第6話:最後の大会、最後の試練

大会当日。

会場全体が、熱気と興奮に包まれていた。

天井に設置された巨大な照明が、プール全体を白く照らし、水面に反射した光が、まぶたの裏に焼き付く。その光は、まるで俺たちの未来を試すかのように、まぶしく輝いていた。

観客席のざわめきが、まるで巨大な生き物の鼓動のように、スタジアム全体に響き渡る。遠くから聞こえる歓声と、プールの水が揺れる鈍い音。そして、鼻腔をくすぐる塩素と消毒液のツンとした匂い、それに混じる、選手たちの汗の匂い。そのすべてが、俺の心を高揚させる一方で、かすかな恐怖を呼び起こした。


あの事故以来、俺は高飛び込み台に立つことはなかった。だが、今日は違う。今日は、氷室先輩と二人で、十メートルの高みから飛ぶのだ。


開会式が終わり、選手たちの入場が始まる。

俺たちのチームメイトが、一人ずつ名前を呼ばれ、プールサイドに姿を現す。その中には、双璧ペアの姿もあった。

彼らは、まるで儀式に臨むかのように、静かに、そして完璧なフォームで、飛び込み台へと向かう。観客は、彼らが飛び込むたびに、歓声を上げた。彼らの飛び込みは、一ミリの狂いもなく、まるでコンピューターが計算したかのように、美しく、そして静かだった。彼らの着水は、まるで音もなく、水面がただ揺らぐだけだった。そのあまりの完璧さに、会場からは息をのむ音が漏れる。


「…大丈夫か?」


氷室先輩が、隣で声をかけてきた。その声は、相変わらず感情を読み取ることができない。だが、俺にはわかった。彼は、俺のことを気にかけている。その視線が、俺の背中を押してくれた。


「はい。大丈夫です」


俺は、そう答えると、飛び込み台へと向かった。

飛び込み台の表面のざらつきが、足裏から伝わってくる。その感触が、俺の体を現実へと引き戻す。

俺たちの順番が、ついにやってきた。

アナウンスが、俺たちの名前を告げる。


*


俺たちは、再び、十メートルの飛び込み台の上に立った。

真下に広がるプールの青が、まるで底なしの深淵のように見えた。

観客席からのざわめきが、遠い雷鳴のように耳に届く。


(大丈夫だ。俺には、先輩がついている)


俺は、そう心の中で唱え、恐怖を押し込めた。

俺たちは、お互いの呼吸を合わせるように、深く、ゆっくりと息を吸い込んだ。


「行くぞ」


氷室先輩が、小さくそう呟いた。その声には、いつもとは違う、確かな決意が宿っているようだった。

俺は、頷いた。


1、2、3、…


カウントを刻む。

俺たちの体は、同時に空を舞った。


---


空中での数秒間が、まるで永遠のように感じられた。

飛び込み台を蹴り、空中に放り出された瞬間、俺の視界は、スローモーションになった。

まず、足の裏から伝わる、飛び込み台のざらつきが消え、無重力の解放感に包まれる。

次に、風が、頬を撫で、髪を揺らす感触。

プールサイドにいるコーチや仲間たちの顔が、一瞬だけ、俺の視界を通過していく。彼らの表情は、祈るようでもあり、どこか諦めているようでもあった。

ふと、隣にいる先輩を見た。彼の表情は、完璧なまでに冷静だった。だが、その瞳の奥に、俺は、微かな光を見た。それは、俺と同じ、この瞬間にすべてを賭ける、剥き出しの感情。


(…もし、このまま失敗したらどうなる? 先輩は、俺に失望するだろうか? 俺は、また独りぼっちになるのか? いやだ、それは絶対いやだ!)


思考の暴走が始まった。


(俺たちは、もう一人じゃない…! 先輩の理論、俺の感覚、そして、あの時、先輩が俺に吹き込んでくれた、命の鼓動…!)


俺は、先輩の教えてくれた理論を思い出す。空気の抵抗、重力の計算、すべての数値を頭の中で反芻する。同時に、全身の筋肉が、まるで生き物のように、最適な動きを模索する。

俺の体が、先輩の体に、完璧にシンクロする。

まるで、二つの光の線が、一つに重なり合うように。


---


着水。

その瞬間、すべての音が消えた。

耳を覆う水の静寂。全身を包み込む水の圧力。

そして、水面に広がる、たった一つの、静かで美しい水しぶき。


水中で、俺たちは、お互いの手を握った。

それは、言葉を必要としない、固い絆の証だった。

水中で見る光は、まるで遠い星のようだった。泡の一粒一粒が光を反射し、まるで夜空に散らばる星座のように輝いていた。その光景は、あの日の事故の時と、全く同じだった。

だが、その時と違うのは、俺はもう独りじゃない、ということ。

俺の隣には、先輩がいる。

俺の耳には、心臓の鼓動が、先輩の鼓動と共鳴しているのが聞こえた気がした。


俺たちが水面に顔を出すと、会場全体が、静まり返っていた。

いや、それは、静寂というよりも、歓声の前の、息をのむような緊張感だった。

そして、一拍置いて、観客席から、嵐のような歓声が上がった。

それは、まるで、俺たちの成功を、心から祝福しているかのようだった。

静寂を切り裂くように、審判が掲げたスコアは、俺たちがこれまでに見たこともない、最高の点数だった。


水面から顔を上げると、氷室先輩が、俺の顔を見ていた。

彼の唇が、微かに、そして、確かに、弧を描いている。


プールサイドでは、双璧ペアが、信じられないという顔で俺たちを見ていた。

「…どうしてだ? あいつらは、壊れたはずなのに…」

「…いや。壊れたんじゃ、ない。あいつらは、完璧になったんだ」

彼らの声は、俺たちには聞こえなかった。だが、俺にはわかった。

俺たちは、もう「ただの二人」じゃない。

俺たちは、お互いの弱さを補い合い、一つの完璧な存在になったのだ。


---


水中で、俺たちは、お互いの手を強く握りしめた。

俺の目から、温かいものが、流れていく。

それは、勝利の喜びでもあり、先輩への感謝でもあり、そして、この瞬間が、ずっと続けばいいのに、という切ない願いでもあった。


「…先輩。俺、先輩に会えて、本当によかったです」


俺は、そう言って、涙を流した。

先輩は、何も言わなかった。ただ、俺の手を、強く握り返した。


それは、二人にとって、最後の大会だった。

だが、それは、二人の新しい旅の、始まりでもあった。

俺たちは、この先、どんな困難が待ち受けていようと、きっと乗り越えられる。

なぜなら、俺たちには、もう「一人」じゃない、という確信があるからだ。

それは、青い水の中で見つけた、二人の秘密の宝物だった。

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