第5話:共振する鼓動、共鳴する水音
事故から一週間。
俺は、もうプールサイドに立つことに、怖さを感じなくなっていた。いや、正確には、怖さはまだある。だが、それよりも、あの青い水の中に飛び込みたいという欲求の方が、勝っていた。それは、氷室先輩が俺に吹き込んでくれた、新しい命の衝動だった。
「…大丈夫か?」
氷室先輩が、隣で声をかけてきた。その声は、相変わらず感情を読み取ることができない。だが、俺にはわかった。彼は、俺のことを気にかけている。その視線が、俺の背中を押してくれた。
「はい。大丈夫です」
俺は、そう答えると、飛び込み台へと向かった。
今日の練習は、シンクロナイズドダイビング。事故以来、初めてのペアでの練習だった。
コーチは、俺たちのことを心配して、別のペアを組ませようとした。だが、俺がそれを断った。
「氷室先輩と飛びたいんです」
俺の言葉に、氷室先輩は、一瞬だけ目を見開いた。その表情に、俺は、微かな驚きを見た気がした。
俺たちは、再び、飛び込み台の上に立った。
十メートル。
その高さは、俺にとって、まだ恐怖の対象だった。
だが、隣には、氷室先輩がいる。その存在が、俺に勇気をくれた。
俺たちは、お互いの呼吸を合わせるように、深く、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「行くぞ」
氷室先輩が、小さくそう呟いた。
俺は、頷いた。
1、2、3、…
カウントを刻む。
俺たちの体は、同時に空を舞った。だが、やはり、うまくいかない。
空中での姿勢が、わずかにずれる。
着水時の飛沫が、バラバラに散る。
「……ダメだな」
氷室先輩が、そう呟いた。その声には、苛立ちの色はなかった。ただ、事実を淡々と述べているだけだった。
「すみません……」
「お前のせいじゃない。…俺が、お前に合わせようとしすぎた」
氷室先輩が、そう言って、俺の目をまっすぐ見つめた。
その視線に、俺は、何かを悟った。彼は、俺の「感覚」を理解しようとしすぎて、自分の「理論」を、無理やりねじ曲げていたのだ。
---
俺たちは、何度も、何度も、飛び込みを繰り返した。
二度目。
「1、2、3…」
再び、カウントに合わせて飛び出した。空中での姿勢は、さっきよりもほんのわずかだけ、近づいた。
だが、着水した瞬間の、耳に響く鈍い衝撃音と、バラバラに散った水しぶきが、俺たちの失敗を告げていた。
水面に顔を上げると、先輩は無言で首を振った。その表情は、俺には読めなかった。
三度目。
飛び込み台に立つだけで、心臓がドクンと音を立てる。
(…もし、このまま、ずっとシンクロできなかったら?)
思考の暴走が始まった。
(俺たちは、一生、このズレを埋められないのかもしれない。先輩は、俺に失望して、いつか俺のそばを離れてしまうのかもしれない。俺は、また、独りぼっちになるのか? いやだ、それは絶対いやだ!)
足が震え出す。恐怖が、全身を支配しようとする。
「…どうした?」
先輩の声が、俺の耳元で聞こえる。
「なんでも、ないです」
俺は、必死に震えを抑え、飛び出した。
四度目、五度目…
水面に飛び込むたびに、鼻の奥にツンとくる塩素の匂い、全身を襲う水の重み、そして、耳の中でゴボゴボと鳴る水音が、俺の心をかき乱す。
俺は、もうダメかもしれない。そう思った時、ふと、横目で先輩を見た。
彼の顔には、疲労の色が滲んでいた。目の下のクマは、先週よりも濃くなっている。
その時、俺の心に、別の感情が芽生えた。
(俺は、先輩の時間を奪っている? 先輩は、俺のために、ここまでしてくれているのか?)
俺は、先輩に、これ以上無理をさせたくなかった。
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その頃、プールサイドでは、双璧ペアが俺たちを観察していた。
「…おい、見ろよ。あいつら、まだやってるぜ」
「バカじゃないか? あんなにズレてるのに。あんな奴と組むなんて、氷室も落ちたもんだな」
彼らの声には、嘲笑の色があった。
だが、彼らは気づいていなかった。俺たちのシンクロは、ただの「失敗」ではないことを。
俺たちは、失敗するたびに、お互いの感覚を、理論を、そして心を、少しずつ理解し始めていた。
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「…先輩。俺、先輩の飛び方を、教えてください」
俺は、そう言って、頭を下げた。
先輩は、驚いたように目を見開いた。
「俺は、感覚でしか飛べません。でも、先輩の理論を学べば、俺たちのシンクロは、もっと完璧になるはずです」
俺の言葉に、先輩は、何も答えなかった。
ただ、静かに、俺の顔を見つめていた。その瞳の奥に、俺は、微かな光を見た気がした。
その日から、俺たちの練習は、変わった。
先輩は、俺に、飛び込みの「理論」を教えてくれた。
水の抵抗、空気の抵抗、重力の計算、そして、着水時の角度。
すべてが、俺の感覚とは真逆だった。
だが、不思議と、その理論は、俺の心にすとんと落ちていった。
そして、俺は、初めて、先輩の「飛び方」を理解した。
彼は、決して、感覚で飛んでいるわけではなかった。
彼の飛び込みは、すべて、計算され尽くした、完璧な方程式だった。
その完璧さが、俺には、ただの「才能」に見えていただけだったのだ。
俺たちは、何度も、何度も、一緒に飛んだ。
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最初は、ぎこちなかった俺たちのシンクロは、徐々に、完璧に近づいていった。
俺の感覚と、先輩の理論が、一つになった瞬間、俺たちの体は、空中で、まるで一つの生き物のように、滑らかに動いた。
着水時の飛沫は、まるで一つの水しぶきのように、美しく、そして、静かに散った。
その瞬間、俺の耳には、心臓の鼓動が、先輩の鼓動と共鳴しているのが聞こえた気がした。
「……すごい」
俺は、思わず、そう呟いた。
先輩は、何も言わなかった。ただ、満足そうに、俺の顔を見ていた。
その表情に、俺は、彼の心の中に、俺と同じような、安堵の気持ちがあることを感じ取った。
その日の練習後、俺は、先輩に尋ねた。
「先輩は、どうして、飛び込みを続けているんですか?」
先輩は、少しだけ、沈黙した。
濡れた髪をタオルで拭う彼の仕草は、どこか遠くを見つめているようだった。
ロッカー室の静寂が、二人の間に広がる。
そして、遠くを見つめたまま、静かに、そう答えた。
「俺には、まだ、一緒に飛ぶべき相手がいるからだ」
俺の心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。
その言葉が、俺たちの絆を、より強く結びつけてくれたような気がした。
その夜、俺は、なかなか眠れなかった。
布団に横になり、目を閉じると、先輩の言葉が、何度も脳裏にこだまする。
「俺には、まだ、一緒に飛ぶべき相手がいるからだ」
それは、誰のことだろうか。
俺のことなのか? それとも、別の誰か?
その言葉に、俺は、希望と同時に、漠然とした不安を感じていた。
先輩の「まだ」という言葉が、俺の心を締め付ける。
まるで、いつか、この関係が終わってしまうことを示唆しているかのようで。
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