第4話:見えない絆、見えない傷

事故から三日。

俺は、幸いにも大事には至らなかった。頭部を軽く打っただけで、意識を失ったのは一時的なものだったらしい。大事を取って、二日間の入院を経て、今日から練習に復帰することになった。


プールサイドに立つ。

水の匂い、塩素の匂い、そして、微かに漂う、消毒液の匂い。

すべてが、あの日の記憶を呼び覚ます。

背中に、嫌な汗がじわりと滲んだ。


(大丈夫だ。俺は、もう一人じゃない)


そう心の中で呟くと、少しだけ、足の震えが収まった。だが、それは一時的なものだった。

練習着に着替え、プールサイドに出ると、みんなが、心配そうな目で俺を見ていた。その視線が、針のように俺の心を刺す。


「大丈夫かよ、お前」

「無理すんなよ」


心優しい仲間たちの声が、俺の耳に届く。その声には、確かに安堵の色があった。だが、その背後に隠された、別の感情の存在を、俺は感じ取らずにはいられなかった。

彼らの視線は、まるで俺が、ガラスの壁の向こう側にいる存在であるかのように、どこか距離があった。まるで、俺という存在が、プールサイドに立ち続けるべき「資格」を失ったかのように。


「…はあ、やっぱりな。あいつ、まだビビってるよ」


背後から、ひそひそと囁く声が聞こえる。それは、陰口というよりも、ただの事実の確認。


「当たり前だろ。あんな大怪我、普通ならもう辞めるって言い出すレベルだぜ。根性なしだな」


その声が、俺の心を深く抉った。彼らにとって、俺の失敗は、ただの「心配をかけたこと」ではなく、俺の「脆さ」を証明するものだった。俺は、彼らの視線から逃げるように、うつむいた。彼らにとっては、俺はただの「失敗したやつ」。ただの「心配をかけたやつ」でしかない。その視線の中に、わずかに混ざる軽蔑の色。それが、俺の心を、深く冷やしていく。


その時、一人の人間が、俺の前に立った。

氷室先輩だった。

彼は、何も言わなかった。ただ、まっすぐ俺を見つめている。

その視線に、俺は思わず後ずさりそうになった。

彼は、少しだけ、顔色が悪かった。目の下に、うっすらとクマができていた。まるで、俺が退院するまで、ずっと起きていたかのようだった。


---


氷室は、震える手で、近くの自販機に硬貨を滑り込ませた。

吐き出された缶ココアの温かさが、掌にじんわりと染み渡る。


(…大丈夫だ。俺は、大丈夫だ)


そう、自分に言い聞かせる。

眠れなかった夜が、三日続いた。目を閉じれば、あの日の光景がフラッシュバックする。

水中に沈んでいく、あの頼りない体。伸ばした手が、あと一歩届かないという焦燥。

そして、ようやく引き上げた時の、冷え切った体と、脈打たない心臓。

自分の手で、何度も、何度も胸骨を圧迫した。

その感覚が、まだ、指先に残っている。


(…もし、間に合わなかったら…)


その思考は、氷室にとって、絶対に触れてはならない、暗い深淵だった。

だからこそ、彼は、この数日間、あえて感情を殺し、ただ、静かに、後輩の回復を待っていた。

感情は、彼にとって、何よりも危険なものだった。


だが、今、目の前に立つ、あの頼りなげな背中を見て、胸の奥で、何かが疼く。

「無理はするな」

ぼそりと呟いた声は、いつもよりもずっと低く、どこか掠れていた。

その声に、彼は驚き、顔を上げた。

俺は、言葉を失った。

氷室は、視線を逸らし、近くにあったベンチに座る。そして、温かい缶ココアを差し出した。


それは、自販機で買ったココアだった。


---


「……ありがとうございます」


俺は、震える手でそれを受け取った。ココアの温かさが、俺の掌にじんわりと染み渡っていく。

缶の縁から、甘く、まったりとした香りが漂う。それは、あの時、人工呼吸で先輩から送られてきた、どこか懐かしい、清潔な水の匂いと、無意識に重なった。


(…ん? ココアの匂い…なのに、なぜか、あの時の感触が蘇る。温かくて、少し湿っていて、俺の命を繋いでくれた…)


思考の歯車が、カタカタと音を立てて回り始める。


(…いや待て、あれは人工呼吸だ。救命行為。ココアの甘い匂いと、そんな神聖な行為を重ねるなんて、不謹慎すぎるだろ。俺、一体何を考えているんだ…!)


俺は、慌てて頭を振った。だが、一度始まった連想ゲームは、簡単には止まらない。


(…もしかして、あの人工呼吸は、ただの救命行為じゃなかったのか? 先輩は、俺を助けるために、あれをしたのか? それとも…)


そこまで考えて、俺はハッと息をのんだ。俺は、先輩の行為に、勝手な意味付けをしようとしている。そんな、烏滸がましいことは、許されない。先輩は、ただ、俺の命を救ってくれただけだ。


俺は、温かいココアを一口飲んだ。

その時、俺の視線は、彼の手に釘付けになった。

彼の指が、わずかに、震えていた。

それは、あの事故の時、俺を救い上げた時の、あの震えだった。

俺は、思わず、彼の顔を見た。

彼は、俺から視線を外し、遠くを見つめていた。その瞳は、まるで、遠い過去を映し出しているかのようだった。


(…もしかして、あの事故は、先輩のトラウマを呼び起こしたのか?)


俺の心に、一つの疑念が生まれた。

俺は、弱々しい声で、彼に尋ねた。


「あの……先輩は、何か、怖いこと、ありましたか?」


先輩は、何も答えなかった。

ただ、遠くを見つめたまま、静かにココアを飲んだ。

その沈黙が、俺に、彼の過去の傷を物語っているようだった。

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