。その反響がロッカー室全体を冷たい音で満たし、俺たちの心臓の鼓動までをも、その冷たいリズムで刻み始めるかのようだった。


俺たちの呼吸音が、やけに大きく聞こえる。

俺の呼吸は、緊張で速く、乱れている。胸の奥が、何か得体の知れない不安で締め付けられ、心臓がバクバクと暴れ狂っていた。それは、まるで、自分の感情が制御不能に陥る前の、最後の警告信号のようだった。

一方、先輩の呼吸は、まるで何事もなかったかのように、静かで、落ち着いていた。その静けさが、逆に俺の焦りを増幅させる。俺が着替えのためにジャージを掴むと、布が擦れるゴソ、という音が、この静寂の中では、爆発音のように感じられた。耳の奥で、その音が何度も反響し、俺は自分の存在の大きさに、居たたまれない気持ちになった。


俺は、震える手で自分のロッカーを開け、中から着替えを取り出した。互いに言葉はなく、ただ、ロッカーを開け閉めする金属音が、カシャン、カシャンと虚しく響く。


今日の練習で、俺の体はもう限界だった。

肩は鉛のように重く張り、足の震えが止まらない。筋肉が、今にも痙攣しそうになる感覚。濡れたシャツが皮膚に張り付き、その冷たさが俺の体を芯から冷やす。Tシャツを脱ぎ捨てる瞬間、肌に張り付いた生地が剥がれる、バリ、という音が、神経を逆撫でするように響いた。指先は冷え切っているのに、手のひらには汗がじんわりとにじみ、ジャージがしっとりと重く感じられた。汗が乾き、皮膚に塩のように浮いているのがわかる。その塩の結晶は、今日の努力と、そして、この瞬間が終わってしまうかもしれないという、焦燥の証のようだった。


ロッカーの扉を閉めると、鏡に映る自分の顔が見えた。その顔は、疲労と不安で歪んでいる。その横には、穏やかな表情で着替えをする先輩の姿が映っていた。その対比が、俺の心をさらにかき乱す。


(これで、終わりなのかな…)


思考が、再び暴走を始める。それは、まるで、思考の迷路に迷い込んだような感覚だった。

(大会は終わった。俺たちのシンクロは、最高の形で完結した。……明日から、先輩はもう俺を必要としてくれないのでは? いや、そんなはずはない。だって、俺たちは、あんなにも最高の演技を、二人で作り上げたんだ。…でも、もし…? もし、今日この特別な瞬間が、先輩にとってただの「過去」になったら…? 俺はまた、独りぼっちに戻るのか? あの日の、プールの底で、ただひたすらに、孤独に耐えていた俺に…。)


フラッシュバックのように、過去の光景が脳裏に蘇る。水中で、誰にも見られず、ただ一人で息を止めていたあの日の記憶。その孤独が、再び俺の心を蝕み始める。いやだ、それは絶対いやだ。俺は、震える手で、自分のジャージを掴んだ。その布の感触が、俺を現実に引き戻す。ロッカー室に、俺たちの呼吸音だけが響く。遠くで、蛍光灯がジリ、ジリと音を立て続けている。


先輩が、先に着替えを終え、ロッカーを閉めた。


カシャン、と、金属音が響く。


その音が、まるで、この物語の最後のページが閉じられる音のように、俺の心臓を、ドクンと大きく跳ねさせた。

先輩は、何も言わずに、出口へと向かう。


(……このまま、終わりたくない。もっと、先輩と一緒にいたい…)


言葉が、喉まで出かかっているのに、どうしても口にすることができない。

そして、先輩が、扉に手をかけた。


扉に伸ばされた先輩の手が、かすかに震えているように見えた。その手の甲に浮き出た血管、関節が白くなるほどの力の入り方。その手は、あの日の夜、俺をプールから引き上げてくれた手だ。そして、温かいココアの缶を渡してくれた手。その手が、今、俺との間に、物理的な壁を作ろうとしている。

蝶番が、微かに、ゆっくりと、きしむ音が聞こえる。ギ、…ギィィィ。その音が、まるで、俺たちの時間が終わりを告げる秒針のように、カチ、カチと刻まれる。


「…せん、ぱい…!」

声を出そうとした瞬間、俺は唇を噛みしめた。喉がひどく渇いていて、声がかすれてしまう。

(ダメだ、こんな時、何を言えばいい? どんな言葉を紡げば、先輩は、俺に微笑んでくれる? もし、先輩が笑ってくれなかったら? もし、このまま、扉を閉めて、俺を切り捨てたら? 俺は、あの時の孤独に、また戻ってしまうのか? 俺は、もう一人じゃないはずなのに…。でも、今なら、変えられるかもしれない…! 俺は、あの時の、何もできなかった俺じゃない…!)


先輩は、扉にかけた手を、わずかに止めた。その一瞬の沈黙が、永遠のように感じられる。その間に、俺の心は、何千もの後悔と、そして、かすかな希望で満たされていく。

外から漏れる廊下の光が、扉の隙間から細く差し込み、二人の体を、まるで切り裂くように揺れる。その光と影の境目が、まるで俺たちの関係性を象徴しているようだった。


そして、先輩が、ゆっくりと、振り返った。

俺の、焦燥と絶望に満ちた顔を見て、彼は、微かに、そして、確かに、微笑んだ。

その笑顔は、氷のように冷たかった彼の表情からは、想像もできないほど、温かく、そして優しかった。


先輩は、何も言わなかった。

ただ、俺の目をまっすぐ見て、静かに、扉を押し開けた。


バタン、と、重い音が響く。その音は、まるで、俺たちの未来が、今、開かれたことを告げるように、俺の心に深く、深く響いた。それは、終わりの音ではなく、始まりの音だった。

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シンクロナイズドダイビング ーゼロ距離の呼吸ー 五平 @FiveFlat

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